第17話 係長の……バカヤローっ!!

 カジュアルなジーンズ姿でベンチに座っている女性が、ケージから出てきた淳吾へ「あれ、気にしちゃった?」と声をかけてくる。


 年齢は20代といったところで、土原玲菜ほどではなくとも、かなりの美人なのには間違いない。


 ミドルとセミロングの間みたいな長さの髪の毛は、先端に軽くパーマがかけられていて、大人の女性らしくきちんとセットされている。


 薄手のシャツに軽いカーディガンを羽織ったくらいの格好なので、否応なしに上半身の豊かな膨らみに目を奪われる。


 けれど黙って見ていたら、変態扱いされるのは間違いない。すぐに視線を、女性の目に移動させる。


「やー、ごめんね。私ってば、思ったことがすぐ口に出ちゃうんだよね」


 謝罪の言葉が含まれてるのに、どうにも謝られてる感じがしない。きっと女性にとっては日常茶飯事的な失敗なので、あまり気にしてないのだろう。


「あ、私は小笠原茜って言うの。よろしくね」


 人懐っこそうなところは、淳吾と同じクラスに所属している栗本加奈子を思い出させる。こちらの女性は勝手にあだ名をつけたりしないけれど、根本的な部分が似ているのかもしれない。


 淳吾も極度の人見知りというわけではないが、初対面からこんなにもフレンドリーに接してこられると、さすがに戸惑いを覚える。


 とはいえ「よろしくね」のあとに握手を求められると、困惑しながらも愛想笑いを浮かべて「こちらこそ」と応じてしまう。


 改めて淳吾は自分自身のお調子者ぶりに辟易するも、他者とコミュニケーションを取る上では有利になると、無理やりポジティブな方向へ思考を持っていく。


「いつもこの時間は私しか利用してないから、他にお客さんがいるのに驚いちゃってさ。休みながら見物してたら、つい……ね」


 そう言って小笠原茜と名乗った女性が、小さくぺろりと舌を出す。淳吾よりは年上だと思われるのに、そうした仕草が妙に似合ってるから不思議だった。


「別に気にしてないですよ。ただ、次に使うのかなと思って……」


「あ、そうなんだ。じゃあ、ちょっとやらせてもらおうかな」


 ベンチから立ち上がった小笠原茜は腕まくりをして、やる気満々で90キロのケージへ乗り込んだ。


 ジーンズのポケットにあらかじめ小銭を用意していたらしく、手際よく取り出した200円を投入してアームを作動させる。


 彼女が3本の金属バットの中から選んだのは、一番短くて軽いタイプのものだった。女性と男性ではどうしても基礎体力に違いがあるため、軽いのを好むのはある意味当然だ。


 今度は淳吾が90キロのケージ後ろのベンチに腰掛けて、小笠原茜という名前の女性のバッティングを観察する。


 小笠原茜はスイングの動作中みたいなフォームで、最初から金属バットを斜めに寝かせて構える。多少不恰好ではあるものの、見ている淳吾はなるほどなと思った。


 あの構えであれば、手元まで来たボールへ最短距離で金属バットをぶつけられる。彼女なりに、打ちやすさを追求した結果、現在のフォームになったのだろう。


 普段からこのバッティングセンターを利用してると言った女性でさえも、自分に合った構えを見つけるのに苦労した感じが見受けられる。何も考えずに、ただバットを振っていただけの淳吾とは大きな違いだ。


