第52話 土原玲菜の見てきた景色

 私がその人のことを知ったのは、弟が家の食卓で新しく入った学園生活の楽しさを口にしてる時だった。


 弟の土原礼二は今でこそ立派な高校生になっているけど、小さい頃は常に私の背中をついてまわってくるような子だった。両親――とくに父親が野球を大好きだった影響で、私が地元の野球チームに入った時も同じだった。性別は女性だったけど、小学生当時の私は男性のチームメイトよりも打球を遠くへ飛ばせていた。監督は投手をやりさせたがったけど、私が選んだのはキャッチャーだった。バッターのすぐ後ろでピッチャーのボールを受ける私を、弟はずっと見ていた。


 そして成長したある日に、自分も野球がやりたいと父親へおねだりをした。選んだポジションはキャッチャー。どこまでも私を追ってくるのねなんて思ったりもした。だけど、その認識は誤りだった。弟の――玲二の野球センスは、私なんかとは比べものにならないくらい凄かった。


 問題があったとすれば弟は左利きで、誰に言われてもそれを矯正しようとしない点だった。幼い頃から野球が好きであれば当然、地上波で放映するプロ野球を目にする機会も増える。テレビ画面に登場する格好いいプロ野球選手のキャッチャーたちは、全員が右利きだった。


 昔、両親が夜に出かけていた時、弟と一緒にテレビでプロ野球中継を観戦していた私はひとつの質問を投げかけられた。どうして左利きの捕手はいないのかと。


 まだ小学生だった私に、その問いかけは難しすぎた。答えを導き出せなかったのもあって、口を開くことができなかった。すると弟は泣きそうな顔で、右利きの人しかキャッチャーはできないのかなと新たな質問をしてきた。


「わからないけど、でも……左利きのキャッチャーが誰もいないのなら、逆に恰好いいかもしれないわね」


 姉としてなんとかしたいと考えた私が、弟に与えた励ましの言葉がそれだった。以降、弟はますます左利きのままで捕手をやりたがった。幸いにして、地元の野球チームの監督は理解してくれた。だけど、バッテリーを組む投手からは投げ辛いという不満が出た。監督は何度も弟と話し合ったけど、右で受けるのを練習するのも、守備位置を変更するのも拒んだ。結果、弟はスタメンで試合に出場できなくなった。


 子供の自主性を大事にしたいと考えていた父は、玲二の好きなようにやらせたいと余計な口を挟まなかった。だから私も黙って見守っていた。でも、中学校へ入学しても、弟を取り巻く環境に変化はなかった。


 左利きを矯正せずにキャッチャーをやりたいと言い張って、中学時代に所属した監督と対立。3年間、一度も休まずに練習へ参加したにもかかわらず、公式戦どころか練習試合への出場もゼロ。弟が自宅で悔しがったりすれば、父も抗議をしたかもしれない。だけど弟はいつも笑っていた。


 ――きっと、自分を理解してくれるチームも投手も現れる。そう言って、笑っていた。


 その頃の私は体格などの差を痛感し、すでに野球をやるのを諦めていた。元々は中学校でも野球部に所属していたのだけど、さすがにキャッチャーはやらせてもらえなかった。それでも野球が好きだったので、試合に出れなくても練習には参加した。そうした点では、私たち姉弟はよく似ていたのかもしれない。


 3年生になって部を辞めた私は、受験先の高校を一生懸命探した。幸いにして成績はよかったので、地元の高校でなくても合格できる自信があった。所属したい学校の条件として求めたのは、野球部の環境だった。あらゆる手段を用いて探した結果、進学先に選んだのは私立群雲学園だった。


   *


 私は常に、弟へ発した自分自身のひと言が心に引っかかっていた。頑なに左利きのキャッチャーを目指す理由になってるのではないかと、悩んだりもした。だけど今さら「あの時のことは気にしないで」なんて言えない。


 自らが発した言葉の責任を取りたかった。でも、心優しい弟はそんなのを望むとは思えない。


 だから誰にも言わずに行動した。自由な校風に惹かれたと両親に説明して私立群雲学園を受験し、一発で合格。部員数が少なくて弱小の野球部なら弟も実力を発揮できると考え、入学すると同時に情報を集めた。誤算だったのは、来年には部員数が定員割れを起こして存続が厳しくなるというところだった。


