8-9 目撃

朝7時―


朱莉は部屋のカーテンを開けた。

まだ東京は梅雨明けをしていないので、空は灰色の雲で覆われ、雨がシトシトと振っている。その憂鬱な空を見上げながら朱莉は溜息をついた。

結局昨夜は一度も翔から連絡が入る事は無かったのが心に引っかかっていた。


(姫宮さんが・・・伝言を翔先輩にわざと伝えなかったか、それとも翔先輩が忙しくて連絡を入れられなかったのか・・・その内のどちらか1つなんだろうけど・・・。)


出来れば後者であって欲しい・・・

でも、もし仮に姫宮が朱莉からの連絡を翔に伝えていなければ・・・。

もう翔からは連絡が来ないかもしれない。

気付けば朱莉は窓の外をボンヤリと眺めていたが、こうしていても仕方が無い。今日は億ションへ一度着替えを取りに戻ろうと思っていたので、朱莉は出掛ける準備を始めた。


 どうせあと数日でこのウィークリーマンションを出なくてはならない。今回朱莉が東京へ出てきたのは翔の浮気調査?の様な物であまり気分の良く無い理由の為、何をするにもあまり気の進まない物だだったので、朱莉は料理をする気力も持てなかった。

朝食を買いにコンビニへ行こうと、玄関で靴を履いて傘を持った時に、スマホに着信が入った。


(まさか、翔先輩?!)


期待しながら確認すると、それは明日香からであった。


(明日香さん・・・。)


昨夜は翔からの連絡は来なかった。その事を告げるときっと明日香は落胆するだろう。明日香の事を思うと気が重かった。

一体どんなメッセージを送って来たのだろうか・・・。



『お早う、朱莉さん。昨夜は連絡ありがとう。今朝のニュースで東京の天気を見たけれども、梅雨の寒い日が続いているそうね。風邪引かないように温かい恰好をしていた方がいいわよ。最近お腹の調子が良くなってきたの。退院できる日が楽しみだわ。そしたら何か貴女にお礼させて頂戴。』


「明日香さん・・・。」


明日香のメッセージを読んで、朱莉は目頭が熱くなった。本当は翔の事を尋ねたいはずなのに、朱莉の事を気遣い、報告をじっと待っていようとする明日香の気持ちが伝わって来る。


朱莉は明日香にメッセージを書いた。


『おはようございます。明日香さん。こちらは確かに寒いですが、コートを持って来ているので私は大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。数日以内には沖縄へ戻ります。その時には明日香さんに取って良い報告を持って帰る事が出来ればいいなと思っています。』


内容を確認すると、メッセージを送信した。

朱莉はコートの襟を立てて傘を差し、コンビニへ向かって歩きながら思った。


(出勤前に・・・もう一度だけ・・翔先輩にメッセージを送ってみようかな・・・?)




 沖縄の病院―


明日香は朱莉からのメッセージを読むと、溜息をついた。今の朱莉からのメッセージで、翔から昨夜は朱莉宛てに返信が無かった事がすぐに分かった。

勿論、明日香にも当然翔からのメッセージが届いていない。


「こんな時・・・琢磨がいれば電話して翔の事を聞く事が出来たのに・・・。」


明日香は右手の親指の爪を噛みながら呟いた。明日香と琢磨は中学時代から犬猿の仲ではあったが、ある意味互いに本音をぶつけ合う事が出来た唯一の関係でもあった。

中高一貫の名門私立校でも特に鳴海兄妹はそのセレブぶりで有名であり、知名度が高すぎた為、明日香の素性も校内に広まっていた。

鳴海翔とは血の繋がらない兄弟で、明日香の父親は素性も知れぬ男・・・そして実の母親に捨てられた憐れな娘で、お情けで鳴海家に置いて貰っていると周囲で陰口をたたかれているのを明日香は知っていた。だから周りの人間に馬鹿にされないように明日香は高飛車に振舞ってきたのだ。それが反って自分の評判を落とす事になろうとも馬鹿にされるよりはずっとマシだと思っていた。

