108 王城夜会 冷たい鞘当て②





王城は、巨大で複雑で、まるで生き物の体のなかのようだと感じた。


政庁としての役割を持つのはごく一部だけで、王の権威が演出される場であり、外交に使われる場でもあり、さらには貴族たちの交流の場として提供され、有事の際は最後の砦となり、そしてここは王と王族の居城でもある。


さらに王城はそのときの事情で改築され、継ぎ足される。歴史が積み重なるほどに、王城もまた変わっていく。複雑な用途と継ぎ足しの連続が、王城の内部の複雑さに、一役も二役も買っている。そしてこれで終わりではなく、王城はまだ成長を続けている途上なのだ。


そして西の端の階段、案内役の美女の背を追って、黒大理石マーブノワルの階段を昇っていった先にあったのは、白大理石で作られた、広いバルコニーだった。


そこから見える光景は圧巻だった。


夜の帳がおりつつある薄闇の王都。街々の明かりは暖色の星空が地に広がったよう。立ち上る夕食の炊煙、ほのかに揺らめくように見える、王都に住むひとたちの暖かな団らんの光。


空を見上げれば星が薄く輝き、夜が深くなるごとに強まる輝きを予感させる。ふと渡る風は心地よい具合に冷たく、生ぬるい初夏の空気を掃き払う。


わたしの前を行く美女は、ディアヌ=ポタジュネット。東部随一の公爵家の娘で、今はこの国の第一王子の夫人。ときと場合によっては王妃ともなる女性。


バルコニーを舞台にした圧巻の光景を背景にして、彼女は振り返り、わたしに向き直った。赤みがかった茶色の瞳が妖しく輝き、彼女を謎めかせ、そして彼女のもつあでやかさをより色濃く演出する。そして艷やかな唇を開く。


「ーーここは、王城で一番の眺望が見える場所。ただ『西の大バルコニー』と呼ばれることもありますが、実は『別の名前』がありますのよ」


「別の名前、ですか」


わたしが応じると、ディアヌ様は満足げに深く頷いた。


「ええ。『嘆きのバルコニー』というの。謂れはご存知かしら?」


「・・・いいえ」


バルコニーには異国風の大鉢が置かれ、満々とたたえられた澄んだ水のなかで、赤い魚が泳いでいる。その魚が振った尾びれのぱしゃりという音が、やけに大きく響いた。


「ーー昔、とても美しい姫がいたの。その娘は平民だったけれど、実はさる高貴な方の隠し子で、その血を受け継いだことを知らされずに育てられた。けれど本来生まれ持った美貌は隠せるものではなく、やがて王に見初められた。玉と磨かれ、女は美姫となり、国で一番美しい姫、と呼ばれるようになった。姫はこの国の寵姫となり、当時の王の寵愛を一身に受けた。


平民でもうらぶれていた娘が、実は高貴な血筋の胤で、王に愛され、最高の幸せを手にするーーまるで物語にでも出てきそうな話は、民衆にも熱狂的に歓迎されたわ。それがきっかけで当時の王への支持も強くなり、王の権威も大きく高まった」


「・・・・・・」


「けれど、現実は物語と違って、めでたしめでたしで終わってはくれない。寵姫になったその後、4、5年は、彼女は幸せだったというわ。王に愛され続けた。子供も生んだ。女の子だったけれどね。


けれど、またどこかから、新たな姫が来た。その女性は寵姫の彼女ほど美しくなかったというけれどーー王の心は、変わってしまった。新たな若い姫に移ってしまった。王の足は寵姫の寝室から遠のいた。寵姫の彼女は深く悩んだ。王が寝室を訪れてくれないのは、自分の容色が衰えたせいだーー。そう考えた。


そして彼女は、美しさを保つために、ありとあらゆることをした。怪しげな薬を買い漁っては試したり、過度な食事制限で、果実汁だけで数ヶ月を過ごしてみたり。実際の彼女が美しさを保っていたかどうかは知らないわ。けれど、王の足が彼女の寝室に向けられることはなかった。


