閑話.蜘蛛の巣。

織田の忍びの配置は巧妙であった。

まるで蜘蛛の巣を張ったような宝玉の輝きを思わせる。

そう感心するのは藤林 長門守ふじばやし-ながとのかみである。

名を正保まさやすと言う。

伊賀北部の湯舟郷を支配する藤林家の当主であった。


「長門守様、準備ができました」

「では、下るとするか!」


ぎぎぎ、小舟が岸を離れると川をゆっくりと下ってゆく。

長門守は武士の格好をして、笠を深く被っている。

月明かりを頼りに川を下るなど正気の沙汰ではないが、無理をせねばならなかった。

織田の蜘蛛の巣に掛からぬ為だ。


「織田の蜘蛛の巣は完璧であるが、知れてしまえば怖くはない」

「町は入れないのは不便でなりません」

「町に入れば、織田の網に掛かる」

「面倒でございますな!」

「まったくな!」


長門守は12日に三河の山狩りと称して東美濃に入り、木曽川を下って尾張の犬山城を目指した。

今川の領外に出るのは三年ぶりではないだろうか?

厳つい顔にギラついた目はいかにも親分という感じであり、彼に付いて行けば大丈夫と思わせる雰囲気を醸し出していた。

長門守の湯舟郷は甲賀にも接しており、彼の部下には伊賀忍だけでなく、彼を慕って従っている甲賀の者も多くいた。


「これ以上、お主らを失う訳にいかない」

「織田は恐ろしい手練れを揃えておりますからな!」

「まったくだ!」


駿河、遠江、三河に放っていた伊賀藤林衆を大量に始末され、他国の監視ができなくなってしまった。

イーヒ、ヒ、ヒと笑い所などどこにもあるのか判らないのだが、長門守は声を上げて静かに笑った。

お手上げだと言う意味だろうか?


駿河の今川義元公が花倉の乱はなくらのらんに勝って家督を継いだ後に、長門守は駿河に呼ばれて今川の目と耳になった。

早15年の歳月が流れた。

厳しい伊賀の山間では十分な糧を得ることもできず、足りない分を忍びとして活躍し、生きる糧を得ていた。

そんな中、義元公は忍びへの造詣が厚い、使い捨ての道具と見なさず、我らを導いて下さった。

このお方を越える方は出て来ないと思っていたのだが、織田の麒麟児が現れた。


「年は取りたくないものだな!」

「頭がそう言われると、儂らはどうすればよろしいので、老いぼれは用なしですか?」

「まだ、頑張って貰わねば困る」

「この老いぼれに?」

「儂も同じだ!」

「ふふふ、頭には返せぬほどの恩義があります。付いて行きます」

「イーヒ、ヒ、ヒ、頼りにしておる」


長門守は虎の子の精鋭を前に出した。

否、彼らを使わねば、織田の忍びを抑えられない。

織田の間者は優秀だが街道を閉じてしまえば何もできない。


「いっその事、商人、行商人、僧侶、芸人をすべて殺してしまえばいいのです」

「そんなことをすれば、誰も今川に近づかなくなる」

「面倒なことですな!」


織田の間者は風魔に近い。

普通に暮らしている者に紛れるので見つけ難く、忍びとしての技能を持っていないので替えがすぐに見つかる。

それらをすべて殺しても困るのは今川であって、織田はほとんど困らない。

情報を集める草(間者)と、実行する忍びを分けていた。

これは真似る所だ。

今更、学ぶことがあったとはそう思うと、また低く笑った。


「織田の巣窟など皆殺しにすれば良いのです」

「そうもいかん。義元公が友野 宗善ともの-そうぜんの願いで存続させることが決まったのだ。勝手に覆す訳にいかん」

「あの女共が織田と繋がっているのが明らかでございます」

「判っておる。知っておれば、害もない」


今川が大量の下忍を失ったが、今川は困っていない。

なぜならば、その代わりに機能したのが織田の遊楽だからだ。

金さえ出せば、遊楽は織田で配られている瓦版程度の情報を売ってくれる。

下忍を派遣して各地の情報を集める情報に匹敵した。

遊楽を潰すのは、自分の目と耳を塞ぐことになる。


そもそも魯坊丸が作ろうとしているのは情報のネットワークであり、敵味方に関係なく、国内の情勢や物品の相場を知る為に作っていた。

それは商人の発想だ!

自由自治を持つ商人街では受け入れられたが、敵味方でしか考えない武将らの間では受け入れられず、その版図は中々に広げるのに苦労していた。

駿河では友野宗善がその価値を義元に訴えたので、存続することができるようになった。

しかし、知れてしまえば、脅威ではない。

雪斎はそれを逆手にとって敵を翻弄することを考えた。

恐ろしい方だ!


