第5話 幸せなひと時

 その日の夕食は、思いのほか豪華だった。

 米、酒、醤油、塩……そうした食料品は配給制になって久しい。けれどもどこに隠してあったんだ、と和人が思うほど食卓にはメイと志乃の母である春子の心がこもった料理が並べられていた。

「和人が帰って来る日まで、春子さんと二人で、ずっと、とっておいたものなのよ」

 にこやかに笑って、メイは言った。

「……ありがとう、母さん。それからお義母さんも……」

「気にしないで、カズ君。せっかくカズ君が帰ってきたんだもの。これ位の事は当然よ」

「さあさあ、和人。お上がりなさい」

「はい……いただきます」

「いただきます!」

 ひと際大きな慶子の声が部屋一杯に響き、幸せなひと時が始まった。


「ほら和人。これ、あたしが作ったの! 食べてみて?」

 和人の隣に座った志乃が、料理の一つを指差して言う。

「うん、美味しいよ!」

 和人がそれを一口食べて言うと、志乃は嬉しそうに微笑んだ。

「良かったわね、志乃。愛しのカズ君に褒めて貰えて?」

「お母さん!」

 春子が茶化すと、志乃は顔を赤くして叫ぶ。

「あらあら、大変。お顔が真っ赤よ。志乃ちゃん、熱出てきたんじゃない?」

「もう! 義母様おかあさままで!」

 メイも言うと、志乃はますます顔を赤らめて俯いた。


「じゃあ私も、『シノちゃん』じゃなくて、これからちゃんと『お姉ちゃん』って呼ぶことにするわ」

 久し振りのご馳走に舌鼓を打っていた慶子が追い打ちを掛ける。幼い頃からの知り合いだから無理もない。

「慶子! あんたまで何を言うのよ!」

 食卓を囲んで起こる大きな笑い声。和人も一緒になって笑いながら、優しげな視線を母や恋人たちに向ける。

 そしてふと、一時的に故郷に帰る和人達731空の隊員を前に、司令官の小谷が言った言葉を和人は思い返していた。


『思い残すことの無いよう、家族に別れを告げてきて欲しい……』


 和人は、目の前で明るく振る舞う母や妹、そして恋人の表情を見つめる。

 そしてそれは、巧く行っているように和人には思えた。

 妻は和人に幸せそうに寄りかかり、妻の母は和人の母親と楽しそうに語らう。妹は久し振りに帰ってきた兄にあれこれと話しかけ、誰もが心から和人の帰郷を喜んでいるようだった。


 そして誰も、和人がこの日どうして故郷に帰って来たのか、その真意には気付いていないようだった。

 いや、母はもう感付いているに違いない。けれども、何も言おうとしないから、和人も敢えて語ろうとしなかった。

 そんな母の心配りが、今の和人には有り難かった。


――これでいいんだ、これで……


 心の中で和人は繰り返す。

 けれども、和人の心は晴れない。


「何時迄いられるの、和人さん?」


 箸を止めて志乃は訊ねる。

「うん、実は明後日あさってのお昼の急行に乗らなきゃならないんだ……ごめんね」

「何よそれ……それじゃあ何の為に帰って来たのか判らないじゃない!?」

 残念そうな表情を浮かべる和人に少しだけ、志乃は頬を膨らませる。だが、すぐにその表情に笑みを浮かべて言った。

「まぁ、こんなご時世だから仕方ないけどさ……」


――変わってないな、志乃も……


 くるくる変わる志乃の表情を目にし、和人は思わず微笑んだ。

「ごめんな……今度はもっと沢山休暇を貰って来るから」

「絶対よ、約束だからね!」

 その笑顔を和人は愛しく思う。メイも慶子も春子も、和人が護るべき大切な人達なのだ。


 東京を始め、日本各地でB-29による大規模な爆撃が行われ、毎日多くの人々が命を落としている。戦闘員・非戦闘員・老若男女関わりなく焼夷弾をばら撒き、一方的に虐殺をしている。

 もし自分にもっと力があれば、敵地に単身乗り込み、司令官ルメイを八つ裂きにして地獄の坩堝るつぼに叩き込んでやりたい。


 空襲を受けて業火に包まれる市街地……その上空を悠然と飛び行く銀色の機体。和人も迎撃命令を受け、愛機『零戦』で飛び上がってみるも、空気の薄い高空では、搭載するレシプロエンジンは性能が落ちてしまう。

 そんな高空でも十分な酸素を供給できる排気ガス・タービン過給機……所謂いわゆるターボ・チャージャー……を装備したエンジンを持つB-29は、飛んでいるのがやっとの状態の和人機の更に上空、高度10,000メートルの空を悠然と飛び去って行く。

