最終話 この青き空の下で

 そして8月15日、大日本帝国の無条件降伏により戦争は終わった。

 それから1ヶ月程経ったある日、一人の少年が最上家を訪れた。

 越智市郎は、復員したその足で自宅に向かうよりも先にこの家に向かっていた。ボロボロの姿で薄汚れてはいても、それでも『軍人だった』名残を捨て去ることなく、応対に出た志乃に敬礼してみせる。


 そして和人の戦死と彼が部隊でどのような存在であったのかを語った。


「主人は……立派でしたか?」

「はい! 尊敬に値する方でした。中隊長として……勇敢に戦って……最後の最後まで……」


 それ以上言葉にならなかった。

 俯いて涙を流す市郎に、志乃は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……それで充分ですわ……」


 震える手で差し出される白い封筒を受け取り、志乃は穏やかに微笑んで再び頭を下げた。


 市郎が何度も何度も頭を下げて最上家を辞すのを見送ると、志乃は一人で和人と行った高台へと歩いて行った。それは和人がパイロットになる道を選んだ時に、志乃が和人を励ました思い出の場所でもある。


『和人は言ってたよね……風になってみたいって……それって空を飛べば判るんじゃない?』


 海軍兵学校に入学するか迷っていた和人を、志乃は市街が見渡せる高台に連れて来て、その背中を押したのだ。風がセーラー服のスカーフとスカートの裾を僅かに揺らし、志乃は笑う。


『行ってらっしゃいな!あの蒼穹の世界に……そしてあたしに教えてよ!風の果てを!』


 あの時の決意じみた表情を浮かべた和人を見た時から、志乃は本当の意味で彼を愛していた。空に憧れ空を駆けることを夢見る若者を心の底から愛しいと思ったのだ。


――あなたは本当の風になったのね……?


 もうこの世に和人はいない。彼女が最も愛した存在が消えてしまった……

 あの日汽車から大声で叫んだ和人の声が志乃の胸に去来し、志乃は呆然とその場に座り込んだ。


「和人……あなた……」


 そして和人の手紙を広げ……ただ泣いた。

 今迄抑え込んでいた気持ちを噴出させるように声を上げて泣いた。

 言葉など発する事もなく、泣くことで、空にいるであろう和人に届けとばかりに志乃は泣いた。



――――――――――――――――――――――



最上志乃 様


この手紙を志乃が読んでいるという事は、私はもうこの世にはいないと思います。

生きていたらこの手紙は破り捨てていただろうから。


志乃。

本当のことを言い出せなくて、ごめんなさい。

気付いていたかもしれないけれど、あれは、特別に与えられた休暇でした。

故郷、家族、そして恋人に別れを告げる為に司令官から与えられた休暇でありました。

僅かな帰郷だったけれど、一生で一番幸せな時間を過ごすことが出来たと思っていまず。


それは志乃、君がいてくれたから。

だからありがとう。


志乃。

約束を破って、ごめんなさい。

君は多分、怒っているでしょうね。でも、解かって欲しいのです。

正直に言うと、私もずっと生きて、志乃と一緒に人生を歩みたかったです。


けれど、毎日出撃していく内に、戦友達が次々に消えていく。数時間前まで談笑していた仲間達が今はもうこの世にいない、それが今の私達なのです。

何より辛いのは、自分より若い連中を訓練しては戦場に送り、たった一度の作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しをしている事です。

彼等が実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足していて未熟な状態で送り出さねばならぬ事、特攻という攻撃に彼等若い命を遣わせている事、それを黙って見守らねばならないという使命。

私は胸が張り裂ける思いで一杯です。


それでも基地にいる人間は誰もが思っている事は一つです。

それは皆を護りたいという気持ちです。

心から愛する人を、無差別に殺傷する敵から護りたいのです。

その結果がこうなってしまったのは、哀しいというより他にありません。


「命は何よりも尊いもの」と誰かが言ったけれど、

「自らの命を投げ出してでも護るべきもの」もあるのだろうと思います。

それが良いのか悪いのか、今の私には判りません。


それでも、私は志乃、貴女を護りたかった。


志乃。

私がいなくなっても泣かないで下さい。

そしてどうか、強く生きて欲しい。

志乃には涙は似合わないから。志乃には太陽のような笑顔が一番似合っていると思うから。


昔、言ったこと、志乃は覚えているでしょうか。

俺の宝物は青い空と志乃なんだって。

だからもし生まれ変わることが出来たなら、青い空になりたい。

青い空には太陽があるから。

太陽のような志乃といつまでも一緒にいることが出来るから。


志乃。

こんな事を頼める資格は無いのかもしれないけれど母さんと慶子の事を、よろしくお願いします。

志乃も健康にだけは注意して欲しい、それだけが気がかりです。

でも不思議な気分です。何だか遠足に行くような、そんな軽い気持ちしか沸いてこないのです。


さようなら、志乃。

今迄本当にありがとう。こんな私の傍にずっといてくれて、妻になってくれてありがとう。

私は風になり、いつまでも君のことを見守っているから。



最上和人




――――――――――――――――――――――




 時の流れは、慌ただしく過ぎ去っていく。

 和人が還らないまま、季節は移り変わった。

 秋が深まり、山々が黄色く色づき始める頃、ようやく傷が癒え始めたのかメイや慶子、そして志乃も、時折笑顔をせられるようになった。


 和人が鹿屋基地から出撃してから一年半が経った、良く晴れたそんな春の日。

 志乃は自宅の縁側に腰掛け、久し振りに和人の手紙を読み返した。


「和人の馬鹿……」


 読み終えた後、空を見上げて呟いた。


「和人さん、あなたは風の果てを見たの? それとも其処そこにいるの……?」


 もちろん答えが返って来る筈はないが、志乃は空に向かって語りかける。


「あなたは勝手よ。いつもいつもあたしに心配ばっかりかけて、勝手に死んじゃって。馬鹿よ、馬鹿。あなたは大馬鹿よ!……だからあたしは許さない、絶対に和人のこと許さないんだから!」


