第22話 りんごジュウス
「夫人、こちらは今度うちの離れで香水の店をひらく櫻井春子さんです。春子、こちらは水谷男爵のご夫人、清美さまだ。天野商事のお得意様なのだよ」
「櫻井春子と申します。お会いできて光栄です」
春子はぎこちないながらも片足を引いて西洋式のお辞儀をした。子槻に「妻とは言わないでください。混乱をまねくので」とお願いしたので、玲よりあとの紹介は順調だった。
「まあ可愛らしい。香水のお店をなさるの? 珍しいわね」
「と、とんでもないことです。今日は見本をお持ちしていますので、よろしければ」
春子は子槻から香水瓶を受け取って、清美へさし出す。清美は瓶のふたを開けてかぐと、目を丸くして顔をほころばせた。
「桜の香りね。とてもすてき。ぜひつけてみたいわ。お店はいつから?」
「ええと、まだ正確な日取りは決まっていないのですが、近いうちには。決まりましたらご連絡さしあげます」
「楽しみにしているわね」
春子が弾む気持ちで「はい」と香水瓶を受け取ると、清美は微笑んだまま春子を見つめてきた。何か粗相があったのかと、春子は血の気が引く。
「な、何かございましたか?」
「ああ、ごめんなさい。仲睦まじいと思って、つい。子槻さんが婦人を連れているのは珍しいものだから」
どのあたりが睦まじかったのか分からないが、子槻が我が意を得たりとばかりに前へ出てくる。
「さすが夫人、そのとおりです。春子はわたしの妻」
「いいえ! お店を出すのにたくさんたくさんお世話になっていますので、感謝の情がにじみ出てしまったのかもしれません!」
子槻の油断も隙もない言葉をかき消すと、清美は驚いた様子もなく、ひらいた扇子で口元を隠して笑い声をもらす。
「ぶしつけだったわね。よく夫にも『君はぶしつけだな』と言われてしまうの。ごめんなさい」
りんとしているのに清美はどこかふわふわしている。ふたつ三つたわいない雑談をし、ふたりは清美と別れた。
「少し休憩しようか、春子」
春子が緊張から解放されて長い息を吐き出していると、子槻がのぞきこんできた。
「あ、いえ、まだ、もう少しなら」
「無理をするものではないよ。休憩しよう」
春子の意見を聞いたわりに子槻は問答無用だった。通りかかったボオイに何か言いつけて、壁際の椅子へ春子を座らせる。
ほどなくボオイが戻ってきて、グラスに入った飲み物をふたつ、子槻に渡して去っていった。子槻は片方を春子へ渡してくる。
「りんごジュウスだよ」
春子は礼を言って、ありがたく口に含んだ。とても甘い。喫茶店の品書きにはあるが、春子自身はあまり飲んだことがない。
緊張と、息苦しい洋装と、食べ物や人々の匂いが混ざり合って、じわじわと気持ちが悪かったのだ。無理にでも休ませてくれた子槻には感謝しなければならない。りんごジュウスの甘くさらさらした香りに心が落ち着く。
仰ぐと、子槻もグラスの中身を飲んでいた。透明で、色がついていなくて、細かい泡が立ち上っている。
「それは何ですか?」
「これかい? サイダアだよ。交換しようか」
ごく当たり前にグラスをさし出してくる子槻に、春子は「け、結構です」と思いきり首を振った。男の人と飲み物を交換するなど、考えられない。けれど清美に「仲睦まじい」と言われたことが蘇ってきてしまって、余計に頬が熱をもった。
りんごジュウスの甘さで心を静めようとしていると、子槻が広間の中央に視線を転じた。楽団の音楽の中で、洋装の男女が踊っている。ふたりで宣伝していたときも演奏はずっと続いていて、踊る人々も入れ代わり立ち代わり、途切れることがなかった。
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