2-5 それぞれの現状
翔と明日香、蓮が日本に戻ってきて、早いもので5日が経過していた。明日香の方は一向に記憶が回復する傾向は無かったが、徐々に産後の体調不良が回復しつつあった。勿論明日香自身は自分が出産した事を覚えていないので、理由の分からない身体の不調が収まって来たお陰で、大分精神状態は安定しているようですと婦人科の主治医から翔の元に報告が上がってきていた。
明日香の今後の処遇について困り果てていた翔は取りあえず別の精神科の主治医との相談の上、神奈川にある自然にあふれた場所に建てられた温泉付き精神療養病棟に明日香を1月程入院させて様子を見る事にしたのだ。
てっきり翔と秘書の姫宮は明日香が療養病棟に入院する事を拒むのでは無いかと思ったのだが、明日香自身も10年分の記憶を失っている事で世間とのギャップに困っていた為、入院治療を承諾したのであった―。
一方の朱莉の方だが、蓮を朱莉の家に迎え入れてから困った事態に陥っていた。
それは母の面会に行く事が出来なくなってしまった事である。まだ生後3週間も経過していない蓮を病院に連れて行くわけにはいかないし、それ以前に、朱莉は蓮の存在を母には一切説明していないのである。きっと母が真実を知れば、心を痛めるだろうし、ショックで心臓に負担がかかってしまうかもしれない。そう思った朱莉は翔と明日香の子供・・・蓮については一生母には言うまいと心に決めていたのだった。
そして面会に来る事が出来ない言い訳の為に、一応母には時間を持て余してしまっているので仕事を始めたと嘘をついているのだが、やはり朱莉に取っては大切な母である。面会には行きたい。だが・・・。
「お母さんに嘘をつくのは悪いわ・・・。」
翔の方は忙しいのか、あの夜以来尋ねてくる事が無かった。
「もう、こうなったら翔先輩に正直に話して1時間だけでもレンちゃんをお願いするしかないかも・・・。」
朱莉はベビーベッドでスヤスヤと眠っている蓮をみつめながらため息をつき、スマホを手に取った・・・。
その頃、翔はオフィスで仕事をしていた。秘書の姫宮は総務課に用事があって席を外していた。その時である。
突如として翔のスマホに着信を知らせるメッセージが入って来た。相手は朱莉からである。
「朱莉さん・・・?一体どうしたというんだろう・・・?ひょっとすると蓮の事で何かあったのか・・?」
翔はスマホをタップしてメッセージを表示させた。
『今日は。お忙しいところ、申し訳ございません。実は蓮君の事でご相談したい事があります。お手すきの時にお電話頂けますか?申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願い致します。』
翔はメッセージを読むと首を傾げた。いつもなら要件はメールで済ませている朱莉が今日に限って電話連絡を希望している。
(きっと大事な用事なのかもしれないな・・・。仕事が終わったら電話を入れて・・ついでに蓮の顔を見に部屋へ寄らせて貰おうかな・・。)
蓮に会える・・・。そう思うと、不思議と翔の顔に笑みが浮かんでいた。
明日香の記憶が10年分逆行してからは、翔は1人暮らしをしていた。そして明日香のいない今だからこそ、自由に蓮に会いに行く事が出来たのだが・・・逆に自分が蓮を尋ねて朱莉の部屋へ行こうものなら、迷惑を掛けてしまうのでは無いかと思い、とても自分から蓮に会わせて欲しいと言い出す事が出来なかったのである。
だが・・・。
翔は笑みを浮かべた。
(朱莉さんの方から話があると言われれば・・・それを口実に朱莉さんの部屋へ上がらせて貰って蓮に会う事が出来るな・・・。)
実は翔はあの夜、蓮を胸に抱いたあの時の記憶が忘れられず、もう一度蓮を抱き上げたい思う欲求がフツフツと湧いていたのである。
(そうだ・・・。何とか仕事を早めに終わらせて、蓮の為にプレゼントでも買っていくか・・・。)
取りあえず、翔は今夜蓮の顔を見たいので部屋に寄らせて貰いたいとの主旨のメールを送ると、再び仕事を再開させた―。
18時―