 志乃は俯き、少しだけ声を震わせる。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。


「だから思いっきりひっぱたいてやるから、いつかあたしがそこに行くまで、大人しく待ってなさいよ!」


 そしてもう一度、志乃は空を見上げた。

 その腕の中で、安心したようにすやすやと眠る新しい命を抱きながら。


「もうこの手紙を見るのは最後にするわ……あたしは、此所でこの子を立派に育ててみせる。それまでは、和人の好きな笑顔でいてあげるから……」


 その時一陣の風が吹き抜け、ヤマザクラの花弁を大きく散らしていく。

 桜の花弁は、志乃の髪を優しく揺らし、和人が遺した新たな命を祝福するかのように、赤子の上で旋風つむじかぜのように舞っていた。







 手にした古ぼけた手紙に、ポトポトと涙が零れ落ちる。

 かつて、曾祖母志乃が零したであろう場所が再び滲んでいる。普段あまり感情を露わにすることがない科乃しなのは、この時一人静かに嗚咽を漏らしていた。

 自分が見た光景。それは決して映画やドラマではなく、自分が生まれる遙か昔、本当にあった事なのだ。

 大空に旅立つ前に、曾祖父和人が遺した命。それは時を経て、科乃しなのの祖母となり、科乃しなのの父が生まれ、科乃しなのがいる。


 今、この世界に自分が生き、大好きな本を読んでいるのも、大好きな大和の事を考え心ときめかせているのも、愛する者を命がけで守ろうとした人間がいたからだ。

 摩耶まや科乃しなのに言った言葉。その意味が、初めて理解できた。


 遙か遠き日、ヤマザクラに込められた一組の夫婦の願い。

 それが曾孫である自分に時を経て伝えられたのだと科乃しなのは思った。

 戦時下という今では全く考えられない異常な常識や観念や道徳が蔓延する中で、一人の人間として、必死に生きた自分の曾祖父と曾祖母。


 その姿は美しく、そして悲しく……儚いものだった。

 だからこそ、科乃しなのは泣いた。誰のためでもなく、二人のために涙を流した。





「曾お祖母ちゃん……わたしにこの手紙くださいね」




 どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく体を起こした科乃しなのは、泣き腫らした目をハンカチで拭って呟いた。

 彼女の部屋になっている仏間に戻り、掃除で埃がついた服から、浴衣に着替え、かつて志乃が和人に向かって言い放ったであろう縁側に腰掛けて、科乃しなのは大空を見上げた。

 曾祖母の遺したアルバムの裏に密かに仕舞われ、数十年も隠されていた手紙。科乃しなのはそれを大事そうに胸に抱えながら、仏間を後にした。


「あら、シーノ? どこ行くの?」


 大きなスイカを切り分けて、広間に運んでいた母親の横をすり抜け、科乃しなのは庭に出た。

 自分が見た和人と志乃の光景は、想像力豊かな自分の空想だったのかもしれない。


 二人が願いを込めたこのヤマザクラの木の下で読書をしていた自分に、二人が居るであろう青空からのちょっとした悪戯。

 それでも良いと科乃しなのは思う。


 現代のように好きであること、生きていたいことを堂々と言えない時代を曾祖父達は生きてきた。好きな人といつまでも添い遂げたい、生きていたいと願いながら、それでもこの山河を守ろうとして散っていったのだ。

 そして、彼等の決意や想いを知りながら、涙を堪えて送り出した曾祖母達の姿を科乃しなのは忘れたくないと思った。


 家を出て階段を駆け上がり、この街が見渡せる高い場所に今、水色の長い髪を靡かせた科乃しなのが立っていた。

 そこは80年前、和人が夢を語り志乃が後押しをした場所であり、生前の志乃が何度も訪れていた場所でもあった。

 見上げた先に、8月の青い空が広がっており、その眩しさに科乃しなのは思わず目を細めた。


「今、お二人は幸せですか? 曾お祖父ちゃん、曾お祖母ちゃん……」


 手にした和人の手紙を大空へ広げて見せた。


「あなた方の曾孫はこうして元気でいますよ!」


 その時、緩やかな風が一瞬強く吹き渡り、科乃しなのの髪が風に揺らいで乱れ、手にした手紙が彼女の手から離れようとした。

「あっ!」

 慌てて手紙を持ち直し、科乃しなのは空を見上げて微笑んだ。


「恥ずかしいからって、取り返さないでください。悪戯は『メッ』ですよ」


 そして曾孫の声に、風は観念したかのように穏やかになった。

 それは和人と志乃の命日である8月13日のこと。科乃しなのは天に向かって改めて声を掛けた。


「東京に戻ったら……わたし、彼ともっとお喋りします……勇気を出して!」


 その時、再び風が吹きよせ科乃しなのの頬を優しく撫でるように吹き抜けていく。それは、かつて自分の進むべき道を選んだ和人を元気な笑顔で後押しするかのように優しく、そして力強く。

 和人の手紙を懐に仕舞い、科乃しなのは静かにきびすを返すと静かにそれでもしっかりと歩みを進める。


 その上空を流れる風は、そんな少女の姿を何も言わずに見守り続けていた。

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