第6話 決意の空

「何をしてるの、こんな所で?」

 縁側に座って和人が夜空を眺めていると、横から志乃の声がする。

 和人は振り向きもせずに言う。

「月を見てたんだ……志乃も一緒に見ないか?」

「いいわ」

 隣に腰掛ける志乃を、そっと見やった和人は、驚いたように目を見開いた。そこにはいたのは、美しい浴衣姿の志乃だった。

 戦時中であり、何時いつ空襲警報が出されるか判らないから、寝巻きを着て寝る者はおらず、いつでも逃げられるような普通の服装のままで寝る事のが当たり前だった。

 実際、志乃も先程迄作務衣さむえのような筒袖の標準服と、脇が開き紐で縛るもんぺを着用していたし、防空頭巾と水、乾パンや缶詰などの非常食と赤チンやガーゼなどの救急薬品などを詰めた非常袋を常に携行している。


 しかし、今彼女が身に着けているのは、庭に咲くヤマザクラのような淡いピンク色の浴衣だった。

「志乃……それは……?」

「うん……やっぱり和人には、綺麗なあたしを見て欲しいから……」

 そう言って恥じらう志乃の白い顔が月の光に照らされて、美しく輝いている。そんな志乃を見た瞬間、和人は躊躇うことなく志乃を抱き寄せて唇を重ねていた。

義母様おかあさま達に……見られちゃうわよ……」

「構うものか」

 和人は言って、もう一度志乃の唇を求める。

 志乃は、そんな和人を拒もうとはしなかった。ただ黙って、和人の口づけを受け入れ、その身を和人に預けながら志乃は思った。


 今迄こんな外国人みたいな情熱的な行動を取る事は一度もなかった。照れ屋で恥ずかしがり屋で、涙脆くて男の癖にすぐ涙を浮かべる……だから、急に抱きしめたり口づけを求めるような事は決してしない……そんな人間だった。

 彼のいる『空の世界』とは、かくも過酷なものなのだろう。生き死にを掛けて一縷の望みを掛けて、天が垂らした『蜘蛛の糸』に縋りつくのだろう。このように行動すら変えてしまう程に……

 だから怖かった。不安で、志乃の全身が小刻みに震える。弱々しい表情で顔を一杯にして、志乃は和人を見上げた。


――ねぇ……あなたも特攻するの……?


 和人の唇、和人の温もり、両肩に添えられる和人の逞しい腕をその身に感じながら、声にならない声で訊ねてみる。

 本当は訊きたかった。だけど、怖くて訊けなかった。

 幼い時から一緒だった。許婚いいなずけとして、最上家に出入りし年齢の近い和人と志乃は、仲睦まじい様子を周囲に見せながら大人になって行った。


「大丈夫だよ、志乃」


 そんな志乃の心境を察したのか、和人は穏やかな声で呟いた。


「大丈夫だよ。志乃の為に俺は戦っているのだから……一回の体当たりで終わってしまう特攻より、何度も出撃して敵の飛行機を1機でも多く叩き落としたいから、そう簡単には死ぬつもりはない…………だから、安心して」


 もう一度、和人は志乃を抱き寄せる。和人の温もりを感じている内に、志乃の体から力が抜けていき、再び体を預けるようにその胸板に頬を添えて目を瞑った。

 そうされていると、不安でたまらない気持ちが次第に落ち着いていくのを志乃は感じる。

 だから、志乃には判らなかった。

 和人がその黒い瞳に決意の色を浮かべ、そして唇を噛みしめて悲しそうな表情で志乃を見つめている事に。


――何もかも喋ってしまったら……どれだけ心が楽になるだろう……?


