第47話 幸せになってはいけない
「ここでしたか?」
棚の前で振り返ると、子槻が「そうだよ」と来てくれた。棚の引き戸を開けて木箱をしまおうとしたとき、奥に何か見えた。血の気が引く。
「春子?」
固まっている春子を不審に思ったのだろう子槻がのぞきこんでくる。春子の視線の先をたどって、動きを止めた。
「あれは、涙香、ですか?」
透明なねずみの形をした瓶に、薄黄色の液体が入っていた。ゆっくりと子槻を仰ぐと、子槻は戸惑った顔をして春子を見つめていた。
「あれは涙香ではないよ。わたしに……槻子神に捧げてくれた涙香によく似た香りだ。涙香は触れられないところにしまってある」
ああそうか。あれはねずみの神様に幼いころ捧げた香りだ。涙香の試作として作ったものだ。干支の、ねずみの形をした瓶をよく覚えている。小間物屋のおじさんにもらって、中を洗って大事に取っておいてあったのを、香水を入れてねずみの神様に供えに行ったのだ。
それが今、ここにある。
「そろそろ戻ります」
木箱を棚に戻して、机の上の瓶を中央に寄せた。手が冷たくて、うまく動かない。
「春子? どうしたのだ、あれは涙香ではないよ。もしかして何か思い出したのかい」
「何でもありません」
困惑する子槻を振りきって、あいさつもそこそこに部屋を出た。自室まで戻ってくると、両肩を抱いて、扉に沿ってしゃがみこんだ。
何か、大切なことを忘れている。ねずみの神様に捧げた、涙香に似た香水のことは思い出したのに、なぜそれが今子槻のもとにあるのか、分からない。
けれど、いずれにせよ、思い出した。涙香があるかぎり、春子が涙香の罪を背負っていくかぎり、幸せになることは許されない。香りがする。縛られる。
『春子が妻になってくれる香り』をまとわせて、手を握って、妻になってほしいと言った子槻を思い出す。
身分違いでも、子槻と結ばれたら、幸福だろうか。
考えてしまったことに、ふたをした。意味のないことだ。
春子は、幸せになってはいけないのだから。
混ざり合った精油の香りを吐き出して、春子は天井のはりを仰いだ。香りを感じにくくなってきたので、そろそろ休憩したほうがいいかもしれない。ひとつ息を吐いて、畳の机の上を眺める。今お客さん用に使っている精油瓶のかたわらに、茶色いガラスの四角い瓶があった。ふたはつるつるとした銀色だ。
子槻への香水である。春先から作り始めて、もう十月になってしまったが、昨夜ようやく完成した。春子としては心地よい香りになったと満足しているが、果たしてどうか。喜んでもらえるだろうか。不安と、期待が入り混じる。
考えていたら、店の引き戸がひらく音がした。春子は草履を引っかけて接客部屋へ下りる。
「いらっしゃいませ……あ」
緋色に包まれた長い髪の女性が、立っていた。
ごふん色の着物には緋色の紅葉、なす紺に金の手まり模様の帯。黒く腰まである髪の後ろについたリボンも緋色。切れ長のくっきりとした目が春子を射抜いている。
忘れもしない、数か月前に香水を依頼していった令嬢だった。
「お久しぶりです! 香水、できておりますので少々お待ちください!」
春子はお辞儀をして受付台に入る。オオダアメイドの香水はここに置いてあるのだ。何だか背筋が伸びて緊張してしまうのは、令嬢のまなざしが際立って強いからだろう。春子は瓶と和紙を持って、目の前の机へと向かう。
「おかけになってください。ご確認いただきたいのです」
机のまわりに並べられた椅子を促すと、令嬢は静かに席についた。春子も向かいに座る。
「こちらになります。どうぞ」
そうして、細長い和紙と、深く青い色をした瓶を机に置いた。
「紙には香水をつけてあります」
令嬢は春子を射抜くまなざしのまま、和紙を手に取って、顔へ近付けた。
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