第85話 ネスト救出
明朝にはまだ早い時間帯。指定された場所へと辿り着き、身を潜める。
暗き森の中、デスハウンドの揺らめく魂と砦から見える松明の炎だけが辺りを怪しく照らしていた。
ネストが囚われているであろう建物の煙突から煙が上がっているのが見える。
隙あらば魔法書を渡すことなくネストの救出を優先したいところだが、相手もバカではない。ネストの防衛にゴールドの冒険者を3人も雇っている。それだけ用心していると思っていいはずだ。
デスハウンドをあるべき場所へと帰し、身を屈めながらその時をじっと待った。
風が吹き、草木達がざわめく。その音と共に流れてきたのは蹄の音。貴族風の男とその両脇に松明を持った騎士が2人。
ぼんやりと浮かび上がるその顔を忘れるはずがない。間違いなくブラバ卿である。
正直少し驚いた。まさか本人が来るとは思わなかったからだ。前言撤回。やはり相手はバカかもしれない。
「そろそろだな……」
朝日が昇り始める時間。森の中はまだ薄暗いが、意を決して砦の入口へと向かって歩き出す。
入口に盗賊の見張りはいなかった。俺がボコボコにしたからだろう。どこかへ運ばれたか、中に籠っているのか……。
代わりにそこに立っていたのはギースと呼ばれていた冒険者。壁に寄りかかり、腕を組む姿は暇そうである。
俺の到着を確認すると、目の前に立ちふさがり気だるそうに口を開いた。
「約束の物は持って来たか?」
魔法書をチラリと見せる。
「ついて来い」
砦の中は静まり返り、確認できたのはブラバ卿が乗ってきたであろう繋がれた馬達だけ。
案内された建物内ではアニタとタンク役の男がテーブルを囲んでいた。
絡みつく視線は俺を警戒してのことなのだろうが、なんとも不快だ。
その部屋にネストの姿はなく、ギースはそのまま奥の扉を開けた。
「連れてきました」
そこにいたのはブラバ卿と2人の騎士。そして椅子に縛り付けられ、猿ぐつわのされたネスト。
ブラバ卿の目配せに、ギースはそのまま部屋を出て行く。
ネストに外傷は見られず、命に別状はなさそうだ。扱いは貴族のそれではないが、酷いこともされていないと思われる。
俯き加減で曇っていた表情は、俺を見て生気を取り戻し、酷く暴れた。
「んぅぅぅ! んんぅぅ!!」
何を言っているのかわからないが、その表情は感謝や安堵ではなく、怒りや驚きと言った方が正しい。
俺を睨みつけ、必死に何かを訴えようとしていた。何故魔法書を持って来たのか、と問いたいのだろう。
答えは簡単。ネストの命の方が大事に決まっているからだ。俺もバイスもセバスもミアも。全員がそう思っているはずである。
しかし、ネストは違うのだろう。自分の命よりも領民の方が大事なのだ。
ダンジョンで魔法書を返した時のネストの涙は嘘じゃない。それだけの意味が込められていた。
「よく来たな。護衛の……。えーっと……」
「九条だ」
「そう九条。君が来てくれて助かったよ。手間が省けた。プレートをしていないようだが、君はプラチナなんだろ? アンカースの護衛なぞ辞めてウチの派閥に入らないか? 報酬はいくらでも用意するぞ?」
その問いに少し悩むそぶりを見せる。
「んぅぅ! んんぅぅぅ!」
「じゃぁ、こうしよう。この魔法書とネストを諦めてくれれば、そっちの派閥に入ってやるが?」
たったそれだけだ。それだけのことでブラバ卿は激高した。
「お前は何様のつもりだ! 条件を決めるのは私であってお前じゃない! 冒険者風情が勘違いするな!!」
肩を激しく上下に揺らし、息も絶え絶えに俺を睨みつける。
そんなに怒らせることを言っただろうか? ただ気が短いだけなのか、沸点がやたらと低いのか……。
貴族と平民の間に絶対的な壁が存在しているのは承知の上だが、ここまで露骨な反応が返ってくるとは思わなかった。
取引という点では対等だと思ったのだが、そもそもそういう問題ではなさそうだ。
「……フン……もういい。折角、私自ら誘ってやったのに……」
ブラバ卿は息を整え騎士の1人に合図を送ると、ネストを縛り付けていたロープが解かれた。
無理矢理に立たされ、首元には短剣が突き付けられる。
