第21話 信照の愚痴。
(永禄3年 (1560年)4月初め)
清洲城二ノ丸の役務所の隣に併設されている
蟄居の時は地下の隠し通路を使って出入りしていたが、今は堂々と渡り廊下を使って人が往来する。
兄上(信長)と帰蝶義姉上も日に一度は渡って打ち合わせに来ていた。
はっきり言って兄上(信長)の策はまるでチーズのように穴だらけだ。
策と呼べない博打だ。
相手が兄上(信長)の思惑通りに動く可能性もあるので巧くツボに嵌るかもしれないが、そんな偶然を期待するほど俺は楽観主義ではない。
そもそも幕府には銭がない。
石山御坊がどこまで出すか?
そして、頼りは
六角家の倉は大きく、三万人の軍勢を一年くらい食わせる程度の銭を貯めているだろう。
しかし、5万人やそれ以上が集まった幕府軍では数か月で消えてしまう。
いくら
つまり、銭のない幕府軍が次に何をするかは明らかだった。
書類に目を通しながら帰蝶義姉上が言う。
「それで但馬守護
「いいえ、俺が動く前に恭順していました」
「そうね、協調しなければ生野銀山の安全は買えないもの」
「それでも三好を襲った軍勢がそのまま但馬と播磨を襲う可能性はありました。ですから、こちらから大胆に援助するように指示を出したのです」
「なるほど」
「山名家や播磨の有力者、そして、堺衆と京衆から幕府を援助させる。銭で安全を買うのは常套手段です」
「でも、永遠ではないわ」
「織田家が負ければ、銀山を差し出せば助かるでしょう。幕府も銀山を荒らされるのは嫌がるハズです」
「幕府が勝てればね」
銭と兵糧を確保した幕府は安心して京に兵を上げる事ができる。
それでもまだ完璧と言えない。
兄上(信長)は京の見回り組の存在を忘れている。
織田方の兵が京にいる限り、幕府方も京を空にできない。
策が成立しない。
では、無条件で引き上げられるかと言えば無理だ。
幕府の大軍がいるのに朝廷を守る兵がいないなど危なすぎる。
京を空にするのは悪手なのだ。
帰蝶義姉上が俺の愚痴を聞いて笑う。
「殿(信長)は
「嫌な信頼ですね」
「ふふふ、その場で断らなかったのは伊勢参りなどの腹案があったからですよね」
「帝がお断りになると思っていませんでした。俺の読みも甘い」
「しかし、公方様をはじめ、幕府の重鎮の何人かを脅して手駒にするとは思いませんでした」
苦肉の策だ。
帝が伊勢参拝の前例がないと断ったので計画に大幅な修正が必要になった。
(天皇が伊勢にはじめて参拝したのは、明治天皇です)
しかも刺客を送ったのは武衛屋敷だけではない。
幕府奉公衆の何人かにも刺客を送った。
こちらの窓口に指名された
俺を嫌っている
だが、本来の主からの手紙には恭順してくれた。
「本気で恭順したとお思いですか?」
「いいえ、していないでしょう。
「確かに本来の公方様に頭を下げるのは苦ではないでしょうね」
「幕府の要人がいくら馬鹿ばかりと言っても、本気で織田家との合戦で必ず勝てるなどと思う奴は多くありません。しかし、
「放置すれば、ずるずると睨み合いが続く訳ですね」
「おそらく、そうなると思います」
「そこで何人かが強硬論を唱えれば否定できない」
「はい、彼らには
「お可哀想に」
そうならないように画策しておいた。
「そうなると京の治安と帝の安全が心配ですね」
「俺は兄上(信長)のように帝に害をなすモノなどおらぬと楽観視できません」
「殿(信長)は無条件に帝を敬っていますからね」
「敬っているなら公家の常識を覚えさせて下さい。もう上洛して何年経つと思っているのですか?」
「生真面目な癖に、そう言った堅苦しい事が嫌いな方ですから」
兄上(信長)は朝廷を大切にするが、官位を含めてそれ自体に興味がない。
宮中の行事が合理的でないからだ。
生真面目さが仇となって、納得しない事は覚えようともしない。
未だに公家の常識すら判っていない。
俺もまだ十分に判っていないが勉強はしているつもりだ。
俺がそう言うと、帰蝶義姉上が含むように笑った。
「ふふふ、不思議だわ。
「はい、若様ならば不要なモノを排除すると思っておりました」
はい、はい、俺は
だが、古いモノを潰すつもりはない。
都を京に移して1,000年近くになる。
時を掛けて作られた。
それだけで残っているモノは価値がある。
長く続いた行事を俺程度の俗っぽい知識で潰す訳にいかない。
「もっと大胆に変えると思っていたわ」
「悪習は無くしました。財務のやり方も俺風に変えさせました。ですが、慣習や行事には手を付けていません」
「何故かしら?」
「それで支障がないならば、迂闊に触るべきではないからです」
例えば、
雀は稲を狙う害鳥だ。
だからといって、すべて排除すれば、どうなると思う?
