第23話 踊ろうか

「春子、踊ろうか」

 あまりにも自然に言われたので、春子はうっかり「はい」と返事しそうになった。

「はい?」

「踊ろう。わたしはずっと春子と踊りたかったのだ」

 子槻は春子の手を取って椅子から立たせると、空になったグラスを春子のぶんも適当な机へ置いて、中央へ向かっていく。

「ま、待って、待ってください! 踊りは無理です!」

 子槻に手を引かれながらも反対側に体重をかけて抵抗する。西洋作法と共に踊りも習ったが、さすがに付け焼き刃すぎて無理だ。それに、踊りのほうが大勢の目に触れてしまう。

「わたしが無様な姿を見せたら子槻さんにまで悪い評判がたってしまいます!」

「評判などもうどうでもよいのだ。ほら、曲が変わったよ」

 何を言ってもむだかもしれない、と思いつつも抵抗を続けていたら、子槻が振り返った。打ち捨てられたように沈んだ顔をして、春子を見つめてくる。

「春子はわたしと踊るのが嫌なのか?」

 その態度は卑怯だ、と思った。まるで春子のほうが悪者のようだ。

「別に子槻さんがどうのこうのということでは。問題は踊りのほうで」

「そうか! では何の問題もない」

「問題しかありません!」

 けれど春子は諦めて力を抜いた。踊るまで子槻が引かないということが分かったからである。

「もう、取り返しのつかないほど悪い評判がたってしまっても知りませんから」

「大丈夫だよ。意外と誰も見ていないし、見られていたとしてもわたしと春子の世界だし、ダンスなど楽しければ何でもよいのだ」

(適当すぎる!)

 子槻は広間の中央に春子を導いて、向かい合う。手を組み合って、背中に触れられて、春子は身構えていた。練習したとはいえ、恥ずかしさに逃げ出しそうになる。夫婦でもない男女がこんなに密着するなど、帝国ではありえない。西洋文化は破廉恥すぎる。

「春子、せえの、右後ろ、左横、閉じる」

 子槻のささやきに合わせて足を踏み出す。音楽は緩やかで、付け焼き刃の記憶を総動員すると、おそらく『ワルツ』というものだろう。

「何だ春子、上手じゃないか。謙遜はほどほどにしたまえよ」

「話しかけないでください! 間違って踏みますよ!」

「踏まれてもよいから話したいのだが……」

 必死の剣幕で遮ると、子槻は目に見えてしおれた。

「春子、もう少し力を抜くといいよ。というわけでこのあいだの話なのだが」

 勝手に話し始めた。

「わたしが庭の桜を切っただろう。それで庭師に苦言を呈されてしまってね。桜は素人が切ると切り口が腐ってしまうのだそうだ」

 桜の香水を國彦に認めさせるために、子槻が自ら桜の枝を切ってきてくれたときのことだ。

「そ、それでは枝を切った桜は腐ってしまったんですか?」

「いや、庭師が処置してくれたおかげで大丈夫だったよ。ただしもう二度と切らないでくれと怒られてしまったよ」

「よかった。あ、いえ、子槻さんにとってはよくなかったかもしれませんが、桜にとってはよかったですね」

 さすがに春子の香水の犠牲になって桜が腐ってしまったら申し訳なかった。

 子槻は柔らかく慈しむように目を細める。

「桜には申し訳ないことをしてしまったが、わたしは桜より春子のほうが大事なのだ。あのときも、今も、これからも」

 不意打ちで、春子は数拍遅れて首筋に熱が上がってきた。顔をそらすが、こんなに間近では赤みが分かってしまうだろうし、手で隠すこともできない。

 子槻が小さく笑い声をもらす。

「少し力が抜けたかい」

 そういえば、最初より踊りの足運びが無意識にできるようになっている。慣れただけかもしれないが、少し心に余裕が生まれる。

 顔を戻すと子槻と目が合ってしまったが、無邪気な少年のように笑顔を向けられた。微笑んだ黒っぽい瞳が、橙色の炎の明かりを含んで、深く赤い色を見せる。

 こんなに近くで見たことがなかったから、気付かなかった。子槻の瞳は黒ではなくて赤だったのだ。

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