 弟が通っている中学校で結果を出せれば、何も問題はない。きっと自由に進学先を選ぶだろう。でも、現実はやはり思いどおりにいかなかった。試合出場がないまま、中学時代の部活を弟が終了させてしまったからだ。そこで私は、なんとか来年も野球部を残せないか先生たちに掛け合った。


 せっかくの野球部を潰したくないと当時の主将も協力してくれた。新入部員が集まればという話へ行く前に、私たちの思いは押し返されそうになった。そもそも人気のある部活なら、人材不足で廃部の危機にはならないというのが学園側の言い分だった。部を存続させたい関係者が困る一方で、私は絶好の機会を得たと思った。


 すぐに弟へ連絡を取り、自分が置かれてる状況を説明した。その上で私立群雲学園野球部を存続させるために、近年の実績は皆無に等しい高校だけど進学してほしいとお願いをした。優しい弟は快く承諾してくれた。入部希望者の見込みができたことで、部の存続もなんとか決定した。


 翌年になって弟が私立群雲学園へ入学すると、野球部へ入る前にいきなり勧誘をされた。それが後にバッテリーを組むことになる相沢武君との出会いだった。その日のうちに彼の球を受けた弟は、帰宅するなり嬉しそうに学園生活について語った。そんな光景は初めてだったので、私も両親もおおいに喜んだ。


 中心の部員が2名入り、熱心に勧誘することによって徐々に入部してくれる男の人も増えた。私も協力しようか悩んだけど、余計な真似をして逆に弟の足を引っ張るのもマズい。だから必要とされるまで見守ってようと決めた。


 入学してから少し経っても、弟は楽しそうだった。バッテリーを組んだ相沢武君のことをとても凄い投手だと褒めまくったり、軟式球と硬式球の違いに戸惑ってるのを教えてくれたりした。だけどそのうちに表情が曇るようになってきた。


 相沢武君と喧嘩でもしたのかと思ったけど、実情は違った。部員数も着実に集まり、野球部の継続も正式に認められた。だけど、それで試合に勝てるかといえば難しい。大敗しても野球が好きな自分は応えないけど、誘われて入部した人たちは嫌気がささないだろうかと、そればかりを心配していた。それから少しして、弟の不安は現実になった。初めての練習試合で、私立群雲学園は大敗してしまったのだ。


 でも、その先は想定と違っていた。入部してくれた人たちは、エラーで相沢武君の足を引っ張ってしまったのを謝罪し、それまで以上に練習へ励むようになった。いい奴ばかりでよかったよ。食卓で何度もそう繰り返していた弟が、こっそり涙を流していた。実際に泣き顔を見たのはそれが初めてだった。


 とにかく守備を中心に特訓した。練習試合をすればまだまだ無様な敗北ばかりだったけど、1イニングで取られる点数とエラーの総数だけは着実に減っていた。どことなく乱暴な感じもする相沢武君だけど、実際は誰より真面目で仲間想いの男なんだといつか弟が教えてくれた。もっとも、そのせいで中学時代の教師とぶつかって、1回も登板機会を得られずに中学での野球生活を引退したらしかった。


 捕手を女房と例えるように、バッテリーの関係性は夫婦に似ている。相沢武君と弟は喧嘩もせずに、とてもお似合いだと思った。


   *


 守備能力は着実に上昇してるけれど、打撃能力が不足している。試合で勝つためには中心打者が欲しい。口癖のようになっていた弟の呟きが、ある日突然に変化した。相沢君が素質のありそうな人を見つけてきたみたいだった。話を聞いていた父が「入部してくれるといいな」と返した。すると弟は顔を伏せてしまう。何回も熱心に誘ってはいるけど、恋人が欲しいからアルバイトをしたいと言われて拒否されたと教えてくれた。父はその人の人生だからなと言い、弟も頷いた。その中で私はこっそり、弟に恩返しをできる機会が訪れたと思っていた。


