9-10 航の変化
翌朝―
「・・・君。航君・・。」
誰かが呼ぶ声で航はゆっくり目を開けると、何とそこには朱莉が航を覗き込むように見下ろしていた。
「な・な・なんだよっ!お・・・驚かすなよっ!」
航はガバッと起き上がると朱莉に抗議した。
「あ・・ごめんね。勝手に部屋に入ったりして・・・。ただ、今朝は何時に起こせばいいのか分からなかったから・・・。」
「え・・・?」
航は慌てて部屋にかけてある時計を見ると驚いた。何と時刻は8時を過ぎている。
「や・・やべっ!寝過ごしたっ!」
そして飛び起きようとして・・・朱莉を見た。
「おい、いつまでここにいるんだよ・・・。」
「え?何時までって?」
「俺・・・着替えたいんだけど。」
「あ・・・ごめんね。気付かなかった。すぐ出るね。」
朱莉は立ち上がると、素早く部屋の外へ出て、ドアをパタンと閉めると呟いた。
「朝ご飯・・・食べる時間無いかな?」
そこで、朱莉は手早く支度を始めた―。
一方航はかなり焦っていた。
「くそっ!寝過ごすとはっ!」
航は急いで機材のチェックをし、本日の対象者の予定を書き記した手帳を確認する。
「え~と確か・・・今日は古宇利島へ愛人と行くって言ってたな・・・。全く婿養子のくせにいいご身分だ・・・。ッと、こんな事してられない!」
慌てて着替えて、部屋を飛び出して朱莉に言う。
「悪いっ!朱莉。朝飯は・・・。」
航が言いかけた時、朱莉が水筒とランチバックを差し出してきた。
「え・・?」
航が戸惑った顔を見せると朱莉は笑顔で言った。
「食べる時間が無いでしょう?おにぎりと・・・今朝のおかずを詰めたから時間がある時に食べて。一応保冷材はいれてあるけど・・暑いから早めに食べてね。」
「朱莉・・・。」
航は思わず胸に熱いものが込み上げてきて・・・ぐっと拳を握りしめると顔を上げた。
「悪いな、朱莉。ありがと。」
「気にしないで。それじゃ気を付けて言って来てね。」
そして航は笑顔の朱莉に見送られてマンションを後にした―。
航が仕事に出かけた後、朱莉は自分の朝食を食べ、洗濯をしようとして・・気が付いた。
「そうだ・・今日航君が帰ってきたら・・洗濯物の事言わないと。ひょっとして私に気を遣ってコインランドリーを使ってるかもしれないし・・・。」
洗濯物を回し、部屋の掃除をする為に片づけをしているとリビングのソファの椅子の下にチケットらしきものが落ちているのを発見した。
「どこのチケットだろう・・?」
拾い上げてみると、それは朱莉が行きたいと思っていた『美ら海水族館』の半券であた。
「ひょっとすると・・昨日帰りが遅かったのは・・・ここに行ってたのかな・・・?どんな場所だったんだろう・・。帰ってきたら聞いてみようかな・・。」
そして朱莉は航が寝泊まりしている部屋の棚の上に置くと掃除の続きを始めた—。
洗濯物を干し終え、部屋に戻った朱莉はスマホに着信が入っている事に気が付いた。そして着信相手を見て朱莉は驚いた。何と相手は姫宮からだったのだ。
「え・・・?姫宮さん・・・?」
朱莉は急いでメッセージを開いて読んだ。
『朱莉さん、御無沙汰しております。明日香さんの赤ちゃんは順調に育っている様です。このまま予定通り10月に出産する事になると思いますので、お忙しい所大変恐縮ではありますが、少しずつベビー用品の買い出しをお願い出来ますか?後、新しく朱莉さんと副社長の契約婚の書類を作りなおし致しました。PDFファイルでPCのメールアドレスに契約書の内容をお送り致しましたので、目を通して下さい。尚、書類にはパスワードがかけてあります。パスワードは・・・・。」
朱莉は姫宮からのメッセージを確認すると、PCを立ちあげてメールの確認をすると、確かに姫宮から届いている。そしてメッセージを読み、圧縮ファイルを指定されたパスワードで開き。内容を確認し始めた—。
朱莉は今、ベビー用品を取り扱っている専門店へとやって来ていた。
そして買い物リストを見る。
「え・・と・・新生児用の肌着に紙おむつ・・・ベビー布団、ベビーベッド、おくるみ、抱っこ紐・・・。」
揃える品物があまりにも多すぎて、朱莉はクラクラしてきた。けれど・・・。
