第7話 訣別の時

 和人に与えられた3日間の休暇は、矢が流れて行くかの如く終わりを迎えた。それでも志乃は、その僅かな間片時も和人から離れようとはせず、嫉妬した慶子と奪い合いになる一幕もあった。

 夕方には、海軍航空隊の分隊長として活躍している海軍大尉だいいを一目見ようと、近隣から多くの人がやって来ていた。まるで厄災のようにやって来ては、虫けらでも踏み潰すかの如く機銃掃射を加える『グラマン』は、憎んでも憎み足りない相手だ。

 そんな敵機を鬼神のような戦いぶりで撃ち落としていく『撃墜王エース』は、彼等の留飲を下げるのに十分な効果があったのかもしれない。そして、和人の存在は『変わり者』扱いされ、時には弾劾の声さえ上がってしまっていた志乃への風当たりを非常に弱める効果があった。

 是非にと促されてポツリポツリと話す空戦の話に彼等は耳を傾け、被弾した米軍機が墜落を始めるくだりには喝采すら起こった。そのような光景を見て、和人は志乃と顔を見合わせては苦笑してしまう。


 そして深夜になって二度目の甘い夜を共に過ごす。

 朝になり目覚めた時には、共に眠った筈の志乃の姿は其処にはなく、炊事場で鼻歌交じりに朝食の仕度をしていた。何より志乃の機嫌がすこぶる良いし、戦時中だと言うのに肌も艶々と輝いている。


 ずっと恋い慕っていた相手と結ばれ、正真正銘の夫婦になったのだ。浮かれるなと言う方が無理なのだ。

 とは言え、その幸せな時間は束の間だった。



 ポーン、ポーン、ポーン……


 壁に掛けられた時計が午前11時を知らせる時計を、和人は静かに見つめた。

 急行は午前11時半に駅を出る。その急行に乗らないと帰隊時間に間に合わなくなってしまう。だから和人は後ろ髪引かれる思いを断ち切るように立ち上がった。

「……じゃあ、そろそろ俺は行きます」

 紺色の士官服に身を包んだ和人は、制帽を被り目の前の母と妹。そして妻とその母に向かって敬礼する。

「和人。体に気をつけて頑張るのよ」

 和人の手を固く握りしめ、優しい笑顔でメイは話しかけた。

「カズ兄さん、手紙書いてね!」

 本当は悲しいのに、慶子は無理に明るく振る舞う。

「……カズ君。必ず帰って来て、志乃を幸せにしてあげてね」

 春子は和人に微笑みかけた。

「心配しないでください、母さん、慶子、お義母かあさん……」

 和人は微笑んだ。


 志乃は少し先まで送ってくれるから別れを告げるにはまだ早い。

 だが、母と妹、そして幼い頃から和人を本当の息子のように可愛がってくれた妻の母。これが見納めだと思うと、和人の胸が悲しみで支配される。

 彼女達との思い出が、和人の頭の中を駆け巡る。

 いつも優しく和人を育んでくれた母、小生意気だけど可愛い妹、妻に似て優しく美人な妻の母。

 彼女達との思い出が、走馬灯のように駆け抜けてきて、和人の胸に込み上げてくるものがあった。

 だが、泣く訳にはいかない。


――ようやくここまで耐えたのだ、あと少しじゃないか。


 だから和人は痛い位に唇を噛みしめ、再度敬礼した。

「それでは行って参ります……さようなら」

 何もかも判っていながら気丈に笑顔を見せる母と目が合い、最後だけ、和人の声が震えた。


――母さん……ありがとう……


 きびすを返して立ち去る和人と寄り添うように付き従う志乃の背がメイの視界の中に広がり、メイは刹那に手を伸ばした。

 しかしその母の腕は空しく空を彷徨い、去っていく我が子に届く事はなかった。

 メイの脳裏に、この世に生を受けたばかりの赤子の声が甦る。まだ何も知らない小さい手。腕に抱かれて乳を吸い、静かに眠る男の子……それが和人だった。

 泣き虫で怖がり……死について知った時の怯えで母に縋りつく甘えん坊……でもその中に宿っていたのは、父親譲りの海兵の血だった。


――和人……!!


