第187話 うつろう心
突然開いた封印の扉。ミアはそこに全体重を預けていた。支えをなくし、傾いて行く身体。
咄嗟に振り向いたミアの目の前には、長い下り階段。このままでは転倒し転がり落ちてしまうと足を出そうとはしたものの、今のミアにはそんなことさえ出来ない。
出来ることと言えば、数秒後に襲い掛かってくるであろう衝撃に対し覚悟を決め、目を瞑ることだけだ。
グッと強く目を瞑り、左肩を庇うように倒れ込む。
そして全身を強打するはずだったミアの体は、何故かふわりと宙に浮いた。
下から吹き荒れる突風がミアの身体を支えたのだ。そればかりか、風はそのままミアの身体を包み込み、ゆっくり下へと運んで行く。
ひとまず落下は免れたと安堵したミアであったがそれも束の間、階段下に見えたのはゴブリンの群れ。
「ひっ……」
僅かに漏れ出た声。見つからないようにと必死に押し殺した悲鳴も無駄であった。
何故なら彼らはすでにミアに気付き、降りて来るのをジッと待ち構えていたのだから。
たかがゴブリンだ。数匹を倒すだけなら造作もないが、見えているのは夥しい数の群れ。
(おにーちゃんはダンジョンのゴブリンを追い払ったって言ってたのに……)
追い払った後に新たに住み着いたのか、それとも九条が嘘をついていただけなのか。
答えを考えている暇はない。その間にも風はミアを下へと運び続けているのだ。
結局何もなせぬまま、ミアはゴブリン達の集まる部屋へと降り立った。
ガタガタと震える身体は、怪我の所為なのか。それともゴブリン達に恐怖しているからなのか……。
立ち上がる力すら残されていないミアを、ゴブリン達は容赦なく取り囲む。
「いや……、やめて……こないで……」
震える声で助けを求めるミアであったが、その言葉は通じない。
ゴブリン達は天を仰ぎ、声を上げた。
「グゲゲ」
「ギギ、グゲグゴゴ」
叫ぶというより誰かとの会話。だがそこには誰もいない。
それが終わると、ゴブリン達はミアを取り押さえ、無理矢理うつ伏せに寝かせると、その四肢をこれでもかと強く地面に押さえつけたのだ。
「やだ! やめて!!」
ミアは必死に藻掻いた。だが、ゴブリンとは言え多勢に無勢。
服を脱がされ慰み者にされるのか……。腹を引き裂かれ、食べられてしまうのか……。色々な可能性がミアの頭を過るも、そのどれもが違っていた。
ゴブリンの1匹が左肩に突き刺さっていた矢を両手で掴むと、それを思い切り引き抜いたのだ。
「――あああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
ダンジョン内に響き渡る叫び声。だがそれは一瞬だった。
(――あれ……? 痛く……ない……?)
訳もわからず、ミアは自分の左肩に目を向けると、そこは淡く緑色に輝いていた。それは幾度となく見て来た、癒しの光だ。
ゴブリン達ではない。そこには誰もいなかった。だが、とても穏やかな優しい光であった。
————————————
先手必勝。読んで字の如く、何事も先手を取った方が有利であるということだ。それは戦いにおいても同様である。
「マウロ!!」
ノルディックはマウロの名を叫んだ。同時にハンドサインを送る。それは目の前の敵を討てという合図。
マウロは後ろへと飛び、九条から距離を取ると、矢筒から矢を引き抜き弓を射る。
その動作速度はシャーリーのそれよりも上だ。さすがはゴールドなだけはある。
広い部屋とはいえ、マウロと九条の間は精々6メートル程度。そこから射出された矢は至近距離も同然だ。
その狙いは右肩から胸の間と大雑把であるが、それは威力よりも速度を重視して射たからだ。
九条の気を引ければいい。最悪当てる必要すらない。その間にノルディックが走り込み、相手の隙を突くという連携なのである。
九条には、それを避ける以外の選択肢はなかった。だが、九条はその場から動かなかったのだ。
マウロから放たれた1本の矢は、いつの間にか九条の右手が握っていた。高速で飛翔する矢を空中で掴んだのだ。
あまりの出来事にノルディックも連携を忘れ動けなかった。
(人間業じゃねぇ……)
それがノルディックが九条と対峙した最初の印象。それを代弁したのはマウロだ。
「嘘だろ……」
九条は、受け止めた矢を無造作に投げ捨てると、腰にぶら下げていたメイスに手を掛ける。
それに逸早く反応したのはノルディック。このまま動かなければマウロが九条に殺される。
攻撃は最大の防御。手にした大剣を横凪ぎ一閃。そのスキルは風の魔剣が得意とする技に酷似していた。
魔剣と比べれば威力は圧倒的に劣るが、牽制という意味では必要十分。
だがそれは、九条が手にしたメイスを一振りしただけでかき消えた。
なんて事はない。その原理を知っていれば防ぐことは簡単だ。九条はその風の魔剣から繰り出される技を、何度も目の当たりにしているのだ。
もちろん、ノルディックはそんなもので九条を倒せるとは思っていない。
(それでいい。マウロから気が逸れれば十分。後はワシが九条を押さえてる間にマウロが一撃を加えれば終わりだ!)