 そんなことを思ってるうちに、女性のもとへ1球目の軟球が飛んでいる。じっくりと見てから、小笠原茜がえいやっとスイングする。


 カキィンと。淳吾には鳴らせなかった爽快な音がバッティングセンター内へ響く。女性の持つバットが、見事にボールを跳ね返した証拠だった。


 小笠原茜が放った打球は、比較的鋭いライナーとなってアームの後ろに設置されているネットに突き刺さる。


 純粋に凄いなと感心する淳吾の前で、ケージ内でバッターボックスに立っている女性が2球目のボールを狙ってスイングをする。


「……係長の……バカヤローっ!!」


   *


 いきなり周囲へ響いた怒声の凄まじさに、淳吾の目が点になる。


「……は?」


 驚きのあまりしばらく呆然とした後、ようやく出てきた言葉がそれだった。


 それでもぽかんとしている淳吾を尻目に、先ほど知り合ったばかりの女性が、あらゆる災いが裸足で逃げそうな勢いでバットを振り続ける。


 カキン、カコンと金属バットと軟球がぶつかる音と一緒に、アホだのボケだのといったなんとも聞き辛い文句が店内に木霊す。


 途中から正確に相手の言葉を聞きとろうとするのを止めたので、もはや淳吾には女性が何を口走ってるのか理解不能だった。


 それから程なくして、女性は「あー、すっきりした」と言いながら、ケージから出てきた。


 直後に淳吾と目が合って、すぐに気まずそうな顔になる。言葉はないが、他に客がいるのを忘れてた。そんな感じの表情だった。


「え、えーと……聞いてた……よね?」


 この状況で嘘をついても、すぐにバレるのはわかりきっている。なので普通に返事をすべきなのだが、あまりにもストレートすぎると気まずくなりそうだ。


 そこで淳吾はあえて「はあ……」と曖昧な返事をして、この話題を無難に通過しようと考えた。


 だというのに、何故か小笠原茜という名前の女性は、自らの現状について丁寧な説明をしてくる。


「聞かれてたら、仕方ないもんね。実は係長が嫌な奴でさ、隙あらばセクハラしてこようとするのよ」


 今度もまた「はあ……」と返事をするしかないような話題が提供される。


 セクハラというのは、当事者の感じ方によって意味合いが大きく変わる問題なので、下手にどちらかへ肩入れをすると大やけどをしてしまう場合がある。


 君子危うきに近寄らずという言葉があるとおり、厄介事からは離れて歩くのが懸命だ。もっとも私立群雲学園では、近寄らなくても野球部という危うきに絡まれてしまってるので、距離をとっていても無事でいられるとは限らない。


「このご時勢じゃ、新しい仕事を探すのも難しいし、事をあんまり荒立てたくないのよね。そこで毎日勤務後にここへ寄って、ストレス発散をしてるってわけ」


 あれだけ大きな声で叫んでいれば、たまたま近くを通った関係者に聞かれる危険性もあるのだが、その点はまったく考慮してないみたいだった。


 けれどネットで実名を晒して、後先考えずに堂々と上司の文句を掲示板なりで書くよりかはリスクが少ないのかなとも思える。


 その両方とも淳吾にはするつもりがないので、あくまでも他人事になる。ゆえに冷静に物事を考えられるが、当事者である小笠原茜は違うのかもしれない。


「まあ、誰かの陰口を言うと、誰かに陰口を言われるっていうから、あんまり好きではないんだけどね」


「そうなんですか?」


「そうよ。誰の言葉と聞かれれば、私のなんだけどね」


 そう言って小笠原茜が豪快に笑う。淳吾からすれば、愚痴を言うのが好きではないという点に関してそうなんですかと言ったつもりだったのだが、うまく相手には伝わらなかったみたいだ。


 相手女性が楽しそうに笑ってるのもあって、その点を指摘するつもりはなかった。下手な発言をして、機嫌を損ねたら今度は淳吾の名前を叫びながらスイングされるかもしれない。


「あ……」


 そこまで考えていたところで、唐突に思い浮かんだ疑問が淳吾に間の抜けた声を出させた。会話の途中だったため、当然相手にも聞かれており、すぐに「どうしたの?」という言葉がやってくる。