彼女は王の愛を得られないことを悩み、何故と問いかけ、もがき、苦しみ抜いたすえにーー。彼女は王城から身を投げた。幼い娘とともに」


ほんの僅かな時間、風が止まる。


「その場所は失われた寵姫を惜しんで、『嘆きのバルコニー』と呼ばれるようになった・・・それが、この場所よ」


ディアヌ様は伸びやかな両腕を伸ばして、この場所を示して見せた。それは舞台役者がするような仕草だったけれど、とても似合っていて、この場に似つかわしいように感じられた。


「・・・王城の嚮導ガイドは、これでおしまい。どう思って? 貴女の忌憚きたんのない感想を、ぜひ伺わせて欲しいわ」


彼女は柔らかく微笑みながら腕をおろし、わたしに向かって言った。きっと憎悪が腹のうちではとぐろを巻いているだろうに、伝わってくる雰囲気はあくまで静かなものだ。彼女の精神力ーー令嬢力は、称賛すべきものだ。


美しく、艷やかで、理知的。芸術への造詣も深くて心も豊か。ディアヌ=ポタジュネット様へのわたしの印象は、そのようなものだった。わたしは素直に疑問を口にした。


「どうして、わたしに、こんな話を?」


「どうして。どうしてってーー」


ほんのわずか、いらだったように呟いて、ディアヌ様はわたしを観る。わたしがディアヌ様を観察して推し量ったように、ディアヌ様もリュミフォンセを推し量っている。


『どうして』。


その答えは、相手の理解度と立場によって変えなければいけないと、お互いがわかっている。


わたしはどう思っていると、ディアヌ様に思われているか。

何もわかっていない小娘だと思われているのか。

あるいはロンファーレンス家の操り人形、手駒のひとつにすぎないと思われているか。

王妃の地位を求めて、あるいは第一王子の愛を求めて、ディアヌ様を敵と捉えている欲しがりの娘と思われているか。

もしくはディアヌ様取るに足らない存在だと捉えている傲慢な娘と思われているか。


一方で、ディアヌ様はここでどうする気なのか。


わたしを害する気なのか。

害するとして直接に身体を傷つけるのか。

それとも名誉を壊すのか。

最悪、ここでディアヌ様がバルコニーから身を投げれば。

わたしは殺人を疑われて、縁談と名誉が消えるだろう。



「『嘆きのバルコニー』のお話は、とても参考になるお話だったでしょう?」


ディアヌ様は言った。ここでまた、わたしはディアヌ様を推し量らなければいけない。先を読んで、言葉を返す。


「それは、わたしがいずれここから身を投げるからーーということですか?」


ディアヌ様は口元だけで笑った。そしてわたしの答えの一歩先の答えを提示する。


「あるいはそうかもしれませんね。ーーわたくしと貴女、いずれかの未来になる可能性は、否定できないでしょう?」


「どうでしょう。選択次第では?」


「では問いましょう。魔王軍との戦いで自領を見事に護りきり、どの領地も戦いで荒廃するなか、領地をさらに富ませ、莫大な富を生んだ、若き英雄のごとき姫。しかも、どの政治勢力からも距離をおいて中立。ーーこんな姫が居て、その方が王子と結婚でもしたら、その王子はどうなるかしら?」


彼女の言葉は、明らかにわたしの業績を指していた。ここで取り繕って謙虚な回答をしても仕方がない。正直に答える。


「ーーわたしと結婚すれば、王太子になる可能性が高くなるだろうとは聞いています」


それは忌々しいことのはずだが、彼女は合格だというように頷いて、艷やかな唇から言葉を吐き出して風に乗せる。


「さらに問いを進めましょう。仮に、第一王子のセブール殿下でなく、貴女が第二王子のオーギュ殿下と結婚するとしてーーオーギュ殿下が王になれば、セブール殿下はどう扱われるかしら?」


「それは・・・」


政争に敗れた側の末路はいつも悲惨だ。地方に転封されるのが妥当だろうけれど、両王子の関係が悪ければ、暗殺もあり得るだろう。けれど、そこまで両王子の関係は悪いのだろうか?


