閑話.蜘蛛の糸。

信長が出陣していった那古野城は昨日まで騒ぎが嘘のように静まり返っていた。

もちろん、静かなのは本邸のみだ!

出陣する後姿を帰蝶は見送った。

帰蝶は消せない不安を胸に抱いたままで部屋に戻ってきた。


「心配するでない。勝って戻って来る」


自信に満ちた信長がそう言った。

帰蝶を心配させない為の空元気だろう。

信長は優しい殿であった。

誰にでも優しいのはどうかと思うが、ともかく優しい殿だ。

癇癪がなければ、なおよい。


一方、妙な所で鈍感だ。

こんなに可愛がっているのだから裏切るハズがない。

そんな理由で家臣を信じている。

家臣同士の妬みもあり、飛んだ逆恨みもあると言うのに無頓着だ。

その辺りをお助けせねばならない。

また、良い物は良いと見る目があるのだが、猜疑心の目で人を疑うと言うことを知らない。

本当に可愛い人だ。

帰蝶はそう思う。

失いたくない。


この戦はどうも妙な胸騒ぎがする。

喉に骨が詰まったような感じだ!

落ち着かない。

静かな本邸で庭を見ながら、お茶を飲んで心を落ち着かせる。

今日は政務をする気も起きない。

サボったからと言って怒る者もいないのが幸いだ。

本当に用事があるならあちらから訪ねてくるだろう。


「政所に行かずによろしいのですか?」

「いいのです」

「勘定方の方らはずっと青い顔をして泊まり込んでいるようですが?」

「そうみたい」

「奥方のお顔を見るだけで元気がでるようです」

「そうなの?」

「はい」


下女の千早ちはやがそう言った。

彼女は小柄で可愛らしい少女だが尾張村雲流大芋衆の棟梁である。

帰蝶の護衛であり、目と耳になる忍びを束ねている。


「今日は溜息ばかり、却って心配を掛けるでしょう」

「そうでしょうか?」

「殿が決めてしまわれたのだから付いて行くしかありません。皆も判ってくれます」


そういう意味ではない。

勘定方の方々は美しい帰蝶様を見るだけで和むのだ。

思い混じりに溜息を付くだけでうっとりするだろう。

それが元気の素と言いたかったのだが通じなかった。

信長思いの帰蝶らしい。


「那古野だけで手一杯なのに、次は清洲ですか?」

「大変ね!」

「できますれば、私共も少し手を増やして頂きたいです」


こつん、千早の頭に拳骨が飛ぶ。

目付けの佐吉丸さきちまるの拳骨だ。

千早の口の利き方がなっていないと注意され、「どさくさに紛れて、何を言っている」と嗜められている。

頭を押さえて痛いと千早が涙目になる。

この二人を見ているととても和む。


政所の勘定方では毎日のようにこんな会話が飛び交っている。


「いくら借りねばならん」

「何万貫文になりますぞ!」

「あと2・3年ほど戦を待ってくれぬか?」

「誰がそれを言うのか?」


今日もこの戦に掛かる帳簿を集めて総支出を慌てて計算している。

勝てば、清洲の再建が待っている。

負ければ、死者に対する慰問金を出さなければならない。

勝っても負けても大赤字であることが変わりない。

勘定方は戦が嫌らしい。

信長に面と向かって言えず、毎日ほど同じような愚痴を繰り返している。


あらぁ、一筋の光が西の雲の合間から零れて来た。

庭も明るくなり、日がここにも差してきた。

何かきらりと光った。

気になって帰蝶は庭に降りた。


紫陽花が雨に濡れて艶っぽくなっている。

小さな花がぽつぽつと咲いている。

近づいてよく見ると、紫陽花の幹に蜘蛛の巣が張られている。

また、一滴!

