第56話 信長、帰蝶に叱られる。
(永禄3年 (1560年)11月7日)
稲葉山城の麓に造られた新しい屋敷の前で帰蝶義姉上は仁王立ちになって待っていた。
兄上(信長)は『出迎えご苦労』と爽やかに微笑んだが、帰蝶義姉上の頭から生えた角は消えなかった。
『お座り』
言葉にはしないが、地面を指差して兄上(信長)をその場に座らせる。
見栄も恥も外聞もない。
街道の両側に俺を一目見ようと集まった大衆から見える所だ。
行列が止まった。
武将達がごくりと唾を呑む。
兄上(信長)はその場で正座させられた儘で説教を聞く事になった。
大衆の面前で恥をかかせるのが一番の罰なのだろう。
かなり本気で怒っていた。
そりゃ、新公方 (俺)を出迎える準備で忙しい清洲を放置して、朝駆けに行ったきり帰って来ないのだから清洲の者も慌てただろう。
それを聞いて帰蝶義姉上は目眩で倒れそうになったらしい。
「帰蝶~ぉ」
「駄目です。さっさと帰りなさい」
「新公方を出迎えるのも大切な事だろう」
「他の領主ならばそうでしょうが、殿は清洲の総責任者です。それをどう考えているのです」
「儂が数日居ない事で困りはせぬ」
「殿の裁決が下されないので私の方に訊きに来る者がおりました」
「それはいかん。厳しく罰せねば」
「馬鹿ですか。必要だから裁決を仰ぎに来ているのです。重要な案件を『良きに計らえ』で済ませる訳にいかないでしょう。まったく、判りました。清洲に戻ってから殿の裁決を確認致しましょう」
「そこまでする必要ない」
「確認致します」
「帰蝶~ぉ」
兄上(信長)は長々と帰蝶義姉上に叱られた後に稲葉山城に入れて貰えず、『Home(ハウス)』を言い渡されて尾張に帰っていった。
半年前ならば、兄上(信長)が数日居なくなるのは問題でなかった。
それだけの人材が揃っていた。
各々に裁量で仮裁決を下し、兄上(信長)が帰参した後に確認を取るだけで動かせた。
だが、今は清洲を取って尾張を統一した頃より人材が枯渇している。
なぜならば、越前で
幕府軍であった管領
その周辺の大和守護代は
あくまで仮の任命だが、俺は変更するつもりはない。
京でお留守番を言い付けられていた元摂津国人の
つまり、何が言いたいのかと言えば、家老達が出世して家老職が総入れ替えされ、織田家臣の為に人材を派遣する必要が出てきた。
当初、尾張の3割を美濃に移し、4割を各所に預ける予定だったのだが、東国から西国まで織田家の傘下に加わった。
念入りに準備したが、この数は流石に無理だ。
何人居ても足りない。
西国などは4~5人ずつを派遣して、自助力で何とかして貰うつもりだ。
それなりの人材を送る必要がある。
帰蝶義姉上は尾張に1割を残し、美濃に1割を送って、残りを各所に分散したらしい。
ベテランほど統治の困難そうな、越前と紀伊の国に送った。
尾張と美濃は中堅と新人のみで運営している。
そして、各地から相談と資金援助の手紙が引っ切り無しで飛び込んで来る。
すべての相談に応じるのは無理だ。
資金には限りがある。
とにかく優先順位を付けて返事を書くのが兄上(信長)の仕事なのだが、兄上(信長)が居なくなれば、帰蝶義姉上の所に回ってくる。
兄上(信長)が京にいる間、帰蝶義姉上は清洲と稲葉山城を交互に行き来をして指示を出し続けていた。
やっと兄上(信長)が帰って来て、腰を落ち着かせて美濃の統治を張り切っていると、兄上(信長)が行方不明になったと連絡が入ったのだ。
朝駆けで誰かに奇襲でも受けたのか?
心配して
帰蝶義姉上は呆れた。
仕方なく、兄上(信長)が判断する案件を帰蝶義姉上が作業の手を止めて対応した。
帰蝶義姉上が怒るのも無理はない。
「さっさとお帰りなさい」
情けない顔の兄上(信長)が退場させられた。
◇◇◇
永禄3年 (1560年)11月8日。
俺は稲葉山城の屋敷で歓迎を受け、一泊して清洲へ向けて出発だ。
美濃の兵のみ解散し、武将達は清洲に同行する。
木曽川を船で渡って行軍を続ける。
街道沿いの民が祝ってくれた。
清洲に入ると各所の武将がやって来ており、一同が揃っていた。
なるほど、兄上(信長)が不在では彼らを抑えられない。
ずらりと並ぶ顔ぶれが随分と変わっていた。
まだ頼りない
経験不足の上に能力不足の
これでは清洲が回らない。
そこで能力を買われて、新参者だが
他の者も同じく気の合う者を連れて行った。
抜けた穴をその子供や一族の者が昇進して穴を埋めていた。
また、織田一門衆の面々も朝廷や幕府の要職に就いて居なくなった。
一門衆を公家様や幕閣が放置する訳もない。
その中で最も華やかな役職に付いたのが京を奪回するという大手柄を上げた三十郎兄ぃ(
三十郎兄ぃは
幕府方に付いた
全国の大名を取り締まる管領だ。
それに加え、尾張、美濃、三河、遠江、越前の五ヶ国守護を兼任する。
こうして遠江と越前を奪回するという斯波の悲願が達成された事に、
他に
他にも沢山の候補が出てきそうだ。
そして、生まれていない子供の婚約も決まって行くだろう。
あそこはそう言う世界なのだ。
余りの重荷に三十郎兄ぃが抵抗しているらしいが、俺でもこの流れを断ち切れなかったのだ。
三十郎兄ぃにできるとは思えない。
清洲の宴会は三日三晩も続いた。
尾張と美濃のすべての村には酒と餅が配られた。
輸送費を出せば、魚介類も無償で提供すると言う。
「帰蝶義姉上、どうして輸送費のみ有料にしたのですか?」
「美濃の領主は尾張のやり方が判っていません。無償にすれば、捨てるほど頼むでしょう」
「なるほど」
タダより高いモノはない。
俺は贅沢を奨励する。
経済を回す為には銭を使わねばならない。
だが、無駄と散財は別だ。
何の益もない無駄な事をする馬鹿を許せない。
無理難題を与えて追い詰める。
家が傾く程の散財をする阿呆は退場させる。
こちらは問答無用だ。
尾張と織田に編入された東美濃と西美濃の者は派遣された代官から耳にタコができるほど聞かされている。
無駄と散財する者への処置が厳しい事を…………とにかく巧く銭を使う事が肝要だ。
貯蓄をする者には兄上(信長)が五月蠅い。
銭は貯めずに使えと奨励する。
無駄もしないが、散財もしない。
それ所か、家臣への給金も渋り、統治する村々への投資も希薄だ。
兄上(信長)は家臣や領民にも財を配れと五月蠅く言っているが、中々に財布の紐が緩まない。
そんな奴に浅井郡を任せて大丈夫か?
