第19話 2番・ショート・豊田 ~流線形打線の終焉
三原脩氏関連の本は、高校時代からそれなりに読んでおります。どうしても、西鉄や大洋時代の日本一になる過程というのが、すごいですからな。いやでも、三原さんに行きついてしまうもの。
西鉄ライオンズと大洋ホエールズというのは、選手自体が全く違うというか、そうなってくればチームカラーも違うし、特徴自体も違う。まったく違うものだらけで、しいていえば、仕事として野球をやる人たちの集まり、ぐらいしか共通点、ないんじゃない? と言ってもいいぐらい。
その2チームをものの見事に日本一に導き、さらにはしばらく優勝争いに絡めるチームに仕立て上げたというのは、本当にすごいとしか、言いようもない。
もう一つ言うと、西鉄ライオンズのほうはと言えば、最初は箸にも棒にもかからない選手がほとんどで、「品性下劣」な行為をする選手も最初のうちは多かったらしい。それを少しずつ変えていき、若い有望選手を取るだけでなく、チームの支柱になるスター選手も獲得、そして、それまで行きがかり上しこりのあった選手もうまく使いこなして、あの結果を導いたという次第。
しかし、西鉄ライオンズというチームがなければ、南海ホークスも、400フィート打線があったのだろうかという思いに駆られます。
あの流線形打線というアイデアを考案したのは、立石泰則氏の「魔術師」によれば、曽我部さんという東京大学の学生によるものらしい。なんでも、得点力をアップするには2番打者がポイントで、そこに強打者を充てる、とかなんとか。
そこで、クリーンアップを打てる豊田泰光を2番に据える。
2番・ショート・豊田
というと、同時期の他球団の
2番・ショート・広岡
2番・ショート・吉田
と一見同じように見えるが、その内実はまったく違う。実質的には3番打者が2番に座っているようなもの。
確かにこれは、西鉄ライオンズが一番強かったであろう1957年の日本シリーズでは大いに機能し、4勝1引分けで日本一に輝いた原動力となりえた。
だが、この「2番・ショート・豊田」という打線が組めなくなった時が、実質的には西鉄ライオンズというチームの「終焉」だったのかもしれません。
中西太の故障、大下弘の引退、関口清治の衰え・・・
この3つ、特に中西太の故障がなければ、まだまだ西鉄は強豪たり得たのかもしれませんが、そうは問屋が卸さなかった。
公式戦での「2番・ショート・豊田」の最後は、1958年7月23日の大阪球場の南海線で、相手先発投手は杉浦忠。この試合、西鉄は負けています。そして、本当の最後は、この年の日本シリーズ第3戦。この試合まで3連敗した西鉄は、その後4連勝して日本一になるものの、残りの4試合は、豊田選手は3番ショートでスタメン。
その翌年以降、「2番・ショート・豊田」が公式戦で組まれることはありませんでした。やがて彼は、3番、そして4番を任されるようになりました。そういえばよさそうだが、要は、かつてのような「強力打線」が組めないから、本来のクリーンアップに彼をおかざるを得なくなっただけのこと。
彼は後に国鉄スワローズに移籍したが、最晩年を除き、彼はやはり4番打者であり続けた。しかも、遊撃手として。
それにしても、彼は遊撃手としては当時の広岡・吉田といった名手に比べてもエラーの多いイメージがあったようです。それなら、彼をはじめから一塁にでも回しておけばよかったのにとは思うのですが、三原さんは、それをしなかった。後の国鉄の監督も、最晩年以外はそれをしなかった。
彼の遊撃手という位置は、吉田さんや広岡さんとはかなり違った意味かもしれないけど、「天職」だったのでしょう。
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