 志乃を抱きしめながら、和人は考える。

 特攻隊配属前の、訣別の為の休暇だと言えたらどれだけ気が楽になるだろう。


 家族は……自分を幼い頃から可愛がってくれた妻の母親は……皆悲しんでしまうだろう。そして愛する妻は悲しむよりも先に怒ってしまうに違いないが、それでも気持ちは楽になるだろう、と和人は考える。少なくとも、大好きな人たちを騙しているという罪悪感に囚われることはなくなる。

 けれども、和人は口が裂けてもそれを言う訳にはいかなかった。


 言ったら最後、今以上の苦しみが和人に襲いかかってくることは間違いなかったからだ。

 そうなったら、決心がぐらついてしまう。日に日に悪化していく戦況……物資も燃料も不足し、故障や部品不足から満足に飛ぶことが出来ない機体が並び、飛ぶのがやっとな隊員達。ボルト一つ螺子ねじ一つが粗悪な物へと変わっていく現実がそこにある。

 無論、整備兵達も全力を挙げて、1機でも飛べる機体を増やそうと奮闘している。


 和人の機付きの整備兵は、まだ幼さの残る少年だったが、腕は良い……そして何より和人とは同郷であり、『海軍特別年少兵』で鹿屋まで来ているのだ。そんな彼の頑張りがあってこそ、和人は思いっきり空戦に向かうことが出来るのだが、それでも押し寄せてくる大量の米軍機に圧倒されているのが現実だった。


――制空戦闘で出撃しても、数の暴力の前に消えゆくのかも知れない……


 あの海で見た光景は彼の未来だ。敵味方の区別なく撃墜された飛行機の油が円形になって、いくつも浮かんでいる様はこの世界の無常さを示しているようだ。


――それでも俺は……


 志乃の護る為なら、自分は命を落としても良いと思っている。志乃が戦争に怯える必要のない世界が作れるのなら、自分1人の命くらい捨てても悔いはない。だから和人は転属命令を受け容れた。

 もう、その決心を鈍らせる訳にはいかなかった。


――だから何も言わず、いつものように振る舞って家を出よう。

  今はみんなに、心配かけさせないでおこう。


 そう固く心に誓っている。

 和人の表情がやけに硬くなっている事に志乃は気付いた。だから志乃は、小さな声で問いかけていた。何かを確かめるかのように。

「和人さん……何を考えているの?」

「もちろん、志乃のことだよ」

 それは嘘ではない。だが志乃は、その和人の言葉が嘘だと直感的に思った。


――和人さん……もしかしたら二度と戻って来ないかもしれない……!


 その不安で、和人に抱き締められている志乃の体が、がたがたと震える。

「ねえ……あなた……っ」

 しかし、志乃が和人の名を呼ぶよりも早く、和人は再び志乃の唇を奪っていた。

「志乃……愛している。だから何も心配しないで……」

 志乃の大好きな笑顔で和人は言って、そして三度みたび、志乃の唇を奪った。

 優しい和人の口づけを受けながらも、志乃は必死に考える。


――ねえ、和人。あたしはあなたがこれから何をしようとするのかは知らないわ……

  だけど、あたしはそれを黙って見ていることしか出来ないの?

  あたしに何か、出来ることはないの?


 程無くしてその『何か』を探し出した時、恥ずかしさで志乃の顔が真っ赤に染まる。

 女の自分から言うのは、はしたないかもしれない。

 しかし、夫である和人が求めているのなら、妻である自分は与えてあげたかった。

「あなた……お願いがあるの……? 聞いてくれる?」

 和人は優しい笑顔で、黙って頷いて続きを促す。


「あたしに……あなたの赤ちゃんを頂戴……あなたとあたしの可愛い赤ちゃんを……」


 小さいその声に、思わず和人は目を見開いて志乃を見つめた。庭に立つヤマザクラのような色合いの浴衣を着た志乃は、そっと和人の腕に手を添えて、頬を染める。

 小さな時から、ずっと一緒に育ってきた。親同士が決めた許婚いいなずけであったが、和人の傍にはいつも志乃がいた。


 男勝りでお転婆な女の子……いつも生傷が絶えず、お医者さんからは、男の子に間違えられる事はざらにあった。ガキ大将に虐められた和人の報復で、木刀を振り回して、その子が泣きじゃくるまで追い回した事もあった。