その年の収穫が少し上がるだろう。
翌年になるとバッタが繁殖してイナゴの大群となって『
イナゴの大群を御せる方法がない。
おそらく、すべての麦や米を食い荒らしてその一帯は全滅だ。
何万人の餓死者を出す事になるかもしれない。
「どうしてですか?」
「簡単です。食欲旺盛な雀はバッタの幼虫なども食べてくれる鳥です。適度にバッタが減らしてくれる」
「なるほど、それで狩り尽くさずに
「俺が知らないだけで長く続く習慣には別の意味が隠されているかもしれない。長い時を掛けて残った慣習や行事を妄りに潰すモノではない」
そうだ、淘汰されずに長く残ったモノには意味がある。
浅はかな考えは禁物だ。
無駄と思えても不都合と感じない限りは敢えて手を入れない。
廃止しない。
悪習のみを止めさせるに留めていた。
「なるほど納得しました」
「流石、若様です」
「兄上(信長)は半分諦めていますが、奇妙丸には家庭教師を付けて覚えさせて下さい」
「手配しておきましょう」
俺は愚痴を漏らしながら作業を続ける。
やる事は尾張だけで済まない。
奥州成敗を中止した為のしわ寄せ、各所の配置替えが出てくる。
しかも美濃、三河、西遠江、加えて信濃伊那もだ。
さらに、北条家や毛利家や北畠家への使者を出して状況を知らせねばならない。
その状況が随時変わってゆく。
半月で終えられる仕事ではない。
便利な政務室を使わないのは忍びの出入りが激しいからだ。
「
「そうか、すぐに通せ」
平和に暮らしていた三十郎兄ぃが怪訝そうな顔で入って来た。
俺としては中根南城のように馴れ馴れしいくらいで接してくれると嬉しいのだが、最近は皆の態度が固くなってきた。
ちょっと寂しい。
後ろの末森筆頭家老の
信勝兄ぃが三河に移ると、愛知郡も清洲に統合された。
三十郎兄ぃは東愛知郡の岩崎家や那古野の
貧乏になったともいう。
しかし、開拓や治水はほとんど終わっている。
予算はそれほど多く必要ない。
鷹狩りなどで日々充実しているそうだ。
実に羨ましい。
糞ぉ、そんな感情で俺は三十郎兄ぃを当て付けに呼び出したのではない。
一人だけ楽をさせるつもりがないだけだ。
「
「三十郎兄ぃ、堅苦しいあいさつは抜きにしてくれ」
「そうか、それは助かる…………(ごほん)ます」
三十郎兄ぃが言葉を崩そうとすると
仕方ない。
それは普通に話し方を戻して要件を言った。
「来て貰ったのは他でもない。次の対戦での三十郎兄ぃに頼みたい事がある」
はっきり言って兄上(信長)の策をそのまま採用するほど間抜けではない。
海を渡って摂津から京に上洛する?
流石、信長だと言えるほどの行動力と大胆さに目を見張るモノがある。
だが、それだけだ。
確実性がない。
「三十郎兄ぃには、信長兄上より先に京に入って頂きます」
「俺にか?」(ごほん)
「京見物をしたいと言っていたではありませんか?」
「いつの話だ」(ごほん)
その度に三十郎兄ぃが振り向いて、目で言い訳をしている?
