第53話 相沢武の見てきた景色

 俺は幼い頃、団地に住んでいた。そこには大勢の子供たちがいたが、裕福と呼べるような家庭はあまりなかった。そんな俺たちだからこそ、近くにある空地でいつも一緒に遊んだ。


 年上が年下の面倒を見る形で、空地で皆で野球をやった。もちろん、本格的なやつじゃない。柔らかいゴムのボールと、子供用の空バットを使ったお遊び的なものだ。それでも当時の俺たちは十分に楽しめた。


 そうやって皆で遊んでいれば、当然のように野球へ興味を持つ。夜は父親と一緒にプロ野球中継を観戦して、翌日になるといつもの空地で皆に物まねを披露する。お金はあまりなかったが、そこには常に自由があった。小学生になってもその関係は続いていたが、ある日に空地だった場所へ家を建てる作業が始まった。俺たちは遊び場をなくし、次第に近所の連中で集まる機会は減っていった。


 そのうちに両親ともども俺は引っ越し、今の家へ移り住んだ。親しかった仲間とも離れ離れになったが、新しい学校でもすぐに友人はできた。もっとも近所で遊ぶ場所はなかったので、通っている学校の校庭が遊び場になった。


 賑やかに遊べていたのも低学年の時だけで、高学年になるにつれて塾通いやゲームに夢中になるなどの理由で、外で遊ぶ連中は少しずつ減っていった。そんな中で俺は、もっと野球がやりたいと思うようになっていたので学校の野球部に入部した。


 元々の運動神経がよかったのと、小さい頃から空地で年上相手にピッチャーをやらされていた経験もあって、すぐに活躍できた。学年が上がるにつれていい背番号を貰えるようになり、最終的にはエースナンバーの1を背負えた。


 公式大会に出場してそれなりに勝ち進んだけど、優勝はできなかった。それでも気心の知れた仲間たちと野球がやれて楽しかった。良い思い出を得られたからこそ、俺は進学した中学校でも野球部に入るのを選択した。


 問題は優秀な運動神経とは対照的な、頭の悪さだった。野球で使う頭脳なら持っているつもりだったが、こと勉強になると勝手が違う。最下位争いとまではいかなかったが、クラスでも下の方の成績だったのは間違いない。そうした理由もあって俺は私立などではなく、普通の中学校に進んだ。そこにも野球部はあったし、小学校時代の仲間も数多くいる。不安はまったくなかった。


 中学生になった俺は当たり前のように野球部へ入った。そこでの練習は厳しく、小学校時代とは比べものにならなかった。とにかくスパルタな監督で、徹底した走り込みをさせられた。もっとも投手にとって下半身は大事なので、そこを強化できるランニングなどのメニューはありがたかった。ただ、中には練習についてこられない奴らもいた。それが俺の小学校時代のチームメイトたちだった。


「俺はもう辞めるけど、武は頑張ってくれよ」


 大体が似たような台詞を残して、野球部を去って行った。この時点で俺に監督を恨む気持ちはなかった。練習がキツいのは当たり前で、嫌なら辞めるしかないと思っていた。だがアクシデントはいつも突然やってくる。


 ある日の練習中に、俺は監督から外野を守れと言われた。ピッチャーにこだわりがあった俺は、外野じゃなくて投手をやりたいと言った。これまでの環境では、ほぼ全員が話を聞いてくれて、最終的にこちらの意思を受け入れてくれた。だが、通っていた中学校の野球部の監督は違った。自分の意見を聞き入れない生徒を、極端に嫌うタイプの教師だったのだ。


 それなら外野を守らなくていい。吐き捨てるように中年の男性教諭は当時の俺に告げた。これで引き続き投手ができると喜んだのは、問題の本質を理解できていなかったからだった。


 監督に睨まれた俺をフォローすれば、自分たちもメンバーから外されるかもしれない。そう考えたチームメイトは距離を取るようになった。生まれて初めての体験に戸惑っていると、その教師は勝ち誇ったような顔でこう言ってきたのを今も覚えている。


