165 地元の英雄の帰還
ウドナの大河を、河獣に引かれる御座船でさかのぼっていく。
豊かな水量、水しぶきが弾け、強い日差しに煌めいて涼気に変わる。
河岸の両脇にはみっしりと木が立ち並んで枝を伸ばし、深い森がすぐそばにある。
そんな風景がしばらく続き、ふいに木々がまばらになって秩序が与えられ、森が自然なものから人の手が入ったそれに切り替わったことを知る。
そうして、やがて右岸にいくつもの新しい桟橋が見える。前に見たときよりも本数が増えたところを見ると、わたしが不在の間も拡張工事を続けていたらしい。そんな必要性を示すかのように、物資を積んだ笹の葉のようなかたちの川船が行き交い、桟橋では積荷の積みおろしや積み込みを行っている。
旅客がものめずらしそうに歩き、その横を忙しそうな人夫や商人が大声で商談する賑やかさ。その奥の森閑のなかにある、歴史の風格のある石積みの小さな都。
わたしのリンゲンに、帰ってきたのだ。
御座船の窓から風景を覗きながら、わたしは安堵する。
ほんのひとつきふたつきの間の不在だったはずなのに、まるで数年ぶりに戻ってきたようにも感じる。
きっと王都出張のあいだに、いろいろなことがありすぎたためだろう。
婚約話に、王子主催の夜会に、魔王討伐に、最後は『命の精霊』を名乗る精霊クローディアの引き取り・・・。
クローディアは後続の船に乗っているため、わたしからは様子は伺えないが、ヴィエナからリンゲンまで問題なく川旅を終えた。とりあえずは安全な存在だと思っても良いのだろう。
わたしはクローディアが付いてくることになった経緯を思い出す。
■□■
「リュミフォンセさま・・・助けていただき、ありがとうございました。さすがです」
命の精霊が小杜を消したあと、杜に囚われていたモルシェとシノンがわたしのところにやって来て、お礼を言ってきてくれた。見れば、震えで足腰が立たないのか、シノンはモルシェに寄りかかり、モルシェは彼女を抱えるようにしている。
シノンに頼られるそんなモルシェも、まだ膝が少し笑っている。得体の知れないものに突然包まれるのは、やはり怖かったのだろう。
けれどふたりを無傷で奪還できた。わたし、えらい。
「モルシェ、良くシノンを守ってくれました。・・・怖かったわね。もう大丈夫よ」
わたしがふたりをねぎらうと、そこでようやくほっとした顔を見せてくれた。
「リュミフォンセ様。差し出がましいようですが、あの精霊を本当に領地に連れ帰るのですか? 危険ではありませんか?」
そう聞いてきたのは、ヴィクト様だ。すでに腰の剣からは完全に手を放している。
「ええ」わたしは頷く。「精霊にとって誓約は絶対のものです。ならば人間も同じように約束は守らなければなりません。誓約を守っている限り、あの精霊はもう安全ですよ」
人質を取り戻してからって、騙し討ちにするわけにもいかないしね。とわたしは心の中で付け加える。
「そうですか・・・貴女がおっしゃるのですから、間違いないのでしょう。私も貴女ように精霊と強い信頼関係を築けるようになりたいものです」
そう言って、彼は美服の下につけている飾り篭手をそっと撫でる。その篭手には、彼が従える2精霊が普段は封じられているはずだった。
わたしは頷き、くだんの命の精霊へと視線を巡らせると、彼女は現れたところから動かず、下を向き、地面の黒い毛玉と会話をしている。よく見れば、毛玉は仔狼姿のバウだ。いつの間にやって来たのだろう。
ひょっとしたらわたしが命の精霊クローディアを説得しているあいだ、どこかに隠れて攻撃の機会をうかがっていたのかも知れないわね。
そんなことを考えていると、後ろから声がかけられる。待機されていた伯母様とお祖父様が、部屋から出ていらっしゃったのだ。
「後ろから話は聞いていたけれど・・・突然襲ってきた精霊を、よく自分の領地に連れ帰る気になるわね」
扇を手早く使いながら、伯母様。
「よくやったぞリュミィ。まさか説得だけで襲ってきた精霊を納得させるとは、素晴らしい結果じゃ。ワシの自慢の孫にしても、末恐ろしいほどの大器じゃの」
ぽんぽんとわたしの頭を撫でてくれるお祖父様。褒められてわたしも嬉しくなるけれど、たしかに、と疑問にも思う。あの命の精霊はどうして説得に応じてくれたのだろう。
そう思って精霊クローディアを見ると、彼女はちょうど、わたしのほうへ慌てた早足でやってきた。秀麗な顔の色が青い。
「な・・・なあ! 僕は客人待遇なんだろう? だったら、あの狼に、僕を噛まないように言ってやってくれよぅ!」