葉から滴り落ちた水滴が蜘蛛の巣に当たって飛び散った。

その水が日に反射してきらきらとしていたのだ。


「何かございましたか?」


そう声を掛けてきたのが庭師の川村弥五左衛門かわむらやござえもんだ。


「いいえ、蜘蛛の巣を見つけたのです」

「さっそく、駆除を致します」

「そのままにしてあげなさい」

「よろしいので?」

「ええ!」

「畏まりました」


彼は大殿(故信秀)が連れてきた忍びだ。

五駄二人扶持 (二十二貫文程度)で召し抱えられたそうだ。

役方の用人に含まれ、帰蝶の部下となっている。


「綺麗に咲きそうですね!」

「よい雨となりました」

「これから暑くなってくるのね!」

「左様でございます」


皐月さつき (5月)、梅雨ばいうが近づいてきた。

弥五左衛門が庭の手入れに戻る。

面向きは大殿(故信秀)が作って頂いた庭園と呼ばれる花園の管理をやっている。

美濃より来た帰蝶を慰める為に季節の花を植えて目を和ませてくれた。

役方に付くまで本気でそう思っていた。

実は毒や薬が沢山作られていたのだ。

比喩ではなく、本当に信長を毒から守る役所だったのだ。


この紫陽花の葉もすり潰して煮込んで濾してゆくと白い粉ができる。

それは腹下しのよい薬になるらしい。

この庭師と台所役と薬込役の三人を薬所三人衆と呼び、毒に精通した三人だ!

信長の健康と食の安全を司る裏方衆だ。

でも、信長は毒などが嫌いそうなので帰蝶は黙って知らない振りを続けている。


おや、何やら千早の方が騒がしい。


「奥方様、小頭の御馬瀬みませからお話したいことがあるそうです」


帰って来たのね!

三河の様子を見に行かせた千早の部下が帰ってきたようだ。

庭に通された小頭の御馬瀬がうな垂れるように跪いた。

話があると言いながら中々に言葉が出ないようだ。


「何かありましたか?」

「申し訳ございません。何も判りませんでした。ただ。東尾張の方面で怪しい動きがありそうです」

「怪しいとは?」

「まったく判りません。三河に近づこうと思ったのですが、沓掛付近で伊賀衆に見つかり、逃げるだけで引き上げてきました」


御馬瀬の失態を千早が頭を下げて詫びる。

命令を実行できなかっただけでなく、命からがら逃げ回って帰ってきたのだ。

それも目と鼻の先にある東尾張で?

醜態であった。

千早は皆を戻して強行突破すると言っているが、それは止めさせた。

もうすべてが遅い!


「おかしいわ!」

「何がおかしいのですか?」

「奥方が考え中だ。要らぬことを聞くのでない」


目付の佐吉丸さきちまるが千早の頭を叩いて嗜めた。

千早が「叩かないでよ!」と訴えるが、「思ったことをすぐに口に出すな!」と叱られている。

そこが可愛いのだけれど!

帰蝶の眉間のしわが少し崩れ、頬がやんわりと微笑んだ。

その余裕が頭を回した。


帰蝶が首を傾げたのは伊賀衆のことだ!

少し前に今川に雇われていた下忍が大量に殺された。

魯坊丸ろぼうまるが敵対した今川の目と耳を潰したのだ!

藤林長門守も驚いたことだろう。

補充が必要になったのだが、今川に忍びを送ってまた殺されては堪らない。

伊賀の国では今川への派遣を嫌がっている。

本家の藤林家ですら拒絶したと言う。


「魯坊丸様の忍び衆は凄すぎます」

「確かにね!」

「この御馬瀬を引き抜こうとしたのですよ。大概にしやがれです」

「そうなの?」

「一度だけです」

「即答です。断りました」


千早が断ったらしい。

魯坊丸の忍び衆は魯坊丸が雇っている訳ではない。

熱田の城主や商人が客将として招き、独立愚連隊として魯坊丸の周りに徘徊している。

正確な上下関係もなく、自らの意志で魯坊丸に従っている。

中忍から上忍ばかりの凄腕が揃っており、腕の立つ者を見つけては仲間にならないかと誘って数を少しずつ数を増やしている。

彼らが居れば、散歩がてらに三河の様子を見に行けるのだが、居ない者はどうしようもない。

ならば、その分は考えるしかないのだ。


その凄腕の忍びに数を減らされた伊賀忍がどうして東尾張にいるの?

今川に余裕などはない。

義元の警護を減らした。

あり得ない!