 そう『零戦』では、超高空を密集して編隊を組むB-29には太刀打ちできないのだ。仮に達しえたとしても、排気タービン過給機のない飛行機では、飛ぶのがやっとの状態であり、B-29の上空から逆落としに一撃をかけると、高度は一気に2,000メートルも3,000メートルも下がり、再び高度をとって次の攻撃をかけることなど不可能だった。

 鈍重な爆撃機相手に、まさに手も足も出ない……戦闘機乗りにとって、これ程屈辱的な事はない。そして焼夷弾による業火に晒される街の上空に立ち昇ってくるのは、建物や人の焼ける臭いだ。

 和人は飛び去って行くB-29の大編隊と燃える街のはざまで、悔しさと自分の非力さを噛みしめ、コックピットの中で一人慟哭していた。


――それでも……俺は志乃達を護るんだ……何が何でも!


 もうあんな思いはしたくない……それだけが、今の和人にとって心の糧なのだ。



「昨日はね、大日本婦人会の方々が押しかけてきて、大変だったのよ……」

 その時、メイが穏やかに口を開いた。

 米軍の土佐湾上陸の可能性の言われる中で、婦人会の防空訓練も厳しさを増し、藁人形を相手の竹槍訓練も始まったのだが、志乃は参加しなかったのだ。

 当然、婦人会の幹部は血相を変えて最上家に乗り込んできた。


 曰く「如何なる場合に遭遇するとも、断じて殉皇の大義に生くるの覚悟を堅持すること」

 曰く「大御宝おおみたからとして子女を育成し、喜んで皇国に捧ぐること」

 曰く「少年女に対するお母さん運動を強化すること」

 これらの決意と断固遂行する意志、そして実践を通して日本の母としてなすべきことを成す。志乃にはそれが欠落していると糾弾してきたのだ。


――あはは、目に浮かぶようだ……


 和人はその時の光景を想像して苦笑した。

 志乃は、そんな事をされて畏まるような存在ではない。当然のように反論して論破してしまったのだろう。


「どうやって追い払ったんだ、志乃?」

「ああ……竹槍投げてB-29やグラマンを撃ち落とせるなら、お手本を見せてって……だって、あたしの旦那様は毎日空に上がって、必死でそれをやっているのに僭越ってものじゃない? それに竹槍で敵の鉄砲に立ち向かうなんて……武田の騎馬隊に出来なかった事が、付け焼刃の人間にできる訳ないじゃない」

「そりゃそうだな。竹槍でも何でもいいけど、人が乗っていないもので敵機を撃墜できるなら、俺なんか当に予備役だ。まぁ、その方が良いのかも知れないが……」

 和人は数日前の鹿児島上空での空戦を思い出した。


 その時の相手は海軍の艦載機である『グラマン』ではなく、陸軍の戦闘機『P-51マスタング』だった。速度と武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法に対応できず、多くの仲間が犠牲となった。漁船や家屋などを攻撃し、挙句の果てには走行中の列車や民間人を直接機銃掃射するようになった。

 和人が目撃したのは、顔が見えるほどの低空で飛来し『動く物は全て』狙っていたP-51の傍若無人振りだった。付近にある民家を火を噴く武器で爆破し、逃げ惑う人間を片っ端から銃撃する様に、和人の血が激しく沸騰した。


――相手は武器も持たぬ非戦闘員だぞっ!


 その時和人は、地上掃射に目を血走らせているそのマスタングに接近し、背後から銃撃を加えて地面に叩き付け爆砕したが搭載していた兵器に驚きを隠せなかった。


――あれが、噴進ロケット弾って奴か?


 もしあれが対空用に実用化されれば、空戦のやり方が根本的に覆るかもしれない……と彼はその時直感した。やがてそれは『誘導ミサイル』という兵器に発展していくのだが、当然和人は知る由もない。


「それにさ、近頃『神風特攻後続隊』って言う物も作られたって聞くわ……」


 志乃が呆れたように眉根を寄せて口を開く。本土決戦時の特攻に志願する予備軍的なものであり、民間有志で組織された団体だった。その人員の募集が近隣でも始まっているのだと。


 志乃の言葉に、部屋の中は静まり返った。

 特攻隊は、自らを砲弾として、敵の攻撃を掻い潜り、必殺必中の体当たりを敢行する。

 和人が直掩として参加した4月の神風特別攻撃隊での航空部隊による『戦果』として大本営は「空母2隻、戦艦1隻、船種不詳6隻、駆逐艦1隻、輸送船5隻を『撃沈』し、戦艦3隻、巡洋艦3隻、船種不詳6隻、輸送船7隻を『撃破』したと高らかに喧伝していた。

