涙香ノスタルジア
第55話 記憶を消して
幼いころからかぎ慣れていた匂いなのに、春夏秋と離れただけで何だかなじみのないものに変わってしまったようだった。
春子は上がりかまちに座って、小間物屋の店内を眺めていた。鍋、筆、風呂敷、小さいころからよく店番で眺めていた、慣れ親しんだ風景だ。けれど今は、陽光に浮かんだ品々も、土間もどこかよそよそしく感じられてしまった。
天野家を去ってから、数週間がたっていた。『格子縞香水店』閉店の日にはお客さんたちが集まってくれ、清美や令嬢からたくさんの花束をもらった。「また新しく店を始めたら教えてほしい」と、本当に残念そうな顔で惜しまれたのが、春子にとってほんの少し救いになった。その後、國彦とハナにあいさつして、小間物屋の家に戻ってきたのだ。
見合いはあさってだった。相手は店のお得意様の息子で、義父は最初断ったらしい。
「春ちゃんにもう少し香水店を続けさせてあげたかったから、そんな急に……と言ったんだけどね。息子さんが春ちゃんを何度か見かけていて、ぜひにって……もっとやらせてあげたかったけど、すまないね」
義父は申し訳なさそうに、それ以上語らなかったが、お得意様の頼みというのもあったのだと思う。面識のない相手と結婚するなど、当たり前のことだ。大衆小説は恋愛結婚を高らかにうたうけれど、それは物語の中でしかない。当たり前のことが少し早まっただけだと、見合いまでに踏んぎりをつけないとと、重苦しい心に無理やり言い聞かせていた。
砂の地面を踏みしめる音に視線を投げると、紺色の人影があった。春子はとっさに立ち上がる。
「綾部さま。どうされたんですか?」
紺の軍装に、軍帽。どこか険しい顔をした玲が、立っていた。春子は店の入口まで駆け寄る。いつもにこやかな玲にしては、珍しく切羽つまった表情をしている。
「春子さん。折り入って話があるのだけれど、少しいいだろうか」
「いい、ですが、何でしょうか」
「こみ入っているから座って話したいんだが、出られるかい」
「ああ、ええと、それならお上がりください。大層なおもてなしはできませんが」
春子は玲を小間物屋からつながる家のほうへまねいた。途中、縫い物をしていた義母へ店番をお願いする。
「あら、お客様?」
「綾部玲さま。香水のお店を出すのに協力してくださった方。おばさんも会ったことあるでしょう?」
立ち上がって玲と相対した義母は、不思議そうな顔をしてから手を打った。
「ああ、そうだったかしらね。もう物忘れが酷くて。ごめんなさいね。お茶を持っていきますね」
「どうぞお構いなく」
軍帽を取った玲を座敷に通し、義母から受け取ったお茶を卓に出し、春子は玲の向かいに正座した。
玲は深刻な、けれどすがりつくような強いまなざしを向けてきた。
「単刀直入に言う。子槻を捜すのを手伝ってほしい」
春子は玲の言葉を頭の中で繰り返す。
「失礼ですが、『しき』とは人の名ですか? どなたでしょうか?」
玲が目を見張る。けれどすぐに、真剣な表情になる。
「天野子槻だよ。天野商事の長男で、君の香水店をひらくのに尽力した。君のことをとても愛おしんでいた」
春子はけげんに思った。玲の言っていることがよく分からない。
「天野商事は昔、お子様が亡くなられて後継ぎがおられないと……香水店に尽力してくださったのは綾部さまでしょう? 天野家の方々を説得して、夜会にも一緒に行ってくださった」
玲の表情が、変わる。驚愕から呆然としたものになる。頭痛をこらえるように、顔をしかめて額に手を当てる。
「まいったな。本当に春子さんからも記憶を消していったのか」
いぶかしんだ春子に、玲はまた真剣な表情を戻して見つめてくる。
「天野子槻は天野家の長男だ。天野商事の後継ぎで、俺の中学校の悪友で、君をお嫁さんにするとずっと言っていた」
「ええと……よく分からないのですが……」
先ほどから玲が言っている『あまのしき』が誰のことなのか、分からない。けれど玲はためらう様子もない。
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