やがて明日香は周囲から完全に孤立してしまい、誰もが明日香に話しかける時にはビクビクするようになったのだが、唯一違ったのが翔の親友でもある琢磨だったのだ。彼は初めから明日香に遠慮が無かった。はっきりズケズケと言いたい事を口にするような男で、最初は気に食わない男だとばかり思っていたが、やがてはその関係が面白く、明日香に取っては楽になっていた。その関係が大人になっても続いていたのに・・・・。


 翔が琢磨をクビにしたという話は翔から電話で聞いた。

明日香は驚いて理由を尋ねたが、翔の話では互いの方針が合わなかったからクビにしただけだとしか答えず、明確な理由を教えてもらう事は出来なかった。

おまけに琢磨はスマホも解約してしまったのか、全く繋がらなくなったし、会社で使っていた専用のメールアドレスも当然エラーで戻ってきてしまう。個人用のフリーメールアドレスも同様だった。

てっきり朱莉にだけは新しい連絡先を教えているだろうと思っていたけれども、朱莉も教えて貰っていない事を知った時は流石に驚いた。


「翔・・・・どうして琢磨をクビにしたのよ・・。朱莉さんから・・・琢磨を遠ざける為に・・?ひょっとして、翔・・・。」


しかし、明日香はそこで言葉を飲み込んで時計を見つめた。

時刻は9時になろうとしている。


今日はこれから超音波検査と採血がある。明日香はお腹にそっと手を当てた。

未だにお腹の子供に特に何かを思う事は無いが・・・実際に子供を産めば、自分の心の中が何か変わるのだろうか・・?

だが、明日香には自信が無かった。何故なら明日香自身、母親から抱き締められたり、愛情を注がれた記憶が全く無かったからだ。母の愛情が欲しくて欲しくて堪らなかった。しかし、明日香の母はいつも明日香に背を向け・・・とうとう明日香を捨てて、鳴海家を捨てて、愛する男性の元へ行ってしまったのだ。

最期まで明日香を顧みる事無く・・・。

 明日香は子供に愛情を注ぐ方法が分からない。

だからこそ・・・自分の代わりに数年だけ子供を育ててくれる女性が欲しかった。

他人が子供を育てる様を見て・・・どうやって子供に愛情を注げばいいのか学びたかったのかもしれない。

きっと心優しい朱莉なら・・愛情を持って子供を育ててくれるだろう。そしてその後は・・・?


「翔・・・・。」


明日香は天井を見つめ、ポツリと呟くのだった—。




 朱莉は昨日と同様にウィッグにカラー眼鏡という格好で六本木にある億ションを目指して歩いていた。

雨が降っていたのは幸いだった。何故なら傘で顔を隠して歩く事が出来るからだ。

いつもとは違う派手めなメイクに、付けた事も無いイヤリングを今はしている。

朱莉だとバレる事は無いだろうが・・・・用心に越したことはない。


 そしてエントランスに到着する前に、あらかじめ持参してきたつばの広い帽子をかぶり、中へと入る。

すると、その時偶然エントランスの自動ドアが開き、中から1組の男女が現れた。

朱莉は顔を見られないように慌てて俯き、その場をやり過ごした。その時、男性が連れの女性に声を掛けた。


「本当にありがとう。君のお陰で・・・助かったよ。これからもよろしく頼むよ。」


その声はとても優しげだった。


(!あ、あの声は・・・・翔・・・先輩・・・!)


朱莉は思わず身体が硬直してしまった。そしてその直後、自動ドアは閉じられ、2人は外へと歩きだして行く。

その為、女性の返事を聞くことが出来なかったけれども・・朱莉はショックを隠せなかった。


(何故・・どうして2人がここから出てきたの・・・?まさか・・・昨夜は翔先輩と姫宮さんは・・・一晩一緒に過ごしていたの・・・?だから・・私に連絡を入れなかった・・・?)


朱莉は呆然とその場に立ち尽くすのだった—。









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