「フフフ・・・。赤ちゃんか・・・。凄く可愛いんだろうな・・・・。」
だが、朱莉が育てるのは自分で産んだ子供ではない。明日香が産んだ子供なのだ。
そして・・・契約書通りに明日香の子供が3歳になったら、翔と明日香に子供を託し・・・朱莉は離婚をして、あの億ションを出る事になる。
朱莉は溜息をつくと思った。
(きっと・・・3歳で私と別れれば、その子の記憶に私は残る事は無いんだろうな。だったら私との写真は撮ったら駄目だよね。お母さんに写真をもし見せるなら赤ちゃんだけの写真を撮って見せてあげよう・・・。)
つい数年先の未来を思い描き、暗い考えが頭をよぎる。
朱莉は頭を振ると、買い物メモを見ながら、慎重に商品を選び始めた—。
その頃―。
「ふう~・・・疲れた・・・。」
航が機材を抱えながら朱莉のマンションへと帰って来た。
「朱莉?次の仕事まで時間が空いたから一度戻って来たぞ。」
しかし・・・部屋の中はしんと静まり返り、時折ネイビーがおもちゃで遊んでいる音が響くばかりである。
「朱莉?いないのか・・・?」
機材を置くと航はリビングへ足を踏み入れた。
「うん・・・?何だ。パソコンがつけっぱなしじゃないか・・・。」
朱莉のパソコンは電源が入りっぱなしで、沖縄の海の映像がスクリーンセーバーとして映し出されている。
「全く・・・電源入れっぱなしで・・・。」
うっかり航はマウスに触れてしまい、画像が切り替わった。
それは姫宮から届いた契約書の文面を表示した画像だった。
思わず、航はその内容を目にし・・・顔色が変わった。
「な・・・何なんだ・・・っ?!この契約書は・・・うん?待てよ。これは訂正前の契約書なのか?それにしても・・・。」
朱莉が翔と交わした契約婚の書類を航は悪いと思いつつ、ザッと目を走らせるように内容を読みこんだ。そして読めば読むほど、翔に対して激しい怒りが込み上げて来た。
「い・・・一体何なんだ?この鳴海翔と言う男は・・・っ!6年後には離婚?明日香が産んだ子供は朱莉が産んだことにして手がかからなくなるまでは朱莉が1人で世話をするだって?!し、しかも恋愛禁止、必要以上に異性と親しくするなって・・・何考えてるんだよっ!本当に・・・朱莉はこんな条件を飲んで・・・契約婚を承諾したのか・・・っ?!」
航は自分でも驚く程に鳴海翔に激しい憎しみを抱いてしまった。今目の前にいたら問答無用で殴りつけていたかもしれない。そして、それと同時に朱莉が哀れでならなかった。幾ら立派な住む場所を与えられたって・・・十分な報酬を貰えたって・・朱莉が本当に望んでいるのはそんな事じゃ無いと言う事が、たった数日一緒に暮らしていただけだが、痛いほど、航には理解出来た。
「朱莉・・・・。」
航はポツリと朱莉の名を呟いた。
そして、今度からはもっと朱莉に優しく接しようと心に誓った。
それから約2時間後の午後4時―。
「ふう~・・・。大変だった・・・。」
朱莉が大量の荷物を大型のカートに詰め込んでマンションに戻って来た。
「お帰りっ、朱莉っ!」
突如、笑顔の航が朱莉の前に現れたのだ。
「え?え?ど、どうしたの?航君・・帰ってたの?それにしても・・何か変な物でも食べた?」
朱莉は目を瞬かせながら航を見上げた。
「何言ってるんだ、変な物食べたと言えば、朱莉の作った弁当しか食って無いぞ?それより俺は夜7時までは仕事があいたんだ。取りあえず、あがれ・・・・ってうわああっ?!な。なんだ?!その大量の荷物はっ?!」
航は朱莉が持って帰って来た商品の山を見て驚愕の声を上げた。
すると、朱莉は言った。
「ああ、これはね・・・明日香さんの赤ちゃんをお迎えする為の準備なの。それにしてもベビーグッズってすごく可愛くて・・ついあれもこれもって見てたら・・こんな量になって・・・。実はこれからまた買い出しに行こうと思ってたんだけど・・・。」
「よし、分かったっ!朱莉、俺もその買い物に一緒に付き合うぞっ!」
「あ、ありがとう・・・?」
朱莉は航の変貌ぶりに唯々、首を傾げるのだった—。
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