第62話 優等生の信勝君。
信勝の朝は早い。
日が昇る前に起き出し、少し重たい太刀を持ちだし中庭で素振りを始める。
ただ力任せに振ると刃がひらひらと踊ってビィッという音がする。
やや斜めから薬指と小指を添えてぎゅうと握る。
一方、親指と人差は添えるように自然に握った。
上段に振り上げた刀を胸まで引いて降ろすと、ヒュッと言う音がした。
信勝は一心不乱に繰り返した。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、刀の重さに操られることなく、意のままに振れるまで長い時間が掛かった。
百回を超えると汗が湧き立ち、体中から湯気が上がった。
達人が言うには汗を掻くのは無駄な力が入っているからと言う。
信勝は一日も欠かすことなく振り続けている。
まだ、その域に達していない。
コケコッコー、鬨の声を上がる頃になると、空がうっすらと明るくなってくる。
まずは屋敷を点検に来る武士がやってくる。
目が合うと一礼して通り過ぎる。
その当たりで素振りを終えて、井戸で行水を行う。
朝食の準備をする飯炊き女も起き出し、騒がしくなってくる。
偶に水を汲みにくる下女に遭遇する。
「これは殿様、お目を煩わし申し訳ございません」
「構わん。井戸で水を汲むのを禁じた覚えはない」
「しかし、殿様のお姿を!」
「ふふふ、ふんどしがめずらしいか?」
「いいえ、立派なお体、見るだけでうっとりしてしまいそうでございます」
「嬉しいことを言ってくれる」
「嘘でございません。目のやり場が困るほどでございます」
下女は跪き、頭を下げたまま、ホンの少しだけ顔を上げてちらり、ちらりと信勝の体を覗き込んでうっとりとしていた。
贅肉が一つもない。
均整の取れ、がっつりした逞しい体であった。
おらは幸運だ!
下女は目をハートマークにしていた!
堪能しながら信勝が行水を終えるのを待った。
「ときに、何故、他の者は井戸に水を汲みに来ない」
「台所の側にも水を汲める所がございます。桶を使わぬ井戸でございまして、大変に便利なのですが、皆が殺到してしまいます。下っ端のわたしが迷惑にならぬようにこちらを使っております」
(偶に殿様に会えるかもしれねいなんて口が裂けても言えねいだ!)
「そうであったか! 邪魔をしたな! 使ってよいぞ!」
小姓から手ぬぐいを受け取ると信勝は部屋に戻ってゆく。
カッコいいだ!
城内では信勝の人気は悪くない。
折り目正しい好青年の殿様と思われている。
女中など逞しい体付きにうっとりだ。
これが村に降りると変わってしまう。
鷹狩りするが信長のように遠乗りをしない。
祭りに参加して餅をくばったりしない。
遠い殿様より、身近な信長を慕っていた。
因みに、魯坊丸は崇められる対象であり、中根の村人を除くと親しむなど恐れ多いと思われていた。
怒らせたら、天罰が下ると本気で信じられている。
信勝は部屋に戻ると衣服、頭の結い直しなど身支度に身を小姓に任せる。
その後に朝食が運ばれてくる。
一汁三菜、どんぶり飯で五合を平らげる。
それが信勝の朝食だ。
がっつりと食べられる割に色彩が乏しい。
信勝の命で父(故信秀)が食べていた朝食をそのままにしていた。
そして、それを城内でも守らせていた。
飯と沢庵漬けとお茶だけは御代わり自由だった。
そりゃ、弟や妹達が朝から肉、魚が出てくる中根南城に遊びに行きたくなるのも無理はない。
食事が終わると部屋を移して、部下からの報告と陳情を聞く。
もちろん、一人で決める訳に行かず、必ず家老が付き沿った。
「おはようございます」
「今日は勝家の番か?」
「加納様が腰を痛めたので代わって欲しいと頼まれました」
「さっさと引退して家督を譲ればよいのに!」
勝家も苦笑いをする。
末森の家老は故信秀様からの年寄が多い。
何かと否定的な意見が出る。
まずは朝の雑談からはじまり、目付、用心、側用人、近習が揃うと仕事が始まる。
日々の報告がなされ、信勝はただ聞くだけである。
判断が困れば、聞き返してくる。
その時のみ答えればよい。
「所で、末森の商人衆が熱田や津島のような『許し文』を欲しておりますが、如何致しましょうか?」
「発行しても良いであろう」
「殿、お待ち下さい」
勝家が止めた。
勘定奉行を呼んで説明を聞くことにした。
「簡単に申しますと税が減るとお考え下さい」
「熱田や津島は税が減っているのか?」
「いいえ、橋や倉を造った分は『許し文』で税を減額されますが、その分、税に関して厳格でございます。末森は大殿の代より、商人らからざっくりとしか税を取っておりません。『許し文』を発行すれば、その分の税が減るのは明らかでございます」
「同じようにできぬのか?」
「魯坊丸様に人を借りて頂ければ、変えることも可能と思いますが、お頼みになられますか?」
ちぃ、信勝が舌を打った。
魯坊丸の名が出ると急に不機嫌になる。
どいつもこいつも魯坊丸だ。
7歳の子供に頼る?