考えて口ごもっていると、ディアヌ様は問いを続けた。


「それでは、貴女が第二王子のオーギュ殿下と結婚したとして、彼を説得して王位を諦めさせ、セブール殿下を王にすることができますか?」


「ーーそれは、無理でしょう」


わたしは答えた。第二王子も本人が王位を望んでいる。それを諦めさせるなんて、現実的じゃない。そもそも王位を狙うのに有利だからという政治的な理由で、わたしは結婚相手として望まれているのだ。


となると、ディアヌ様からすれば、第二王子と結婚させるくらいならば、わたしを第一王子と結婚させるように仕向け、第一王子の王太子への道を固めさせるほうが、最善手ということになる。それでいいかどうかは別として、第二夫人の地位は残る。


けれど、第一王子の現夫人のディアヌ様の立場になれば、辛い選択だ。


「では、貴女がセブール殿下と結婚をして、彼を王位に導いたとしてーー身を投げるのは私かしら? 貴女かしら?」


ディアヌ様の口調には、自嘲が混じる。感情に声が震えるということは、本心に近いところに近づいているということ。


どうだろう。政略結婚をして、セブール様はわたしを愛するだろうか。そしてディアヌ様は、それを嘆くことになるのか。それともセブール様はディアヌ様を愛し続け、かたちばかりの結婚で相手の愛を得られないことに、わたしが嘆くことになるのだろうか。


そう考えて、セブール第一王子殿下に、わたしの気持ちがないことに気づく。


わたしは、ディアヌ様の問いに答える。


「・・・セブール様は、貴女を愛していらっしゃるのでは?」


わたしの答えに、すっとディアヌ様の表情が固まった。ぎこちない笑み。さきほどまでの魅力的な微笑みは失われてしまった。


「・・・そうよ。あの方は、私を愛してくださっている。こんな状況になっても、そんな優しい言葉をくださるのよ・・・」


その第一王子の言葉はきっと嘘なのだろう。なにより、言葉を受け取るディアヌ様自身が嘘だと感じている。嘘を嘘と見抜ける、明敏な女性だ。けれど、そんな軽薄な嘘に頼らなければ心が保てない。ならば、嘘とわかってもすがるしかない。


「それでも私も・・・私は、あの方を愛しているのよ・・・」


ディアヌ様の心中を推し量ると、心が痛くなる。彼女を知らなければ、見て見ぬふりができたのに、知ってしまえば、もうそれができない。


「泣かないでください、ディアヌ様。きっとわたしたちには、なにか道が・・・」


「泣いてなどいないわ」一度顔を伏せて、手袋に目尻の雫を吸わせれば、先程までの美貌が復活している。「それに、並び立つ道は無いわ。貴女だって、ロンファーレンスの家名を背負っているのでしょう?」


「そ、それは・・・」


脳裏に浮かぶのは、お祖父様と伯母様の顔。そして3人で会談した場面だ。王族に縁づくと、わたしは約束した。安易な考えは、約束を違えてしまう。


「私だってポタジュネット公爵家の者」


彼女は前へ歩き出した。つまり、わたしのほうへ。


そしてわたしの脇を通りながら、強い言葉を言い切る。


「貴女の情けを欲しているのではありませんし、受ける気もありません。ーーこの場を設けたのは、実をいえば、宣戦布告のため。ポタジュネット家は、負けません。そのためにいくつも策を巡らせているーー今夜だって」


成人しているディアヌ様のほうが、背が高い。わたしは見上げるようにして、横に立つ女性を見た。赤みがかった茶色の瞳に吸い込まれそうに感じた。



■□■



そして、ディアヌ様は、王城の夜会の会場となる部屋の前まで、王城に不案内なわたしを導いてくれた。道中、わたしたちは、意味のある言葉を交わすことはなかった。


そこに居た緞帳の影にいた係の者にわたしの名前を告げたあと、わたしとディアヌ様は、面と向かいあった。「今夜の私の出番は終わり。また会いましょう」と淑女の一礼をして、ディアヌ様は、その場を去っていった。


真っ直ぐに伸ばされたその背中に向けて、わたしは改めて深く、淑女の一礼を捧げる。彼女は振り返ることはない。


そして緞帳のそばの係りの男性が、大きく息を吸った。


「リュミフォンセ=ラ=ロンファーレンス=リンゲン 一代公、ご推参んーー!」


係りの者の名乗りの声を聞きながら、わたしは会場に入るべく、緞帳の影から靴先を出す。








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