 その人についてのリサーチを重ねてから、私は仮谷淳吾という年下の男の子に直接会いに行った。恋人が欲しいがために野球部へ入れないと言っていたらしい彼に、私が恋人になると申し出た。だから、これで野球部に入れるようになる。だけどその人は、すぐに入部をしてくれなかった。


 加えて私と仮谷君との関係性を知った弟にも、何度となく自分を犠牲にしてないかと尋ねられた。私はそのたびに首を左右に振った。本当のことを言ったら弟が気にしてしまう。すべては玲二のためだなんて絶対に口外できなかった。


 仮谷淳吾というのは不思議な人だった。同時に周囲からは彼と交際してるのを驚かれた。これまで私は何回も男の人に言い寄られたけど、誰の申し出も受けなかったからだ。それが今回ばかりは、自分から想いを告げるような形で交際に発展させた。周りの人たちはそれが不思議みたいだった。どこに惹かれたか聞かれたけど、答えようがなかった。私自身にもわからないからだ。


 どうやったら仮谷淳吾君が野球に熱心になってくれるのかを考えるうちに、まずは私が彼の恋人として熱心にならなければと思うようになった。お弁当はもちろん、夜に相手の家へ料理を作りに行ったりもした。途中からは拒否されてしまったけど、人のために何かをするというのがなんとなく楽しかった。


 そんなある日、夜に遠くの本屋で買い物をした帰り道で、彼の――仮谷淳吾君の姿を見かけた。ジャージ姿で懸命にランニングしている姿に驚いて、こっそり後をつけてみたりした。すると一軒の小さなバッティングセンターに辿り着いた。中から聞こえてくる打撃音を聞きながら、なんとなく嬉しくなったのを今も覚えている。


 そして今日、仮谷淳吾は私のお願いに応じて大会に参加してくれた。彼の背番号は私が丁寧に縫ったものだ。試合が始まり、相沢武君がピンチになると隣で観戦していた大人の女性が大きな声で檄を飛ばした。ビックリしてその人を見ると、女性の隣に座っている男性が苦笑して頭を小さく下げた。


「ごめんね。茜ちゃん、興奮してるみたいでさ」


「頼んでもないのに、勝手についてきた安田さんは黙っててください。淳吾君の出番がないまま、試合終了なんてなったら悲しいじゃない」


 女性の人の口から聞き覚えのある名前が発せられたことで、ますます私は驚く。この人と彼はどんな関係なんだろう。そんなことばかりが気になり、途中から試合をよく見れなくなっていた。どうしても知りたいのだから、おもいきって聞いてみよう。そう決意して口を開くと、隣に座っている女性は「ちょっと待って!」とこちらの質問を制した。


「――出てきたわよ、淳吾君。一打逆転の場面で代打なんて……痺れるよね!」


「……う、うぐっ。わ、わかったから……首を絞めないで……茜ちゃん……」


 苦しそうにしている男の人を尻目に、私は視線を再びグラウンドへ戻す。試合はすでに終盤となっていて、彼が代打として打席に入ろうとしていた。途中で靴紐を結び直し、何かを決意した目で相手の投手と睨み合っている。自分が打席に立ってるわけじゃないのに、もの凄く緊張して鼓動が速くなる。


「ド、ドキドキするね」


 名前も知らない隣の女性の言葉に頷く。ドキドキなんて言葉じゃ足りないくらいに、興奮と緊張を覚えていた。自然と組んでいた手はすでに汗でびっしょり。動悸がするだけじゃなくて、呼吸も荒くなってくる。弟の初めての公式試合で、彼氏の初めての打席。打ってほしい。どうしても打ってほしい。強い思いが私に口を開かせる。


「――打って!」


 ピッチャーが投球をした直後に、私は周囲に人がいるのも忘れて叫んでいた。視線の先にいるのは、彼ただひとり。個人的な目的のために交際をすることになったけど、いつの間にか少なくない好意を抱くようになっていた私の彼氏。


 私の声がグラウンドに響いた直後、彼は両手で構えていたバットを一閃する。初めて見た彼のスイングはとても綺麗だった。


 ――キィン。


 グラウンドに木霊した金属音が耳に心地よく馴染む。観客席から立ち上がった私の目の前を、彼の放った打球がまるで流星みたいに駆け抜けていった。

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