皆、無能ばかりだ。
「もうよい。その話はなかったことにする」
橋の改修、武具の買い入れ、家督の陳情など、様々なことが上がってくる。
国事に関わることは評定に回し、即断がいる場合は家老の許可を取る。
今日は勝家だ!
「次に、軍事の報告ですが、
「そうか! 他には?」
「特にございません」
「最近の野盗はだらしない者が多いな!」
「村も厳重に守っております」
「そうか!」
信勝は負けた野盗の話など興味もなさそうであった。
勝家は野盗がだらしないのでなく、村がちょっとした砦のように堅固になっていることを伝えるか迷った。
おそらく、見ただけ、聞いただけでは判らない。
村の柵を越えて侵入した途端、薄い板が割れて足を取られる。
そこで投石か、矢が飛んでくると一溜りもない。
次に高くない土手がある。
しかし、一度超えると内側に堀があって戻るに戻れない。
その先に家が壁のように立ちはだかる。
路地はすべて行き止まり!
板葺のボロ屋のように見えて、すべて内側は頑強に出来ている。
ボロ屋の屋根は盾のように開閉でき、そこから投石と矢が降ってくる。
騙し絵のようなボロ屋だった。
初見殺し!
模擬戦で勝家は50兵を連れて全滅させられた。
100人で落とすのも難しそうだ!
その負けた話しをするのは勝家も恥ずかしい。
また、その野盗が丹羽氏勝の手の者と想像できたが、交渉が巧く行っていない上に推測で話すのは無意味と思って口を閉じた。
◇◇◇
朝の仕事を終えると、もう昼近くになる。
信勝は着替えて修練場へ移動する。
末森城の裏手を拡張し、大きな三の曲輪を作って修練場とした。
修練に勤しむ武将らが集まって来て、弓などを鍛錬する。
特に乗馬、
何と言っても馬上で大弓を放つのは、武将の花形である。
信勝もこの修練を欠かすことがない。
「殿、一手勝負致しませんか?」
「受けて立とう!」
一緒に修練をする若武者らから信勝は絶大な人気を持っていた。
武家の棟梁として、これほど見栄えは良いお方はない。
そして、共に汗を掻く。
日々鍛練を勤しむ殿に負けじと若侍も熱が入る。
「そろそろ、鳴海を取り戻しましょうぞ!」
「俺もそう思っているが、家老が許してくれん」
「爺どもは頭が固くなっているのです」
「そうです。力づくで奪い返せばよいのです」
「まぁ、待て! いずれ説得する」
同じくらいの年の者は血気盛んで居心地が良かった。
日が傾くまで修練を続け、城に戻ると勉学にも勤しむ。
中国の学問書『四書』、『五経』などを読み漁る。
姿勢を正して本を読んでいると、土田御前がやってきた。
「信勝、次は蹴鞠も覚えねばなりません」
「蹴鞠でございますか?」
「京に送った者が手紙を送ってきました。お市が蹴鞠を習得し、公家様から可愛がられているそうです。蹴鞠ができるとできぬでは覚えが違います。いずれは貴方も上洛するのです。蹴鞠ができぬと笑われることがあってはなりません」
「判りました。明日でも蹴鞠ができる者を登城させて教えて頂きます」
「魯坊丸もかなり上手になったそうです。負けてはなりませんぞ!」
「畏まりました」
ちぃ、信勝は土田御前が部屋を出て行ってから舌を打った。
どいつもこいつも魯坊丸か!
