第十四話
喫茶店へ優造さんを運び込み、結界が張りなおされるまで待つことになった。ハルジオンさんはこの喫茶店に、
枢機卿はカトリック教における教皇の最高顧問だという。教皇を補佐することが主な任務だとか。それで、且つて枢機卿だった人は、300年程前に亡くなったにもかかわらず不死と似た力を得て、陰陽寮に属しているという。
「はぁ、現実味がない話ですね」
「まぁ、それはそうですよね。とはいえ、あの人はもう人間ではないですし、視れば
わかりますよ。……それに、相当な偏屈さんで、重い腰を上げてくれただけであり
がたいんですよ今回ばかりは」
美津さんはスマートフォンの画面に苦笑を向け、後頭部を掻いた。喫茶店に着くまで、彼女はずっとメールをしていたのだ。ずいぶんと交渉に時間がかかったという。すると、遊佐さんは同情するような申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「あ、そうだ。夏に出す商品なんですけど、皆さん味見してくれませんか?」
「「「え」」」
美津さんが話題を変えるように人差し指を立てた。俺たちは首を傾げ、どうして今とばかりに彼女に視線を向けた。
「少し気休めに、です。
美津さんは頬に張られたガーゼに触れながらそう言った。いたわられるのは、おそらく彼女が優先的だと感じられるのに、彼女はてきぱきと働こうとしている。それから、思い出したようにポケットからお札を取り出した。
あの、優造さんに取り憑いていた
「こ、ここは……」
女性は上品に化粧が施され、煌びやかな着物を着ていた。しかし、そのテイストからして江戸というよりも、明治や昭和の風情を感じさせた。いわゆるハイカラと言った感じだろうか。
「お座りください、お客様」
「え、ええ。わかったわ」
女性は夢見心地と言ったふうにぼうっとして、カウンター席に腰かけた。長くつやのあるまつ毛が揺れ、不思議そうに美津さんを見つめている。美津さんはカウンターで作業しながら、その女性の出方をうかがっているようだった。
俺たちは何が起こっているのかわからず、不思議な光景に釘付けになっていた。
「お名前を覚えておられますか?」
「え?」
女性は美津さんに問いかけられ、戸惑ったようにうなずいた。
「
「鴻様、ですね……」
美津さんは畏まった口調で、穏やかに聞き返す。女性――鴻珠洲と名乗った女性はそれにうなずき、恥ずかしがるように着物の裾で口元を隠した。
「昨日のことは覚えていらっしゃいますか?」
手元を寸分も狂わさず、作業しながら美津さんは問いかける。鴻さんは首をかしげて、思い出せないことに困惑しているようだった。美津さんは「そうですか」と答えない鴻さんにうなずき、グラスとお皿を出した。
俺は俺たちの目の前にも差し出された。
グラスの中身はブルーベリーやミント、イチゴにオレンジなどが入ったフルーツティーがなみなみと注がれていた。お皿には動揺にフルーツがふんだんに使われたフルーツサンドが三切れ載せられていた。
甘くてさわやかな香りが漂ってくる。
「どうぞ」
「え、あ、はい」
すすめられた鴻さんはハッとして、何度もうなずいた。赤べこのように何度も。
「あ、あの。私、昨日のこと思い出せないんです」
しかし、どちらにも手を付ける気にはなれないのか、もじもじと手を組み、彼女はそう言った。美津さんは柔和な笑みを浮かべて、「ならあの方は?」と優造さんに手のひらを向けた。
鴻さんは優造さんを見て、顔を青ざめさせた。そして、鬼のような形相を浮かべる。
「あの人はっ……」
「あの人は?」
「あの人は、私の妹の婚約者に似ています」
美津さんの問いに鴻さんは叫ぶように答えた。
その告白は、この場にいる全員に複雑な感情を抱かせた。まだ意識を取り戻していない優造さんに、そろって視線を動かした。――妹の婚約者に似ている。
「あの人は、私の妹がいながら他の女性に浮気をしていました。妹はそれを知らない
ようでした。そして、婚約者である彼は悪気が無いようでした」
鴻さんは、両掌の指を組み合わせたり手の甲を撫でたり、落ち着かない様子でぽつぽつと話していく。
その話は彼女にとって悲しいものであった。彼女は妹の婚約者に浮気の件を問い詰めたところ、特に悪びれる様子もなく浮気相手同様の態度で鴻さんに詰め寄ってきたという。そして、貞操を奪われ、彼女は自分が起こった出来事が理解できないのと同時に、妹への罪悪感とその婚約者への憎悪とに
「そして、とある日に首を吊りました」
鴻さんは美津さんの瞳をチラリと見た。美津さんは穏やかな表情を浮かべ、彼女に次の言葉を促した。
「私はいつしかこのような化け物になっていました。知らないうちに、憎悪に飲み込
まれ、妹の婚約者のようなものばかり手をかけていました。でも、残るのは空しさ
ばかり……、でした」
「復讐はそんなものだ」
鴻さんの言葉に答えたのは、聊斎さんだった。
「命を奪ったところで、俺たち縊鬼が満たされることはなかろう。俺たちは、しょせ
ん怨霊の慣れの果てだ」
聊斎さんはそう言った切り口を噤み、フルーツティーに口をつけた。鮮やかなフルーツがグラスの中で揺れていた。
「鴻様、後悔なさっておりますか?」
美津さんが話にそぐわないほほえみを浮かべた。鴻さんが、その微笑みに魅入ったようにほうっと、ため息をついた。それは、俺たちも同様だった。雲隠れしていた白銀の満月が姿を現したような神々しさを、彼女はまとっていた。
鴻さんは、それからハッとしておずおずと首を振った。
「多分してないんです、私。多分、誰かに取り憑いた時の記憶がないから」
「
鴻さんは梅の花のような淡い色の頬を押さえて、寂しそうに微笑んだ。
後悔していないだなんて絶対に嘘だ――、そんな考えが頭によぎった。
「本当ですか」
つい、反射だった。思ったより大きな声で聴いてしまって、ハッとした。鴻さんは黒曜石のような大きな瞳を瞬かせて、こちらを見ていた。
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