会社を出た翔は車内にある地下駐車場へ向かいながら、スマホの電源を入れて驚いた。
何と10件以上、琢磨から電話がかかって来ていたのである。午後からは大事な社内会議があり、その会議は17時まで行われていたのだ。その為、翔はスマホの電源を今まで切っていたのだが・・・・。
「琢磨・・あいつだって社長と言う立場で多忙なくせに・・・よくもこんなに何度も俺に電話を入れて来たな・・・。」
独り言のように呟きながら、翔は一度スマホをポケットに入れた。そして駐車場へ着くと車に乗り込み、琢磨に電話を掛けた。
「この時間は忙しいかもしれないな・・・。」
恐らく琢磨は電話に出ないだろう、だから留守電にでもメッセージを残しておこうと翔は思っていたのだが、何コール目かの呼び出し音の後、受話器越しから突然琢磨の声が聞こえてきた。
『もしもし、翔だなっ?!』
受話器越しから聞こえて来た琢磨の声は苛立ちと・・・怒りが込められている。
「何だよ、琢磨。電話に出た早々・・・やけに機嫌が悪そうだな?何かあったのか?」
琢磨は翔の物言いが気に入らなかったのか、より一層声を荒げて言った。
『機嫌が悪そう?当然じゃないかっ!毎日毎日、どれだけ明日香ちゃんから俺のところに連絡が来ているか知ってるのか?メールも電話も毎日10回以上来るんだぞ?!こっちは幾ら仕事が忙しいって言っても、ちっとも信じようとはしないしっ!』
「そ、そうなのか・・・?ちっとも知らなかったよ。」
翔は返事をしながら、心ならずと傷付いていた。
(明日香・・・俺には一度も電話どころかメッセージすら送って来ないのに・・琢磨の所にはそんなに連絡を入れていたのか・・・。)
『おい?聞いてるのか?翔!』
翔からの返事が反って来ないので受話器越しの琢磨の声はますます苛立ちが募っているのが分かった。
「あ、ああ。勿論聞いてるさ。それで、明日香はなんて言って来てるんだ?」
『ああ。それが・・・。』
そこまで言いかけて、不意に琢磨が溜息をついた。
「どうした?」
『会社から電話が入った。悪いが一度切らせてもらうが・・後で絶対に連絡を入れるからなッ?!』
それだけ言い残すと電話は切れた。
「全く・・・琢磨は何故あんなにイライラしているんだ・・・?」
翔は首を傾げながら、シートベルトを締めるとエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。
(取りあえず・・・デパートのベビー用品売り場に行ってみるか・・・。どんなおもちゃを買って行ってやろうかな・・・。)
先程、明日香が自分には全く連絡を寄こさない事について翔は重たい気分になっていたのだが、今は蓮にもうすぐ会えると思うだけで、心が軽くなり、弾んだ気分になり始め、いつしかその顔には笑みが浮かんでいるのだった—。
午後8時―
ピンポーン。
朱莉に部屋にインターホンが響き渡った。丁度朱莉は蓮に授乳の最中で、蓮を抱きながらモニターを確認すると、そこには翔が立っていた。
「こんばんは。どうぞ中へお入り下さい。」
朱莉がドアを開けると、翔は朱莉の腕の中にいる蓮に気が付いた。
「こんばんは、朱莉さん。そうか・・ミルクの時間だったのか?すまなかった、タイミングが悪かったかな?」
「いいえ、そんな事はありません。どうぞ中へお入りください。」
朱莉は笑顔で翔を玄関に上げる。
「お邪魔します。」
靴を脱いで上がると、翔は躊躇いがちに言った。
「それじゃ・・すぐに手を洗ってくるかな?蓮を・・・抱きたいんだ。いいかな?」
「ええ、勿論です。」
「ありがとう、朱莉さん。」
翔は笑顔で朱莉に礼を言うと、洗面台へと姿を消した。そんな翔の後姿を見つめながら、朱莉は胸を高鳴らせていた。
(翔先輩が・・・あんなに嬉しそうな笑顔を始めて見せてくれた・・・。)
「きっと・・・レンちゃんのお陰だね・・・。」
そっと呟くと朱莉はミルクを飲んでいる蓮を見て微笑むのだった—。
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