「やるじゃねぇか、九条!」
ノルディックは叫び、大剣を振り上げ九条に襲い掛かる。
九条よりも背の高い大男。2メートル近い身長から振り下ろされる大剣。それは斬るというより叩き潰すというレベル。
全力で振り下ろされたそれは、地面を豪快に叩き割り、そこから無数に入る亀裂がその威力を物語る。
「まだまだぁ!」
それを避けた九条を、更に追撃するノルディック。返す刀で切り上げ、それも避けられれば右から左へと切り払う。
適性が効いているとは言え、それを軽々扱うノルディックにも驚かされるが、その猛攻を避け続ける九条も尋常ではない。
時には避け、時にはそのメイスでいなし、軌道を逸らす。だが、ノルディックは攻撃の手を緩めない。
相手が魔術師タイプなら尚更だ。魔法を使う時間を与えてしまえば、確実にノルディックが不利になる。
ノルディックは九条と戦うことを想定していた。故に死霊術に関しても、ある程度の知識は付けて来ているのだ。
(ただでさえ不明な点の多い死霊術。過去の文献には死者や亡者を使役していたと
ノルディックは九条を侮ってはいない。九条は全力を出すに値する男だと認めている。故に油断はしない。それがノルディックの信条である。
それは正々堂々戦うという意味ではなく、確実に勝利を掴むと言う意味だ。どんな卑怯な手を使ってでも勝つ。勝利こそが正義なのだと自負しているのだ。
(狙いが定まらない……)
シャーリーは九条をアシストしようと弓を引いてはいるのだが、激しく動く2人に手を出せずにいた。それはコクセイと白狐。更に言うならマウロでさえも同様である。
とは言え、九条は防戦一方だ。戦況はノルディックが圧倒的優勢。だが、九条は必死に攻撃を捌いているといった雰囲気ではなく、むしろ無心であった。
何を考えているのかわからないくらいに真顔。にも拘らず、ノルディックの攻撃はかすりもしない。
(くそッ! 一撃だ……一撃でもあたりゃ勝てるはずなのに、何故避け続けていられるッ!?)
九条はそれほど筋肉質な体つきではない。痩せても太ってもいない至って普通の体格。
それほど鍛えているわけでもなく、格闘技経験者でもなければ、回避に関する適性を持っているわけでもない。
それは、九条の持つ1つのスキルのおかげであった。
ギルドプレートには刻まれていない隠されたもの。この世界にはない九条だけが持つオリジナルスキル。
その名は『無我の境地』。精神を加速させるスキル。
それは仏教において、自我への囚われからの解放を指す言葉。いわゆる『悟り』である。
多くの僧侶はそれを会得しようと、日頃から激しい修行の日々を送る。だが、それを成せるのは、ほんの一握りの者だけだ。
九条はその数少ない1人である。と言っても、悟りは修行で会得した物ではない。
――それは『死』だ。
九条は一度死に、転生したことにより、肉体と魂の分離を経験した。そのおかげで、九条は無意識に真理を理解し、悟りを開いたのである。
今の九条には、ノルディックの動きが緩慢に見えているのだ。軌道が見えていれば、それを躱すのは容易いこと。
九条は全て知っているのだ。カガリがダンジョンへと入った時点で、108番からの報告を受けていた。
ミアが無事な事も知っているが、だからといってノルディックとマウロを許すわけがない。
九条が最初にミアの事を聞いた時。ノルディックが嘘偽りなく答えるならば、九条は許すつもりでいた。
と言っても、お咎めなしとはいかない。このことを世間に公表し、法に裁かれることで、決着をつけるつもりでいたのだ。
だが、ノルディックは嘘をついた。そしてそれに命を賭けると言ったのだ。
逆を言えば、それは死んでも嘘をつき通すということ。
(ならば、望み通りにしてやろう……)
九条は全てが面倒になった。この世界で生き抜く為、穏便に、出来るだけ波風を立てないようやってきたつもりであったが、それもどうでもよくなった。
積み重ねて来た信用を守る為にと四苦八苦していたのが、馬鹿らしくなってしまったのだ。
(人間は本当に面倒くさい生き物だな……。今なら、カガリ達の気持ちもわかる気がするよ……)
九条はここに来るまでの間に、様々なことを考えた。
(ノルディックは、どうすればミアを諦めるのか……。素直に謝罪し許したとしても再犯の可能性は捨てきれない。万が一にもそうなった場合、今度はミアを守り切れるのか……?)
九条は暫く悩み続け、最も安易で確実に全てを解決することができる1つの答えを導き出した。
――それはノルディックを殺すこと。
(ノルディックを殺し、見せしめにしてやればいい。この先、俺の機嫌を損ねればどうなるのかを教えてやらなければ……)
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