「アンカースの娘は返してやる。魔法書を寄こせ」
ネストは一生懸命首を左右に振っていた。渡すなと言いたいのだろうが、残念ながらそれは聞けない。
俺は言われた通り魔法書を渡すと、ブラバ卿はネストが暴れるのも気にせずペラペラとページを捲る。
「偽物ではないな」
「当たり前だ。人の命がかかっているのに偽物なぞにすり替えたりはしない」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべるブラバ卿は、持っていた魔法書を乱暴に閉じると、あろうことかそれを燃え盛る暖炉の中へと投げ入れたのだ。
予想外の出来事に誰もが目を見張る。ブラバ卿は一貫していた。自分の手柄よりも、アンカース家を没落させることしか頭にないのだろう。
「んぅぅぅぅぅぅぅぅ!! んんんぅぅぅぅぅ!!」
更に激しく暴れ、必死に振りほどこうとするネストだが、押さえている騎士の力には敵わない。
魔法書に這い寄る紅い炎が、舐めるように燃え広がっていく。
何年もかけて探し当てた魔法書。その苦労が、その努力が水泡と帰すのだ。
「離してやれ」
騎士がネストを解放すると、ネストは自分の猿ぐつわのことなど忘れ、激しく燃え盛る暖炉に両腕を突っ込んだ。
炎が腕を焼き、熱さは痛みへと変わるだろう。
魔法書と共に引き抜いた手は焼け爛れていたが、ネストはそれを気にしてはいなかった。
必至になって消火を試みるネストであったが、無情にもその勢いは止まらない。
ついにはそれを躊躇することなく抱き抱えた。
「ぐぅぅぅぅぅぅッ!!」
激痛でネストの顔が歪むも、その甲斐あってようやく炎を消し止めた。
焦げ臭さが立ち込める中、気付いた時には魔法書の半分が灰と化していたのだ。
その修復作業が困難であることは、誰が見ても明らか。瞳に涙を浮かべるネストは猿ぐつわを外すと、ブラバ卿を睨みつけた。
その表情は今にも殺してしまいそうなほどである。
「このことは陛下に報告します……」
低く恨みを込めた声だ。
「それで脅してるつもりか? 侯爵である私と、お前のような弱小貴族の言うことだ。陛下はどちらを信用するだろうなぁ?」
そんなネストに睨まれても尚見下し、むしろバカにしたように答えるブラバ卿。
魔法書の真贋を確かめるという理由もあったのだろうが、本人が来たのだ。それだけの自信があるのだろう。
「終わったな。行くぞ」
ブラバ卿はボロボロの魔法書を鼻で笑い騎士を連れて部屋を出ると、聞こえてきたのは馬の嘶き。
そして、辺りから人の気配はなくなった。
ネストのやり場のない怒りが俺へと向けられる。その声は震えていた。
「なんで……なんで魔法書を持って来たの!?」
「……ネストさんを救う為……」
「この魔法書にはノーピークスの……、領民の皆の命がかかってるの! 知ってるでしょ!?」
もちろん知っている。知っているが、だからどうだというのだ。俺は正義の味方ではない。
見知らぬ大勢と1人の知人。どちらを助けるかと問われれば、知人を助けるに決まっている。だからネストを選んだ。それだけの事だ。
王や貴族は領民を第1に考えるのだろう。それは素晴らしいことだが、それを俺に求められても困る。
「帰って……」
「いや、大丈夫ですから気を落とさず……」
「何が大丈夫なの!? もう魔法書はない……。もう護衛もいらない……。だから帰って!!」
「……」
やがて怒りは悲しみへと姿を変えた。帰ろうとも思ったが、ネストを1人にはしておけなかった。
絶望に打ちひしがれ、自らの命を絶ってしまう可能性を憂慮したのだ。
ネストはボロボロの魔法書を前に座り込み泣いていた。俺はただそれを見ていることしか出来なかった……。
ネストは魔法書の残骸を手に立ち上がる。
俺には目もくれず、ゆっくりとした足取りで北へと歩み始めたのだ。
その後を追ったが、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
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