 ――土下座して謝るなら、許してやらないこともない。


   *


 俺は最後まで教師に頭を下げなかった。両親や校長に現状を訴えることもできたが、その前に監督自らが動いて俺を悪者に仕立て上げた。一瞬にして問題児扱いされた俺は、多方面から白い目で見られるようになった。成績は悪かったが、授業は真面目に受けていたし、生活態度にも問題はなかった。それでも教師やクラスメイトは、必要以上に関わってこなくなった。


 小学校から一緒だった奴らはこっそりとつるんでくれたりもしたが、野球部内での立ち位置は最後まで変わらなかった。練習でどんないいピッチングをしようと関係なく、監督は徹底して俺を試合で使わなかった。中学校に在籍してる3年間に出場した大会で優勝した経験はなし。それでも上位の方には必ず顔を出していた。おかげで有名な私立高校から推薦を貰ったチームメイトもいた。


 中学時代は満足に試合へ出られなかったが、それでもきっちりと練習はできた。他の連中と同じメニューを消化できたし、肩もほとんど消費せずに済んだ。今回の件は人生勉強にして、高校で活躍してやろうと決めた。そうすることで、理不尽な扱いをしてくれた監督への怒りを忘れようとした。だけど奴は、あくまでも目の前に立ち塞がった。


 わざわざ3年時に人の担任になったかと思ったら、俺の内申書をボロクソに書いてくれたらしかった。特に部活中の態度は最悪で、野球部に在籍させるべきではないなんて書かれていたようだ。それを知ったのは、野球の強い高校へ入学しようと推薦面接を受けた時だった。


 性格の悪い中学時代の監督がわざわざ俺に推薦のチャンスを与えたのは、面接で落とされて落ち込む顔を見たかったからだというのも知った。愕然としたが、共働きで苦労している両親にこれ以上の迷惑と心配はかけたくなかった。


 俺は野球部の弱い高校へ入ろうと決める。そこなら、我が物顔で好き勝手する指導者もいないだろうと考えた。


 試合での勝敗よりも、楽しく野球がやりたかった。実力不足で試合に出られないのなら、きちんと受け入れて試合中のチームメイトを応援もできる。だけど、中学時代のような居場所のない中で野球をやるのはもう嫌だった。そんな俺が選んだのは、私立群雲学園という高校だった。知名度はさほどというかほとんどなく、最近では大会に出ても1回戦負けがほとんどらしかった。


 担任でもある野球部の監督は「そんな高校へ行ってどうするんだ」と大笑いした。相手の態度に腹を立てて暴力事件を起こしたりしたら、すべてが終わってしまう。怒りを必死で我慢しながら中学生活を終えた俺は、念願叶って私立群雲学園に合格できた。小学校時代からの友人は誰も一緒じゃないので寂しい気持ちもあったが、それより野球を楽しめそうな環境を優先した。


 これで嫌な思いをせずに野球ができる。ウキウキしながら高校の入学式を終えた日、俺はいきなり呆然と立ち尽くすはめになった。3年生が卒業した野球部には、ひとりも部員がいないというのを知らされたからだ。ショックはショックだったが、中学時代に比べればマシだと考えて、部員探しから始めようと決めた。そんな時に出会ったのが、バッテリーを組むことになる土原玲二だった。


   *


 奴も奴で昔から試合へ満足に出られていなかった。理由は土原玲二が左利きの捕手だからだ。確かに違和感を覚えたりもしたが、試合にも出られなかった中学時代を考えれば、俺の球を受けてくれるキャッチャーがいるだけでありがたい。