びしりと指さした先には、小狼姿のバウが、ちょこんと中庭の芝生の上に座っている。小さいしっぽがぱたぱたと揺れている。
「えーと・・・」わたしは状況が飲み込めなくて、首を傾げる。「あの子に、噛まれたの?」
「違うよ! 噛まれてないけど・・・おかしなことをしたら噛むって、脅してくるんだよ!」
クローディアが振り返り、黒い小狼をびしりと指差す。小狼はかぱかぱと口を開けて可愛らしい牙を覗かせると、彼女はひいっと声を出し、シノンの後ろに隠れてしまった。
命の精霊クローディアの外見は、やんごとない長身の女性だ。その彼女が小狼に脅されて長身をかがめ、シノンのような少女の背後に隠れる姿は、なんとも奇妙なものだった。
ひとことで言えば、滑稽というような・・・。
バウはきっとクローディアが変なことをしないように、釘をさしてくれたのだろう。けれど、その薬が効きすぎたようだ。クローディアがシノンの後ろに隠れるその姿は、さっきまで中庭を杜で埋め尽くし、商館の雇い戦士を軽々と撃退したとはとても思えない、情けない姿だった。
この精霊、極度の怖がり・・・というか、ヘタレなんだわ。
わたしの説得にこの精霊が応じた理由が、なんとなくわかってほっとした。この分であれば、あまり警戒しなくても大丈夫そう。
「クローディア。あの子に噛まれたくなければ、シノンたちに危害を与えず、いい子にしておくのよ。もし約束を破ったら・・・」
わたしが言うと、シノンの背後に隠れる精霊は、切れ長の目のまなじりを下げて、こちらを見た。
「がぶっ!」
「ひゃああああ!」
「きゃああああああ!」
「・・・だからね」
わたしが少しおどかすと、クローディアは悲鳴をあげて地面にかがみ込む。
もうひとつあがった悲鳴は、かがみ込んだ精霊によって、スカートの中に入り込まれたシノンのものであった。
■□■
そうして、報告会は終わり。お祖父様と伯母様もそれぞれの領地へと戻っていった。送ってくれたヴィクト様も、王都経由で自分の領地に帰るのだとお話されていた。そうしてわたしも、予定どおり合流した家臣たちをつれて、リンゲンに帰ってきたのだ。
(それにしても、あれだけ怖がりなのに、どうしてクローディアはシノンのところにやって来たのかしら? イー・ジィー・クァンとの遺約・・・イー・ジィー・クァンが死んだあとに有効になる約束ってことよね?)
つらつら思い出すに、彼女の目的は、シノンを守ることだと言っていた。
(ということは、イー・ジィー・クァンも、何かしらの目的があってシノンを守っていたということなのかしら? ・・・一緒に居て情が移ったということではなく)
そうなると、疑問が出てくる。
(シノンは、いったい何者なのだろう?)
これまで、シノンのことを、イー・ジィー・クァンが人間の世界で活動するための、人間の相棒だと思っていた。
でも、時の精霊イー・ジィー・クァン、命の精霊クローディア・・・。特殊な精霊が、彼女を守ろうとしている。
いったいなんのために?
考える。けれど、情報が少なすぎる。なんの仮説も思いつかない。直接クローディアに聞いても、きっと答えてはくれないだろう。
ごぅ・・・ん。
船体が立てた音で、乗っていた船が、桟橋にもやわれたことを知る。
桟橋の船乗りたちが船の外側を慌ただしく歩き回る足音。はしけが準備される物音。
しばらく御座船の椅子に腰掛け、思案にふけっているわたしだったけれど、脇に控えていた侍女頭のチェセから声をかけられて、意識がいまの現実に引き戻る。
「リュミフォンセ様。下船の準備が整いました」
「ありがとう。チェセ」
わたしは立ち上がり、天井の低い御座船のなかを頭をぶつけないように気をつけながら歩く。
「外に出るときは、どうか驚かれないようにお気をつけくださいませ」
「驚く? なんで?」
わたしのその反応に、リュミフォンセ様らしい、とチェセはくすくす笑った。
「魔王討伐の報は、王都から発せられて、すでにリンゲンにまで届いております。ご自覚がおありにならないかもしれませんが、リュミフォンセ様は、ここのご領主にして、地元自慢の英雄なのですよ」
さあ、どうぞ。
わたしは促されるままに、残夏の白い光にあふれる御座船の出口をくぐる。
桟橋に踏み出したわたしを出迎えたのは。
鈴なりにひしめくリンゲンの民たちの、熱烈な大歓呼だった。
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