 声にならない声で叫んだ。狂おしい程に大きな声で叫んだ。決して聞こえない母としての叫びだった。


 やがて、メイは息子の背中を見送ってから、慶子と共に家に戻った。

「慶子……母さんはお父さんに和人のこと、報告してくるわね」

「うん」

 何も知らない慶子は、明るく頷く。

 慶子を隣の部屋に残してメイは仏壇の間に足を踏み入れると、夫の遺影の前に座って話しかけた。


「弘道さん。和人……行ってしまいましたわ」


 メイの瞳から、今までこらえていた涙が溢れ出した。そして、仏壇に昨日和人が捧げた白い封筒を両手で抱き締めた。それが何なのかは、中を見なくても判っている。しかし、声を出して泣く訳にはいかない。隣の部屋にいる慶子に気付かれてしまうから。


「あの時も……弘道さんは仰いましたわね。『何も言うな』って……だから私は『あの時も』……『今日も』和人に何も言いませんでした」


 ポタリ、ポタリと畳がメイの涙を吸い込んで行く。


「私は女であることが辛くてたまりません。無力な自分が嫌でたまりません。私達には、黙って男達を見送ってやることしか出来ないと言うんでしょうか……!?」


 少しだけメイの独白が鋭くなった。


「もうすぐあなたの元へ和人は行きます。その時は和人のこと、褒めてあげて下さいね?」


 泣き笑いのような顔になって、メイは仏壇の前に突っ伏す。

 それでも口元を手で押さえ、必死に声を殺して泣き続けるのだった。



□■□■□■



 来た時と同じ、再び桜並木を並んで歩きながら志乃は和人に問いかける。

「お母様、いつもと感じが変わってなかった……?」

「母さんは、いつもあんな調子だと思うよ?」

 母メイの気持ちは痛い位に伝わってきた。だからこそ、わざとらしく和人は笑って応えるが、それでも何か考えを巡らせようとする志乃の手を、和人はキュッと握りしめた。


「あ、あなた!?」


 この時代、男女が手を繋いて道を歩くのはおよそ考えられない。

 誰も見ていないのなら良いが、今日は人影もちらほら見える。だから志乃は思わず和人の手を振りほどこうとするが、和人は固く志乃の手を握りしめて、離そうとしない。

「い、いや、あの……和人さん、恥ずかしい……!」

 慌てて志乃は叫ぶが、和人は意に介さない。ますます固く、志乃の手を握りしめる。


「志乃のことが好きだから、志乃をずっと感じていたいからこうして志乃の手を握ってるんだ……駄目かな?」

「駄目じゃないけど……」


 戸惑ったように、志乃は言った。

 帰ってきた時も、あっさりと志乃に向かって『愛している』と言った時もそうだったが、和人は海軍に入ってから非常に積極的になった。

 あの時もいきなり帰って来たかと思えば、戸惑う志乃を抱きしめ、口付けをされた。恋い慕う相手の思わぬ行動に一人の女性としてはとても嬉しいと思ったのは嘘じゃない。そして今も人の目を気にすることもなく、志乃と手を繋いで道を歩いている。

 以前の和人なら、そんな行為は決してしなかった筈だ。


 昨日家に訪ねてきた人々に語った空戦の話題で彼が語ったように、空戦は命を懸けた殴り合いだと言う。高速で飛びながら戦う状況では、ほんの僅かな判断ミスが致命的なダメージを負う事があると和人は語った。


――和人は……そんな紙一重の世界に再び戻ろうとしている……


 思えば、和人と志乃の結婚式は質素なものだった。以来、二人は夫婦とはなったが、一緒に同じ夜を過ごしたことは一度もなかった。だから一昨日初めてしとねを共にした時は、柄にもなくとても緊張してしまったが、そんな志乃に和人はとても優しかった。

 昨夜も和人は、精一杯の想いを志乃に伝え残した。決して乱雑に扱われた訳でも、心や体にいたむような事をされた訳でもない。それでも和人は志乃を求めた。まるで自分の証跡を残して行こうとするばかりに……


 これから、和人の身に何かが起こるというのだろうか? そう思うと居ても立っても居られないほどの不安に圧し潰されそうになる。

 しかし、その不安を拭うように繋いだ手から和人の温もりが伝わって来て、志乃はこの思いを振り払うように首を左右に何度も振った。


――それでもあたしは、和人を信じたい……


 だから志乃は今、幸福の絶頂にいた。ささいな不安など、志乃の幸せには何の影も落とさなかった。


「和人さん……今度はいつ帰って来られる?」

「そうだね……紅葉の頃には帰って来たいな」

「約束だからね!」

「……うん、約束するよ」

 そう言って和人は、志乃を握る手に力を入れた。


 やがて、二人の前に続いていた桜並木が終点に差し掛かる。桜の木は、今日もその枝に沢山の花をつけ、辺りを桜色に染めていた。

「志乃……見送りはここまででいいよ。もう時間もないし、後は走って行くから」

 和人は立ち止まって、志乃に言った。

「うん……」

 志乃は素直に呟いた。


 本当なら、駅まで行って見送りたい。たとえあと少しの時間しか残っていなくても、ずっと一緒にいたい。

 だが、別れが辛くなるのは今も後も同じだった。

 このまま和人を引き留めることが出来たら、行かないでって叫ぶことが出来たら、どれだけ幸せだろう。いくら世間の常識を超越することができる志乃とは言え、戦時下では決して言ってはならない言葉を飲み込み、寂しさで込み上げてくる涙を必死にこらえて、志乃は笑顔を作った。


――やっぱりあたしには何も出来ない……

  でも何も出来ないのなら、せめて笑顔でいてあげる。

  和人……あなたの為に……いつもの笑顔で、あなたを安心させてあげる。

  和人がいなくても、あたしは大丈夫。だから、心配しないで。

  その代わり、絶対に帰って来なさいよ。帰ってこないと許さないんだから!