 それに土原玲二のキャッチングはかなり上手く、初めて見せた変化球も簡単に捕球する。加えてバッティングの技術も俺より上だった。攻守の要にいきなり入部してもらえて、ますますやる気が出た。手当たり次第に声をかけ、すでに他の部活に所属してる奴らでさえも節操なく誘った。こんな真似をすれば嫌われるのはわかっていたが、どうしても野球部を存続させたかった。部の歴史に対する思い入れなんかはまったくない。とにかく、高校で野球をやりたいだけだった。


 頑張りが功を奏したというべきか、優しい人間が数多くこの学園に入学してくれてたというべきか。どちらにせよ、俺たちは試合に出場できる最低限の人数を確保できた。土原玲二を主将にして、正式に私立群雲学園野球部の新年度がスタートする。初めての記念すべき練習試合は大敗で終わったけど、それでも俺は楽しかった。


 エラーの数も凄かったが、誰ひとり手を抜いてないのはわかっていたので問題はなかった。勝っても負けてもいいから、少しでも野球の楽しさを新入部員に知ってもらいたかった。だから負けていても、俺はなるべく笑顔を浮かべていた。


 そんな俺に試合後の部員たちは泣きながら謝罪してきた。足を引っ張ってごめんと言われたので、気にするなと返した。本当に気にしてなかったからそう言っただけなのに、チームメイトたちは口々に感謝してくれた。そして翌日からはより熱心に練習へ励むようになった。


 いまだに土原玲二と「俺たちは仲間に恵まれた」と話したりもする。最高の部員たちだと再認識できた。同時に、一生懸命頑張っているこいつらをなんとか勝たせたいと思うようになった。


 連日にわたって土原玲二と会話をしてるうちに、チームに1番足りないのは打線の核だという結論に達した。俺と玲二はそれぞれに投手と捕手というポジションをしているため、打撃だけに集中するのが難しくなる。だからこそ、打線の中心が欲しかった。そうすれば俺を3番、玲二を5番にしてオーダーが組めるようになる。しかし、そんな人物がいるとは思えなかった。


 そんな時だ。体育の授業でやった野球で、特大のホームランを打った奴がいるという話を聞いた俺は、すぐにそいつを勧誘しに出かけた。仮谷淳吾という変わった男だ。最初から戦力になるとは思ってなかったが、遠くへ飛ばす能力というのは、本人の生まれ持っている野球センスに大きく左右される。


 素質があるかもしれないと見込んだ俺は、とにかく仮谷淳吾を誘いまくった。だが奴は積極的に参加してくれなかった。軟式球から硬式球に慣れるだけでも時間がかかる。早く練習に参加してもらわないと、試合ではまったく使いものにならない。焦れば焦るほどに、そいつに対する口調はキツくなった。


 何度か勝負を挑んで、相手の野球熱を盛り上げようともした。結果はすべて惨敗。それでも誰か怪我人が出た場合のために、大会へ参加してもらえるように玲二が交渉した。そして今日を迎えた。


 9回裏。一打逆転がある場面で、チームメイトたちは勝利のために仮谷淳吾の助力を求めた。最終的に奴は応じ、近くにあったバットを持って、ベンチからバッターボックスへ向かって歩いて行った。その背中を見送っていると、玲二が俺の隣に来て「見たか?」と意味の分からない質問をしてきた。


「何をだよ?」


「アイツ――仮谷淳吾の手に、血が滲みそうなくらいのまめがあったんだよ」


「へえ……あれだけ野球をやるのを嫌がってたくせにな」


「……なあ、もしかしてアイツは――」


 玲二が何かを言おうとした時、対戦高校のエースピッチャーがマウンドの上で腕を振っていた。渾身の力で投げ込まれたストレートに、打席内の仮谷淳吾はいきなり反応し――。


 ――キィン! 強く大きな金属音をベンチにまで轟かせる。理想的な角度をつけて放たれる打球を見て、俺は反射的に口を開く。


「――行った!」


 叫ぶように発した俺の言葉でベンチの中が一気に騒がしくなり、球場の雰囲気も一変した。

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