「街道を使わずに獣道を使い、宿を使わず、船頭なども雇わない。それで織田の網に掛からない」

「流石、雪斎様でございます」

「それも織田の領内では猟主や農夫まで間者が紛れておるので油断できんが、他国ならばその心配もない」


月明かりに照らされて長門守を乗せた船が川を下って犬山城へ近づいてゆく。

そして、船着き場近くに船を止めて、犬山に忍ばせた者の手引きで小屋に泊まった。

翌日、犬山城の中島主水尉なかじまもんどのじょうを訪ねた。

主水尉には以前から繋ぎを付けていた。

そして、主水尉の案内で犬山城主である織田 信清おだ-のぶきよと対面し、長門守は天上や床下に鼠がいないことを確認してから義元公の手紙を差し出した。


「今川様に合力ごうりきして頂けるのはありがたい。感謝の念に堪えません」

「義元公としましては、旧領である今川氏豊の那古野城と熱田を取り戻せれば、それ以上は求めません」

「それに関して異議はございません」


それは岩倉城の信安のぶやすを助けるという約定である。

長門守を遣わせたのは理由があった。

信安の目付役である信清がどんな人物であるかを見定める役であった。

信清が阿呆では使えない。

信清は「異議はございません」と言いながら、口約束など知らんと言う感じで、目の奥に闇を見せた。

信清は目をギラつかせ、野心を隠そうとしない豪胆な者であった。


「イーヒ、ヒ、ヒ、所でご存知でございますか?」


長門守は口元を緩めて笑いながらそう言った。

不意の笑いに無礼な奴めと信清が顔を渋らせる。

気に掛けずに長門守は弾正忠家の策謀を暴露した。


「守山城主の織田信光は弾正忠家の刺客でございます!」

「何だと! 裏切っていると申すのか?」

「はじめから味方ではございません。現に岩倉のように商人を閉ざさず、守山は栄えております。信長と対立などしておらず、はじめから裏切っているのです」


雪斎が那古野の瓦版などの情報を集め、導き出した結論であった。

信光は弾正忠家の家督を自らが主張して、信長・信勝と対立し、主である尾張下四郡の守護代織田信友の家臣であると言う姿勢を崩していないが、その反面で経済制裁を受けていない。

信長・信勝が守山の信光を敵と見なしていない証拠であった。


「俄かに信じられん!」

「信じる必要などございません。此度のいくさで信長を倒し、清洲城で叛旗を翻した信光を滅ぼして、貴方様が尾張下四郡の守護代になって頂ければ、それで良いのです」


信光が味方の振りをしている理由は1つしかない。

味方の振りをして清洲城に入り、斯波 義統しば-よしむねの身柄を確保し、尾張下四郡守護代の信友を討つことだ。


「信長を討った後、清洲城を取り囲み。貴方様はこう言えばよろしい。義統をそのまま残し、守山に帰らねば、今川にすべてを奪われるぞ! 我々は熱田から侵入し、那古野城を奪った後に北上する振りを致しましょう」

「ははは、そんなに巧くゆくものか?」

「もちろん、策がございます」


岩倉城の信安が清州の信友を救援することが決まっている。

陣触れを出すときに2つ命令を出しておく。


1つは17日に犬山城に参集し、その日の内に信安との集結場所に移動する。


これで1つの『陣触れ』を隠すのだ。


そして、もう1つの命令が、18日の早朝に兵を集めて街道に集結する。


一度、どこかに集結させるのではなく、信清が街道を進みながら兵を拾ってゆくと言う策だ。

清洲城に近い村ほど朝に兵を集める時間を遅らせておく。


「知られぬように兵を集めることはできません。ですが、知られる時間を遅らせることができまする」

「なるほどのぉ! 悪くない」


信清がにやりと悪い顔をする。

長門守はそれを身逃さない。


釣れた!


何も今川に那古野をくれる必要もない。

清洲城から出てきた信光をその場で討って、その足で空の那古野城を奪えば良い。

信清がそんなことを思っているのだろうと推測する。


「信長を討てるのか?」

「こちらにも策を張っております」


清洲城の西には平田城があり、ここを林一族が占領している。

東南には小田井城が睨む。

そして、岩倉城を見張る為に、平田城と岩倉城の中間である鹿田 (西春駅付近)の藪が広がる野原に土を盛って砦を造っていた。


それに対抗し、信安も昨年から芝原村の生田神社の42間離れた南に砦を造ろうと人を集めていた。


「まさか?」

「そのまさかでございます。砦建設の為に集めた者達が兵に化けるのです」

「可能なのか?」

「持ち運ばせた道具に武具・槍・刀を忍ばせておけば、造作もございません。少々、時間が掛かっただけでございます」

「いつから考えておった?」

「昨年の秋より後でございます」


はじめからか!

村人は田植えの為に一度村に戻されていたが、再び刈り入れまで砦の建設の為にかき集められていた。

そこに武具を持ち込めば、すぐにバレる。

だが、はじめからこっそりと少しずつ持ち込んでおれば、その限りではない。

信清の知らぬ間に砦の増築を担当する堀尾 泰晴ほりお-やすはると結託していたことになる。

義元、用心せねばならん。

信清が今川への警戒感を上げた。


「イーヒ、ヒ、ヒ、納得頂けましたか?」

「承知した。全軍を持って信長を討ってみせよう」

「期待しております」


長門守が遣わされた理由はただ1つだ。

信清の野心の深さを計ること。

野心が深く、用心深いならば、守山の信光の陰謀を暴露して信用を得る。

野心は見掛けだけで小心者ならば、太鼓持ちに徹して巧く煽ててみせる。

そんな芸当ができるのが長門守しかいないからだ!

策は一度しか使えない。

失敗は許されない。


雪斎は三河の安祥城を陥落させたように、一度の機会ですべてを終わらせるつもりだ。

信長を殺せなくとも、足止めしている間に熱田を落とす。

熱田が落ちれば、知多も陥落し、今川は安泰になる。

一方、織田は片翼を失って失墜する。

雪斎の狙いははじめから熱田の一択であり、那古野城は余禄でしかない。

守護斯波 義統しば-よしむねの生死などどうでもよい。

織田同士で戦って互いに力を削いでくれれば、それでよかった。


長門守は大任を終えて、再び、見つからぬように東美濃から三河へ戻って行った。

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