127 密かな期待
その女性は、肘掛け付きの柔らかい椅子に深く腰掛けて、部屋の天井絵を眺めていた。
天井絵は、花園の泉のそばで異国の半裸の女神たちが談笑している場面だった。細かな筆致で描かれた女神たちは柔らかく微笑みつつ、楽しそうに談笑している。
王都の別邸である屋敷は、彼女の実家の趣味でいたるところに装飾が施されていた。壁、柱、天井、扉の取っ手・・・。少しでも隙間があれば、彫刻、絵画、紋様をねじ込むその様式は幼少のころからのもので当初は気にならなかったが、彼女が長じるにつれて、それらの裕福さと高い美意識の象徴は、ごてごてとした悪趣味なものに感じられて、鼻につくようになってきた。
だから、彼女が王都に来て結婚をしたとき、別邸の一部屋を、王都の新進気鋭と言われていた装飾家のひとりを呼び寄せ、その感性で大幅な模様替えを行った。高名な画家による壁の絵や彫刻付きの柱は取り外し、絨毯は張り替え、黒や白を使った落ち着いた色彩の単純なもので揃えた。装飾ではなく、家具そのものの輪郭線を活かす考え方だ。
部屋は壁も絨毯も家具も入れ替えて作り変えたが、天井だけは残した。理由は単純だ。その絵を消したり隠したりするのが、なんとなく惜しいような気がしたーーそれだけだ。
高名な画家によるものだからか。柔らかな筆致が気に入っているのか。半裸の女神が談笑する表情が気に入っているのか。特段の理由は彼女のなかで見いだせなかったので、彼女はきっとそれらが合算されて、自分に訴えかけてきているのだろう、とぼんやりと思っていた。
この部屋は、実家が保有する、王都別邸の一室。ときおり心を休めるために使っている部屋だ。だったら曖昧なものを残しておいてもかまうまいと彼女は思うのだ。
「それで、あの『お芋姫』ったら、自らお城を出ていったんですって・・・! 田舎者には王城の雅さも、規則もわからないのよ。みんなで笑ってやったわ。だって、どこの鳥の骨とも知れぬ精霊付きの子供のために、自分から婚約者の地位を蹴ったのだから・・・ねぇ、お姉さま。聞いていらっしゃる?」
妹の言葉に、彼女はぼんやりとした物思いを打ち切る。視線を自然に移し、取っ手を持って白磁器を持ち上げる。
「ええ、もちろん聞いているわ」
彼女ーーディアヌ=ポタジュネットは、そう答えて、琥珀色の液体の入った白磁器に唇につける。お茶であったはずの液体はもう冷めていたので、唇を湿らせるだけに留めた。
彼女に呼びかけた妹、ポーリーヌにとって、姉の反応は満足いかなかったようだ。紺のフリルリボンで束ねた右側の髪をいちど払い、唇をとがらせる。
「お姉さまはもっと喜ばれると思ったのに。これでセブールも、『お芋姫』を娶ってお姉さまを第二夫人にするだなんて珍妙な企図を取り下げるに違いないでしょう?」
「セブール『殿下』。よ」
ディアヌはやんわりと指摘して、白磁器を皿の上に静かに置いた。かちゃという音が品よく響く。
「誰も聞いていないわ。ここにはお姉様と私のふたりきりよ」
「私は気にするわ」
私の旦那様だもの、と静かに言う。ディアヌ=ポタジュネットは、第一王子セブールの妃である。
「お姉さまはお優しすぎるわ。そういうところも魅力だとは思うけれどーーでも、セブールはお姉さまと、ポタジュネット家の看板に泥を塗ったのよ。それもべったりと」
お姉さまは許せるのかも知れないけれど、私は無理。顔を見るだけでおぞけがするわ。
言って、ポーリーヌは自分の白磁気を持ち上げてーーそこでお茶が冷めてしまっているのに気づいた。手元の鈴を涼やかに鳴らして侍女を呼ぶと、おかわりのお茶を準備するように命じる。侍女はすぐに準備をし、新たなお茶に取り替えた。
「そうなの」ディアヌの相槌。
「そうよ」熱いお茶を一口飲み下して、ポーリーヌは応える。
そして、憤懣やるかたないという調子で続ける。
「それもこれも、あのロンファーレンス家の小娘が悪いのよ。本当の父親もわからない、部屋住みだったくせにーー。あの娘が、王子の婚約者候補だなんて、つい最近まですっかり忘れていたわ」
それはその通りだとディアヌは思い、頷いた。対魔王軍との戦いにおけるリンゲン領の功績ーー魔王軍の撃退、生産性の向上、余裕ある領地経営による流民の吸収、王都までの水路開拓、良質な赤色魂結晶の戦線への供給、中央への食料の供給。
国難を救ったそれらの大功績が、ロンファーレンス家の小娘ひとりーーリュミフォンセ=ラ=ロンファーレンス=リンゲンという長い名前の、年端もいかぬ少女を淵源にしているということは、ディアヌも、リュミフォンセが一代公に叙勲されるにあたって初めて知った。