目だけで会話がしている。
不思議に思っていた野球マンガのようにとても器用だ。
京の手前まで行って引き返した事があるだけで、末森城主になった三十郎兄ぃは留守番役が回って京に上がっていない。
何度も上洛を断っていた。
何もしなければ、落ち度も起こらない。
なるほど
さて、三十郎兄ぃはいつの間にか正室を貰っていた。
北伊勢の
この
北伊勢の小競り合いで不利を悟った
つまり、三十郎兄ぃは
不思議な縁もあるモノだ。
「三十郎兄ぃには
「俺が御所の警備を当たるのか?」(ごほん)
「宿営地は知恩院になる。住職も快く引き受けてくれた」
「幕府軍の真っ只中ではないか?」(ごほん)
「もちろん、僧侶の格好をして偽装はして頂きます」
北畠家からも兵5,000人を送る。
怪しまれない為に吉野を経由して、大和方面から幕府軍に参加する僧侶を装って京に上がって貰う。
それなりに剣術に覚えがあるのだろう。
三十郎兄ぃには俺の黒鍬衆500人を同行させるので火力的にも問題ない。
御所の北にある双国寺や放棄された武衛屋敷などをねぐらにして、分散させてこっそりと待機させておく。
兄上(信長)が間に合わない時は三十郎兄ぃが知恩院から兵を上げて京を制圧して、帝に拝謁して貰う。
潜入、潜伏、最後に制圧だ。
「言っておくが、信長兄上には内緒だ。一言も漏らすな」
「何故、俺だ?」(ごほん)
「
御所を守る役を頼むと
兄上(信長)が予定通りに到着すれば、
しかし、その事は帝にお伝えすると明言した。
すでに見守り組の出発に合わせて京に向かって貰っている。
「万が一にもありませんが、危ないと思った時は
「
そんなに不思議か?
お市は
皇女の天領も預かって貰っている。
そんなに遠くないだろう?
「織田家に近いという理由で公方
もちろん、俺の手紙ではない。
援軍の中に
「判った。
他に堺衆を使って播磨・但馬の私兵を呼び戻した。
最悪、一時的に銀山を奪われても取り戻せばいい。
下手に銀山を襲えば、味方の振りをする山名家や小寺家が寝返る。
それは幕府にとっても嫌だろう。
財布と兵を失う事になる。
元尼子方の領主は力尽くでも奪いたいだろうが、幕府の手前もあって下手に動けない。
銀の袋の効果は大きい。
戦費を届けてくれた山名家や小寺家は幕府にとってお客様だ。
戻した私兵は大和を追われて逃げ込んで来た
こちらは京の周辺に潜ませておく。
さらに桂川などの改修に携わって人夫らの親方らも俺の手駒だ。
幕府の連中は公家の仕事で俺が何をやっていたのか、覚えていないのか?
無防備過ぎる。
こちらとしては助かった。
町衆も味方になると考えて問題ない。
ここまで準備を進めてやっと安心した。
「兄上(信長)が到着するしないに関係なく、予定通りに蜂起して京を制圧して頂きます」
「信長兄上が怒りそうな気がする」
「成功しても確実に怒ると思います。遅れて到着した場合は覚悟して下さい」
「
「怒りはするでしょうが、命まで取られません」
「簡単に言ってくれるな」
「三十郎兄ぃはもう1つの織田家の旗頭だ。嫌だと言われてもやって頂く」
「判った」
とほほほ…………と三十郎兄ぃが肩を落として諦めた。
一緒に呼ばれた
分かっているのか、冷や汗が止まらない。
布巾を取っては汗を拭き、懐に入れてはまた汗を拭く為に取る。
道化師のようにカクカクと動いていた。
さて、ここまですれば大丈夫だろう。
見回り組の駐留地を放棄したのは痛いが、取り戻すのもそれほど難しい事ではない。
何かあっても帝を知恩院に移動させれば問題ない。
むしろ、京に忍びを手厚くしたので近江の方が手薄になっている。
かといって、武田家や長尾家の忍びも手強いので東に配置した忍びを戻す事もできない。
当然、北条家や毛利家に回す余裕もない。
況して、奥州など知らん。
伊達家、最上家が幕府方に付くと見た。
つまり、奥州斯波家である大崎包囲網ができそうだ。
大変だ。
余所者の織田家は意外と嫌われていたな。
それでもお市と慶次は何があっても生き延びそうな気がする。
信勝兄ぃも巧くやって生き延びてくれよ。
鬼柴田、勝家も頑張れ!
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