 溢れる思いは留まる事を知らず、志乃の中に満ち満ちている。言葉にならない想いを笑顔に込めて和人に向け、辛うじて口の端から零れ出たのは極めて有り触れた言葉だけだった。


「元気でね、和人さん……」

「うん……志乃も……」


 和人は志乃から離れると、将校に相応しい形の整ったと敬礼する。

 志乃はお辞儀をして和人に応える。


 が……ゆっくりと和人が右手を下ろした時、一瞬だけ志乃の肩が震えたのを和人は見た。


――すまない……志乃……


 喉元まで出かかった言葉を和人は飲み込み、和人は志乃に背を向けた。


「イッテキマス!」


 高らかに声を張り上げ足を踏み出す。一歩、一歩、また一歩。



 そして少しだけ歩いた所で、和人は振り返った。

 志乃が無理に作った笑顔で、和人に微笑みかけていた。それは時には母、時には姉、時には妹、時には恋人、そして妻として、幼い時からいつも和人を支えてくれていた志乃の微笑みだった。


 それを見た瞬間、和人は知らず、志乃に向かって話しかけていた。

「志乃……」

「どうしたの、和人さん?」

 少しだけ怪訝そうな表情になって、志乃は訊ねる。


――駄目だ……言っちゃ駄目だ……言っちゃ駄目だ……言っちゃ駄目だ!!


 何度も和人は心の中で念じるが、気が付いた時には自然と言葉が和人の口から流れ出しているのだった。


「志乃……ありがとう、今までどうもありがとう!」

「……えっ!?」


 決して言うまい、と思っていた言葉が、和人の口から飛び出ていた。しまった、と思った時は、もう遅かった。


「……和人さん?」

「志乃……さらばだ!!」


 和人は振り返ると駆け出した。もう志乃を振り返ることなく、和人は志乃に背を向けて走り去って行く。

 その背中が次第に小さくなっていき、そして、消えた。

「……えっ……和人さん?」

 志乃は呟く。


――今……何て言ったの……?


 余りに突然の事だったので、志乃の頭が巧く働いていない。




「和人さん?」




「和人さん!?」




 次第に志乃の端正な表情が強ばっていく。細長い脚がぶるぶると震え出していく。

「まさか……まさか和人……さん…………?」

 震えが止まらない脚を必死に動かし、志乃は前に進んでいく。

「和人………………和人…………和人……和人、和人!」

 譫言うわごとのように和人の名前を何度も繰り返しながら、志乃は桜色に染まった道を歩きだす。道の果てに消えていった夫の影を追い求めて……

 次第に脚が志乃の意志に従い歩みを速めていき、やがてその歩みは走りへと変わっていた。


「待ちなさいよ……待って、待ってよ……! 和人、和人っ!!……あなたぁぁぁぁ!!」


 絶叫に似た叫び声をあげ、志乃は走った。走り続けた。


 息も出来ない程の苦しみが襲い、ようやく志乃の目に桜色に彩られた駅舎が飛び込んできた時、志乃の耳に機関車が出発を鳴らす汽笛が耳から飛び込んでくる。

 引っ張られた客車の連結器同士がガガガガンとぶつかる音がする。機関車の上げるブラスト音がシュッ、シュッ、シュッ、とリズミカルな音を奏で始める。


「嫌よ! 嫌っ! 和人、行かないで!!」


 その声は機関車の上げる盛大な汽笛に掻き消され、和人を乗せた汽車は轟音と共に駅を離れていく。

 それでも志乃は足を止めない。動き始めた汽車に向かって、志乃は声を限りに叫ぶ。

 今までに一度も出したことがない位に大きな声で、彼女がこの世で最も愛する青年の名前を呼ぶ。


「和人っ!!!!」


 汽車の轟音にかき消されたその叫びを、しかし、一番後ろの車両に座っていた和人は確かに聞いた。

 そして窓から顔を出して和人は見た。志乃が髪を振り乱しながら、汽車を追いかけようと走っているのを。

 和人の名前を叫んでいるのを。


「……志乃っ!!」


 思わず和人も叫んでいた。窓から身を乗り出すようにして、和人は志乃に向かって大きく手を振った。

「志乃!!  志乃……!!  志乃ぉっ!!!」

「和人!!」

「さようなら!!  志乃、さようならぁ!!」

 やがて志乃の姿が、和人の視界から消える。


「ごめんよ、志乃……本当にごめん!」


 呟き、そして涙を流しながらも、和人はそれでも手を振り続けていた。

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