『あんたは、あたしが居ないとダメなんだからね!』


 女学校へ進み、セーラー服を身に纏うようになっても、志乃のお転婆ぶりは健在だった。

 それでも志乃は、決して和人の夢を嗤わなかった。和人の夢を信じ、和人の背中を力強く推していた。


『あんたが風になるなら、あたしも連れて行きなさいよね!』


 そう言って、プイッと横向きながらも差し出された右手は小指だけが立てられていた。和人がおずおずとその指に自分の小指を絡めると、志乃はそれを盛大に振り始めた。


『ゆーびきりげんまん、嘘吐いたら針千本のーます!』


 三つ編みの髪を揺らして、青い空の下で笑う志乃に、和人はずっと心を奪われている。月日が流れ、志乃が和人の許婚いいなずけから妻になっても、その心は志乃に捧げたままなのだ。

 その志乃が今、和人に身を委ねている。心の底から愛しい存在が今、自分の腕の中に居る。

「志乃……」

「和人さん……」

 突然強く抱きしめられた。

「いつも君を想っていた……敵機に撃たれ、弾丸たまが操縦席の中を跳ね回った時でさえ、俺はいつも志乃を想った!!」

「かず……と……」

 志乃の瞳から涙が溢れ、和人はそれを優しく拭う。そんな自分の姿を和人に見られたのが恥ずかしいのか、志乃は照れたような素振りで顔を伏せた。

「志乃……俺の志乃……俺に顔を見せておくれよ……」

「うん…………」

 和人に促されて志乃は恥ずかしそうに彼に向って顔を向け、小さく笑って見せる。

 月明かりが志乃の白い顔を穏やかに照らし、端正な顔立ちに幻想的なまでの光彩を加えていく。

「綺麗だよ……志乃……」

「嬉しい……和人さん……」

 月光が志乃のやかな唇を照らし、恥じらう表情は日頃の志乃を知っているからこそ婀娜あだっぽく見える。


 立ち上がり差し伸べられた手を握り返して、志乃は和人に寄り添いながら二人の寝室へと向かう。

 この晩、最上家には和人と志乃しか居なかった。メイの計らいで、夫婦二人だけにさせようと言う事になり、メイと慶子は、隣の春子の家に移動していたのだ。

「……義母様おかあさまに……気を遣わせてしまったわ……」

「うん……母さんと慶子には、感謝しておくよ」

 そう言って和人は、纏められた志乃の髪を解き、その長い髪を愛しそうに撫でた。


 大切な存在、自分の全てを投げ出しても護りたい存在……それは和人だけの女神。それは、触れる事さえ躊躇われる程の美しさと神々しさを放っていて、和人の手が震える。

「和人……」

 静かに志乃が和人を見つめる。

「あたしは此処にいるわ……今はあたしだけを見て……あたしだけを感じて……」

 躊躇いを見せる和人の背中を再び推していく。それに促されるように和人は志乃を抱き締めた。


 何もかもが愛しい。


 浴衣の裾からすらりと伸びた志乃の脚が、月の光を受けて青白く煌めき、その輝きを和人は特別な感慨を持って受け止めていく。思えば身内ばかりの質素な式を挙げてからというもの、志乃には夫婦らしい事は何一つしてあげられなかった。


 挙式をしたかと思えば、取って返すように現地に赴いていた。志乃は口にこそ出さないが、きっと寂しい思いをしていた事は想像に難くない。『贅沢は敵だ』とのスローガンの下、華美な婚姻など望むべくもなかった。


 こんな時代だからと人は言う。苦しさと厳しさに耐えながら、いつか必ず報われる日が来ると人は言う。

 それでも和人は思わずにいられない。


――愛する者一人護れなくて、何の為の力なのか!


 今、瞳を閉じ、すべてを曝け出して自分を受け容れている志乃は、和人にとって、この世で最も愛しい存在なのだ。

 満足に夫婦らしい生活を送る事さえできない自分を、志乃はずっと支えてくれた。それこそまさに銃後の支えだったのだ。


――志乃……俺は風になる……あの時君と交わした約束を俺は守る!


 志乃は何も応えなかったが、押し殺すように言葉にならぬ声を上げ続ける。和人の思い……そして想い……を全て受け容れる。

 それが和人の妻、志乃の答えだった。


 それぞれに相手を想う気持ちを紡ぐ二人を、月は静かに照らし続けていた。

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