兄上(信長)の身内に甘いのは今に始まった事じゃないが、そろそろ弊害が出そうな気がして来た。
「最初に苦労するのは銭を使う事なのです」
「帰蝶義姉上、それはそう難しくないでしょう」
「そうでもないのよ。馬鹿な者は増えた銭で馬や武具を買うのです」
「あぁ、ありそうです」
「餅でも配っておけば、殿(信長)が喜ぶのでしょうが、散財で家が傾けば、容赦なく取り潰しでしょう」
「馬鹿が更生するのを待つ気はありません。取り上げて一族のできそうな者に任せた方が早いのです」
「美濃はそんな馬鹿が多い土地柄なのです」
帰蝶義姉上は溜息を吐きながら、美濃の事情を話してくれた。
美濃は甲斐と同じく山間の領地が多い。
山に住む者ほど、世間に疎い。
そして、加減を知らない。
「振る舞いの魚で領主の首が飛ぶのは、可哀想でしょう」
「確かに、馬車一台の魚介類を腐らせたと聞けば、その首をすげ替えるな」
「その中には気の良い領主もいるのよ。それを避けたいのです」
「無能な領主でも?」
「代官を受け入れる領主ならば、無能の方がやり易いのよ」
帰蝶義姉上は脳筋な言う事を聞かない馬鹿を処分するが、従順な無能はその儘にするらしい。
俺と思考が似ているが、やり方は違う。
馬鹿が嫌いだ。
俺だったら従順な馬鹿である帰蝶黒鍬衆(スコップマン)など絶対に置かない。
だが、帰蝶義姉上は違う。
それを好んで側に置く。
『馬鹿とハサミは使いよう』
そう言われるが、俺は巧く使えている気がしない。
帰蝶義姉上はそこが巧い。
兄上(信長)はどうだろうか?
馬鹿が好きとも思えないが、馬鹿な奴にも好かれている。
だが、忠義心の厚い者は嫌いではない。
基準が曖昧だ。
兄上(信長)は基本的に柔軟な思考を持ち優秀だが、子供っぽくていい加減な所が多い。
悪戯好きで感情で動く。
好き嫌いがはっきりしており、身内贔屓で反感を買う。
ならば、秘密裡に敵対者を排除するかと思えば、謀り事を大嫌う。
その代わりが育っていない。
だが、欠点を含めても兄上(信長)しかいない。
新しい事を受け入れられる柔軟な発想の持ち主であり、俺の知る限りでは私利私欲に走らず、皆を公平・公正を裁ける。
最も評価の高い理想の君主だ。
但し、世間体を気にして決断がブレるのが玉に
「世間体を気にするならば、宮中の作法も覚えればいいのに」
「殿は面倒くさがり屋ですからね」
「面白いと思えば、すぐに行動に移す癖に」
「迷惑を掛けるわね」
「いいえ、帰蝶義姉上ほどではございません」
ほほほ、帰蝶義姉上は笑っていた。
宮中なんて
知らない内に怨みを買ってしまう。
宮中の作法を覚えようとしない兄上(信長)は侮られて、影で笑われているに違いない。
なんというのか、世渡り下手にも程があると思うぞ。
だが、運だけは強い。
「終わった。後はごろごろするぞ」
「そうはいかん」
宴会で俺が居る必要があるのかと何度も思った。
すべての宴会が終わって、俺は部屋に戻って寝転がった。
終わった。
終わった。
もう2~3日は何もしないぞ。
そこに
鎌倉にいるハズの奴がここに居た。
先程、小田原から船で熱田に到着したと言う。
「
「準備とは何だ?」
「京に上がる準備に決まっているであろう」
「
「寝言は寝て言え」
「申し訳ございません。後でお知らせするつもりでした」
「千代、まさか!?」
「そのまさかでございます」
・
・
・
俺は固まった。
その可能性を考えていない訳ではなかった。
否、その可能性があるから西国統一は楽な仕事と考えていた。
「さぁ、京に上がる準備だ」
元気な
嘘だ、誰か嘘と言ってくれ。
ごろごろさせてくれよ。
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