「俺……自己紹介してましたっけ?」


   *


 淳吾の質問を聞いた小笠原茜が、再び大爆笑する。お腹を抱えて笑ったりする豪快さは、現在交際中の土原玲菜にはないので、なんだか新鮮に感じられる。


「そういえば、してもらってなかったね。私、貴方の名前、まったく知らないわ」


 そんなに面白いのかというくらいに笑う年上の女性へ、改めて淳吾は自己紹介をする。


 名前、年齢、通っている学園も一応教える。別にやましいところで知り合ったわけではなく、悪事を働いてる場面を見られたりもしていないので、ある程度の情報は与えても問題ないと判断した。


 恋人がいる身分でありながら、多少はお近づきになりたいなんて邪念も、もしかしたら心の片隅にあったのかもしれない。土原玲菜という恋人がいながらそう思うのは不誠実な感じもするが、淳吾も男なのでどうしても美人には目を奪われたりする。


 心まで魅了されるケースはそうそうないが、それでも第一印象で素敵だなと思う機会は多々存在する。こうした面をふしだらだと言われれば、淳吾はとても反論できそうになかった。


「仮谷淳吾君かー。こんな時間に、寂れたバッティングセンターに来るなんて、何かワケあり?」


「え? いや……そんなこともないんですけど……」


「わかってるって。特訓してるなんて知られたくないから、他の人には秘密にして通ってるんでしょ?」


 顔は若々しくて美人でも、中身はすでにおばさんなのだろうか。勝手な想像で淳吾の人格を形成しては、あれこれと得意そうに話してくる。


 かといって、まったく的外れでもないのは不思議だった。小笠原茜には、変な特殊能力でもあるのだろうかと首を傾げたくなる。


「若いねー。うん、若い!」


 何故かひとりで「若い」という単語を連呼し、大喜びしている女性。スタイルはよさそうでも、そうした仕草には色気の欠片もない。


「よし、淳吾君がここに通ってるのは、秘密にしておいてあげるね」


「は、はあ……ありがとうございます」


 淳吾と小笠原茜に共通の友人がいるとは思えないものの、確かに誰彼構わずにあれこれ吹聴されても面白くない。せっかく黙っててくれるというのだから、余計な発言はせず、相手の好意に甘えるべきだ。


「そうなると、淳吾君は高校球児になるのね」


 野球部に所属してるとは一度も教えてないのだが、すでに相手の女性の中では決定事項になっているらしかった。残念ながら間違ってもいないので、わざわざ訂正したりするつもりもない。


「熱いねー。チームのために、ひとり黙々とバットを振る高校球児。お姉さん、なんかドキドキしてきたよ」


 出会った当初は栗本加奈子に似ていると感じたけれど、どうやらその第一印象は返上する必要がありそうだ。どう考えても、小石川茜の方がずば抜けてハイテンションだからだ。


 もっとも、両者ともにこちらの話をあまり聞いてくれなさそうな点だけはそっくりだった。性格が明るい人は、こういうタイプばかりなのだろうかと多少の不安を覚える。


「じゃあ、いつまでも私が使ってたら申し訳ないね。淳吾君の特訓の時間だ!」


「は、はあ……それじゃ、失礼します」


 特訓の時間も何も、90キロのスロボールにバットがかすりもしてなかったのは、他ならぬ小笠原茜も見ているはずだ。普通なら、練習しても無駄だと考えるのではないか。


 いや、待てよ。そこまで辿り着いたところで、淳吾は頭の中で自分の考えを否定する。


 補欠にも入れなさそうな実力だからこそ、寂れたバッティングセンターまで練習しに来ている。そんなふうに思われたのかもしれない。


 憐れみを受けているみたいで楽しい気分にはなれないが、淳吾に野球の実力がないのは確かだった。誰が見てようとも、もの凄く格好悪くても、とにかくバットを振る必要がある。


 90キロにリベンジするべく、淳吾は再びケージの中へ入る。手に取ったのは、最初に使ったのと同じ金属バットだ。

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