正月の参賀で会った以来、あの顔が脳裏にちらついてイラついた。
弟の分際で出過ぎた奴だ!
しかも官位も同じだと言うから、さらに腹が立った。
夕食を終えると、信勝は再び勉学に勤しむ。
次は『源氏物語』、『古今和歌集』、『万葉集』、『和漢朗詠集』などの教養だ。
武家にとって必要かは怪しい。
そう思っているが、上洛して知らぬでは恥を掻くことになる。
織田弾正忠家の当主として恥ずかしくない振る舞いを覚える必要がある。
信勝はがんばる!
こうして、兄上 (信長)を追い越したのだ。
誰にも負けるつもりはない。
中座して厠に行った。
月が綺麗に上っており、廊下から優美に月を眺める。
煌々と照る月が美しかった。
「殿、そんな所におられると風邪を引かれますぞ!」
「高島か!」
「はい、高島でございます」
「そなたこそ、どうした?」
「部屋に戻ろうかと思いましたら、殿がここに居られるのが目に入りました」
高島局は信勝の側に立った。
どこか心細いような顔をしている。
震える高島局の肩に信勝はそっと手を差し伸べた。
「どうかしたか?」
「わたくしは離縁されるのでございましょうか?」
信勝は首を横に振った。
「そんな訳がない。高島殿は俺の大切な後ろ盾だ。そなたを粗末にするつもりはない」
「本当でございますか?」
「本当だ!」
信勝は高島局を抱き寄せた。
小鳥のように震えていた。
だから、安心するようにゆっくりと力を込めてゆく。
「殿!?」
「そなたを正室から側室に落とさねばならぬかもしれない。だが、手放すつもりはない」
「嬉しゅうございます」
「そなたは俺にとって、この空に浮かぶ月のようなものだ。失いたくない」
「ありがとうございます」
いい雰囲気になった。
信勝は高島局も手を回し、これからかんばれそうな気になってきた。
さぁ、部屋に戻ろう!
『手に入りましたぞ!』
廊下の内側の部屋で大きな声を出して入ってきた者の声が聞こえた。
「那古野の瓦版か?」
「明日、配る最新号ですぞ!」
「見せてくれ!」
部屋の主は声から夜番の家老の一人だ。
何かあった時の為に、必ず一人は城内に残っている。
「何!? これは凄いではないか!」
「本当でございますな! 公方様を招いての能会に元関白様、右大臣様、権大納言様、中納言様がご出席とは、豪華な顔ぶれでございますな!」
「しかも右大臣様が舞いを披露し、元関白様が楽師を勤めて、公方様を慰めるとは、九州の大友、中国の大内、畿内では細川様もできなかった前代未聞の能会になったと書いてあるではないか!」
「これでまた、織田の威信が天下に響きましたな!」
「上洛も派手でした」
「それで帝の心も公方様の心も鷲掴みだな!」
「まったくでございます」
「あと10年、早くお生まれになっておれば!」
「それを言うな! むしろ、美濃や今川に生まれなかったことを感謝しろ!」
「まったくでございます。ははは」
楽しそうな声を聴いて、信勝は力を込めてしまった。
「殿、痛うございます」
「すまん」
「いいえ、大丈夫でございます」
「悪かった」
「気になさいますな!」
「高島、一人で部屋に戻れるか?」
「はい?」
「悪いが今日は一人で寝させて貰う」
高島局は寂しそうにしながら信勝を見送った。
信勝は部屋を戻ると太刀を取って中庭に出た。
糞ぉ!
太刀を一刀両断に振り下ろした。
どいつもこいつも魯坊丸、魯坊丸、魯坊丸!
気に入らない!
信勝は疲れるまで太刀を振り続けた。
小姓は桶に水を入れ、手ぬぐいをいくつか用意して側に控えている。
若き当主の苦悩は続きそうだった。
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