王都の民衆も事情はそう変わらない。だが、彼らの反応はもっと過剰だった。若く美しい少女英雄の出現に希望を見て、魔王軍との戦いに疲弊しきっていた王都の民衆は沸いた。その人気ぶりを見て、貴族も一緒になって沸いたのだーーリンゲンの恩恵を受けたのは、民衆だけではなかったということだ。
そのうちこんな噂が出た。『この救国の英雄を妻にする者こそ、次の王に相応しい』。
だから王族もリュミフォンセに興味を持ちーー、そして王子たちは、自分の婚約者の泡沫候補として、その名が名簿にあることに気がついた。
本来の婚約者候補である第二王子、第三王子と辺境伯子。そして何故か第一王子も加わって、求婚劇が始まった。はたから見ていれば喜劇だが、もともと婚約競争をしていた者たちから見れば、面白かろうはずもない。
「でもこの愚かな求婚劇ももう終わりよ。あの娘は、お芋姫は、王城の規則を破って第一王子に反抗したうえ、みずから王城を出ていったのだから」
ポーリーヌは熱いお茶をごく、ごくと飲み下した。
「そうかしら?」ディアヌも白磁器を持ち上げ、そして首をわずかに傾けた。「第二王子のオーギュ様は、あの
貴女の婚約者候補のひとりでもあるオーギュ様よ、とまではディアヌは付け加えなかったが、意味は充分に伝わったようだ。たいした苦くもないお茶に、ポーリーヌが盛大に顔をしかめたからだ。
「・・・オーギュ様はときどき、物好きをなさるのよ。下級貴族の子に目をかけてやったり・・・。お優しいのよ、ついつい同情をかけることがあるの、学院で生徒会を一緒にしているからわかるの。でも、結局きまぐれよ。お芋姫は中央貴族の支持を決定的に失ったから、王位を目指すには邪魔になる。どうしようもないはずだわ」
「・・・そう。きっとそうね」
ディアヌは追求せず、妹の意見にただ相槌をうった。
しかし、言葉を留めるために白陶磁器に口をつけながら、ディアヌはこう思う。
かつて、
ディアヌとリュミフォンセかのどちらかが身を投げることになるかも知れないと考えていたけれど、リュミフォンセがしたことは、ディアヌの予想を越えてきた。なんとなれば、彼女は、大狼を乗り物にして宙に舞い空を飛び、嘆きのバルコニーというかつての悲劇の場所から、王城を出ていったというのだから。
悲劇は繰り返されなかった。劇はご破算になった。
それは、貴族の規則に縛られることなく、規則どころか
ディアヌはそう解釈していた。
だから、リュミフォンセが、また、自分たち貴族の常識を越えた何かを、するのではないかーー。
妹には言えないけれど、ディアヌはそう感じ、そしてひそかに期待すらしていた。
ふと天井を見あげれば、異国の女神が、貴族のディアヌを見下ろして、微笑っている。
■□■ ■□■
『クロネ村近くの枯れ谷』あるいは『隠し去りの枯れ谷』と呼ばれる場所の、奥にある、人工的な中庭のような場所。
綺麗に高さが揃った下草と、規則性を持って巨石が並べられた不思議なその場所で、わたしはオーギュ様に呼び出されて、勇者たち皆から離れてふたりきりで歩いていた。
オーギュ様が先に歩き、わたしはその後ろについて行くようにして歩いている。
さっき、みんなで談笑していたら、『ふたりだけで大事な話がしたい』と突然オーギュ様に言われたのだ。
彼の気迫はごくごく静かなのに結構なもので、わたしは頷かざるを得なかった。そのためみんなから奇異と驚きと微笑ましいものを見るような、複雑な緊張感で送り出されたのだ。はずかしい。
巨大な岩陰に回り込んだところで、オーギュ様はこのあたりで良いでしょう、と振り向いた。
「立ち話で申し訳ないですが」と軽く前置きして、わたしが頷くのを確認して。彼はずばりと本題に入った。
「リュミフォンセ様は、なぜ我々がーーいえ私が。貴女を追ってきたのか、おわかりでいらっしゃいますか?」
えっ? それはオーギュ様はご自分で説明してくれたよね。わたしの王城の不始末を解決してくれたのを知らせに来てくれたんだよね。
「そうですね。それは正しいです。けれど、その先は? 私の気持ちには気づいていただいていると思っていました。それとも、わかっていてわざとその態度なのでしょうか? ヴィクトにも? そうだとしたら、なかなかに厳しい方だ」
えっ? なに? わたし、責められている?
「あの、わたし、何かお気に触ることをしてしまったでしょうか?」
「・・・。そうですね、まず本来、伝えておくべきことを、まだお伝えしていませんでしたね」
ため息をつくような、嘆くような。そんな調子でオーギュ様は言うと、その場、風がそよぐ緑の絨毯の上に、片膝をつく。
そして、戸惑い立ち尽くすだけのわたしを仰ぐように、手を差し出し、言った。
「美しき深森の淑女、リュミフォンセ様。どうか私の妻になっていただけませんか」
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