 しかし現場に居た和人が後から知らされたのは、特別攻撃で撃沈できたのは、駆逐艦2隻他数隻であり。戦艦『大和』以下の水上部隊の特攻に至っては、襲撃した艦載機を僅かに撃墜しただけで『大和』以下6隻の艦艇が沈没し、作戦は失敗、壊滅したのだという。


 どう考えても日本の敗戦は時間の問題だった。

 軍人である和人は、その事を口にすることは無かったが、空の上で見た特攻機の若い操縦士の顔を思い出す。

 和人だって毎日覚悟はしている。櫛の歯が抜け落ちるように、言葉を交わした仲間が消えていく。特攻も通常戦闘も関係ない。ただ敵を殺す……それが戦場なのだ。

 しかし故郷は、和人が『心の底から護りたい』と思う人達までも、強引に戦場に駆り出そうとしている。職業軍人の道を選んだ和人は、その事がどうしようもなく悲しかった。


――そう……もうやるしかない……


 和人は改めて心に誓っていた。

 きっと家族の誰もが望んでいない事を、自分はやろうとしている。今の自分の行動を知っているのは、墓前の向こうに居る父、弘道だけだ。


――俺はこの人達を騙している……


 そう思うと心が激しく軋んでしまい、決意が大きく揺らいでいく。

 勲や戦功を挙げなくても良い、ただ無事で還ってきて欲しい……それが志乃やメイ、慶子や春子の偽らざる気持ちだろう。

 だからこそ、そんな家族を見るにつけ、罪悪感で胸が締め付けられる思いがして居たたまれなくなった。


「ちょっと夜風に当たってくる」


 と言い残して食卓から離れた。

 これ以上、この温かい家族を見ているのは辛かった。



 灯火管制で囲いが付けられた室内は薄暗く、和人は静かに縁側に出て空を眺めた。

 月は煌々と輝き、今日も大地を静かに照らし続ける。この地球上で人間同士が醜く争っていても、月は輝くことを忘れず、陽はまた昇り行く。


――もし、全能の神とやらが存在するのなら……争ってばかりの我々人間にどのような裁きを下すのだろうか?


 答えが明かされることはない疑問を心の中で問うてみる。海兵や陸軍と違い速度の出る航空機では、人間の顔など出てこない。人の生き死を見る事はないし、自分が死ぬ時でさえも一人だ。

 それでもパイロットは次々に死んでいく。彼自身撃墜された事はないが、B-29を迎撃に出て、墜落する機体から落下傘パラシュートで脱出した日本人パイロットが、殺気立った地元住民に敵兵と間違えられリンチを受けて殺害されるという事もある。また、名の有る撃墜王エースパイロットが機体の整備不良で墜落し、命を落とすこともある。

 自分達戦闘機パイロットにとって、生か死かなんて常に紙一重なのだ。今この瞬間を生きていられるのは、自ら鍛え上げてきた技量とほんの僅かな幸運でしかないのだろう。


――それでも俺は護りたい……志乃の住む、この山を、この河を……この世界を……


 それは和人の偽らざる気持ちだった。

 幼い頃から空に憧れた。鳥のようにどこまでも果てしない空を渡ってみたいと思った。そうやって空を眺める彼の傍らには志乃がいた。

 自らの背に翼は生えなかったが、志乃は和人に夢と言う翼を授けた。


『和人は言ってたよね……風になってみたいって……それって空を飛べば判るんじゃない?』


 海軍兵学校に入学するか迷っていた和人を、志乃は市街が見渡せる高台に連れて来て、その背中を押したのだ。風がセーラー服のスカーフとスカートの裾を僅かに揺らし、志乃は笑う。



『行ってらっしゃいな! あの蒼穹の世界に……そしてあたしに教えてよ!風の果てを!』



 和人を見つめる志乃の瞳はキラキラと輝き、彼はその美しさに見惚れていた。許婚いいなずけでもあり、幼い頃から共に過ごした。いつかは夫婦になるんだろうなと漠然と思っていた心が激しく沸き立った瞬間でもあった。

 この女性を自分の手で護りたいと心の底から思った瞬間だった。


――風はいったい何処まで流れているのだろう?


 穏やかな風が和人の頬を優しく撫でるように吹き抜け、彼は再び夜空を見上げた。


「あなた……」


 その時、和人の横にそっと腰を下ろしている志乃の姿があった。

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