起こっている事とやっている事に辻褄が合わない。

帰蝶の元には沢山の情報が入って来ていた。


4月7日、遠江に視察に行った今川義元は小笠郡で賊に襲われて肩口からバッサリと切られたらしい。

そして、血だらけになって駿府屋敷に運ばれた。

幸い傷は浅く、致命傷にならなかった。


それを聞いて信長は飛び上がって喜んだ。

同時に少し非常に残念がった。

そのまま死んでくれれば助かったのにと!


今川家臣団は焦ったのであろう。

いみじくも塩買坂に近く、先々代の今川義忠が討たれた地であったからだ!

怨念と言うのか?

因果応報、適当な言葉が見つからない。


「佐吉丸、この話におかしいことはあったかしら?」

「ございません。多くの者が目撃しており、医者の証言もあったようです」

「遊楽と歩き巫女からの話だったわね! 行商人(間者)も見ていた」

「その通りでございます」


遠江にはまだ反今川の残党がいた。

家臣団は躍起となって山狩りを行い、残党は天竜川方面に逃げたと噂された。

日に日に大規模な山狩りになってゆく。


4月9日付けの情報ではすべての遠江の家臣に参加するように下知が降された。

最後の船が10日に出港して、(12日に)大湊に戻ってきた。

今後、事件が解決するまで出港の沙汰が出ないと言う。

伊勢の大湊も慌てている。

また、行商人・旅芸人・僧侶なども同じだ!

すべて関所が閉められ、関所抜けをする者を厳しく取り締まる。


12日、三河と東美濃の山も山狩りが行われ、知多の漁民が三河に魚を卸すことも拒絶された。

これを最後に三河から情報も入って来なくなった。


魯坊丸が引いた蜘蛛の糸がぷつりと切れた。


それがまとめられて、信長に伝わったのは13日だった。

信長は余り興味を示さない。

それより畠山が上洛するなど、沢山の情報が京から齎される。

一方、邪魔でしかない末森の一団が京を目指す。

厄介だった!


戦いそのものは魯坊丸の手紙から自信が伺える。

だが、最悪の場合は信長の上洛もあり得た。

信長の興味は自領でごたついている今川家から京に関心が移っていたのだ。


15日夕方に (岩室)重義が京から戻って来た。

停戦明けの初戦を大勝利したことを聞いて、信長は清洲攻略を続行することを決定した。


「殿、今川はどうされますか?」

「家中が荒れている今川など放っておけ!」

「何をやっているのかが、まったく判らないのですが?」

「賊が捕まれば、湊も開くであろう。いつまでも閉じておく訳にもいかん。それからでよい」

「しかし」

「諄い!」


混乱する今川は放置できると判断したのだ。

今川義元が怪我をしたのは本当そうだが、湊を閉じるのは過剰反応に思えた。

帰蝶は不安になった。


本当に今川を無視して良かったのだろうか?

余りにも都合が良すぎる。

16日、帰蝶は千早に命じて、三河を探りに行かせた。

翌日 (17日)には戻ってくると思っていた。

しかし、御馬瀬らは沓掛に入ると伊賀衆に捕捉され、中々の強者で逃げるだけが精一杯だったらしい。

一日中、身を隠して敵をやり過ごし、やっと今日になって戻って来たと言う。

義元を警護するべき伊賀忍がいた?

どういうこと?

帰蝶は首を横に振った。

考える必要もない。

答えは1つだ!


おそらく悪い予感が的中した。

後手を踏んだ!

すべてが遅すぎた。

これが魯坊丸の言っていた情報戦という奴なのね!


素直な信長は味方から流された義元の怪我の話を信じた。

味方の話だから信じた。

人のよい信長だからあっさりと騙された。

巧く味方を使われた。

山狩り、兵糧を運ぶ話、村木の砦もすべて兵をこちらに回す虚実だ!

帰蝶は悔しがりながら怒った。

たちが悪い、タダの騙し合いじゃない!


「とにかく、殿にお知らせして! 義元の怪我はすべてが嘘だと!」

「御馬瀬、おまえが直にお知らせせよ」

「畏まりました」

「千早、番方に那古野に残っている兵をすべて集めるように命じなさい。責任は私が取ります。逆らうならば、後で処分すると脅しなさい」

「承知しました」


それから熱田と末森に警戒を!

他に守山、勝幡に援軍の要請を!

間に合うの?

日はすでに高くなっていた。


帰蝶は霧の中を歩くような気分で信長の無事を祈った。

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