第45話 押してだめなら引いてみろ

「そ、粗相など……そ、そそういうわけでは」

 あきらかに、おかしい。

「もしかして何か隠していますか?」

「か、隠してなどいるわけがないだろう」

「ガラスを割ってしまったとか」

「そんなことはしないよ」

「盗み食いが発覚してしまったとか」

「子どものいたずらではないか!」

「で、では、ご婦人のもとに通われている、とか」

 いきなり、左肩をつかまれた。春子は体が固まって、子槻に見入る。

「断じてない! なぜわたしが春子以外に目を向けねばならんのだ!」

 その表情が、目がとてもまっすぐで、けれど少し泣き出しそうで、見とれてしまった。

 子槻は自分に驚いたように手を離して、飛びすさる。

「す、すまない、違うのだ……白状する」

 うつむいた子槻は、怒られていたずらを白状するときの子どもそのものだった。

「あまりにも春子がわたしに興味を持ってくれないものだから、玲に聞いたのだ。そうしたら『押してだめなら引いてみろ』と言われて」

 何となく、話が見えた。

「だから春子のもとに行くのをやめて、努めてクウルに振るまおうとしたのだ」

 クウルがどういう意味なのか分からないが、いつもとは正反対に春子を遠ざけてみた、ということだろう。ようやく妙な態度の謎が解けた。安心と少しの呆れが混ざり合っておかしくなる。

「そういうことでしたか。何かしてしまったかと思いました」

「すまなかったね。やってみたものの、わたしも苦しかったのだ。お入り。一緒にあんぱんを食べよう」

 ひらいた扉の中へ招き入れようとする子槻に、春子は焦った。真相も分かったし、このまま去るつもりだったのだ。このりもいないし、ひとりで男性の部屋に踏みこむなど、ふしだらにもほどがある。

 けれど子槻は「さあおいで」と自然に春子の手を取って、部屋の中に引きこんでしまった。

 部屋には書き物机、寝台、書架、真ん中に背の低い机と椅子が二脚あった。びろうどのぶどう色の窓かけが引かれている。

 特に目を引くのが書架で、隙間なくつまった本の背表紙に、難しい題名が並んでいる。外国語のものもある。本当はすぐにでも出ていかなくてはいけないのに、興味がまさって見入ってしまう。

 そんなふうにうかうかしていたら、椅子に導かれて座らされてしまった。低い机を挟んで、子槻も座る。「あの」と言いかけたところであんぱんを渡され、申し訳なさそうに微笑まれた。

「君を不安にさせてしまって、本当にすまなかったね」

「あの、いえ、ちゃんと分かったので平気です」

 そうして淡く微笑まれる。おいとましたい、と言いづらい雰囲気になってしまった。言えばきっと子槻は帰してくれるが、悲しそうな顔をするだろう。男性とふたりきりになるなど本当は言語道断だが、子槻はお世話になっている人だから、と自分を納得させる。

 ふたりで向かい合ってあんぱんを食べた。あんぱんには桜の塩漬けが乗っていて、口の中であんと混ざって香る。最初に作った桜の香水を思い出した。

「おいしいですね」

「ああ。わたしもここのあんぱんは好きなのだ。最近、君のお店はどうだい?」

 近頃、子槻はお店に来ていないから様子を知らないのだった。

「順調です。おかげさまで。このあいだは、お客様の前で即興で香水を作りました」

 あんぱんを飲みこんだ子槻が身を乗り出してくる。

「何だいそれは。面白そうだね。今ここでわたしにも作ってもらえないかい」

 春子はあんぱんの最後のひときれを喉につまらせそうになった。

「い、今ここでですか? 材料がないのでは?」

「実は少しなら持っているのだ」

 子槻は得意気に立ち上がり、棚から木箱を持ってきた。机に置かれた木箱を開けると、茶色い色ガラスの小瓶がいくつもつまっている。

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