第19話 洋装が初めて

 子槻はチョコレイトの瓶を春子に返して、ひとり納得するように頷いた。

「ではすぐに仕立屋を呼ぼう。春子は何でも似合いそうだが、やはりドレスは桜色だろうか?」

 聞き流せない言葉が降ってきて、春子は慌てて子槻をのぞきこんだ。

「ちょ、ちょっと待ってください。どれす、とはあの西洋式のひらひらした洋装のことですよね?」

「そのとおりだ」

「振袖ではだめなのですか? そもそも、まだ夜会に行くとは言っていないのですが」

「振袖では踊れないだろう。それにわたしは春子と共に夜会に行って香水を広めたい」

 まともなことを言われてしまい、春子の抗議はあえなく断ちきられる。

「で、でも洋装は……恥ずかしいですし、絶対に似合いません。着たことがないですし」

「洋装が初めてなのか! 春子の初めての洋装を見られるなんて、何と幸せなことなのだろう」

 予想外に感激されてしまい、春子は焦る。

「そういうことではなくて! 作法も踊りも分かりませんし」

「ああそうか。では急ぎ作法とダンスの先生も呼ばなくては」

(そうでなくて!)

 春子は思わず顔を伏せたくなった。子槻に悪意はないのだろう。だから余計にたちが悪いともいえる。

 言い返す気力を奪われた春子へ、子槻は光をまとったような幸せに包まれた笑みを向けてくる。

「大丈夫だ春子。作法やダンスなどどうとでもなる。わたしが何とかする。ただそばにいてくれるだけで、わたしは嬉しい」

 頬が瞬間的に熱をもつ。春子はとっさに子槻から顔をそらしていた。

「春子?」

「な、何でもありません」

 不思議そうにのぞきこんできた子槻に、春子は首を振る。深い意味はないのだろうが、異性からこんなにまっすぐな言葉をかけられる機会などなかったので、どぎまぎしてしまう。

 子槻はなおも「ああ、春子のドレス姿がとても楽しみだ。さぞかし似合うだろう」とか「そうだ、このチョコレイトの香水も持っていこう」とか笑顔をきらめかせていて、春子は押しきられる形で夜会への出席を余儀なくされたのだった。


 じゅうたんは茜色。仰げば、見事に切り出されたガラスが、ろうそくの橙色を虹の色に返すシャンデリア。そして黒の燕尾服の人、人、人。着物の婦人もいれば洋装の婦人も、異人の夫婦もいる。空間が広いので窮屈ではないが、場違いさときらびやかさと息苦しさで春子はすでに気が遠くなりそうだった。

「春子? 大丈夫かい」

 隣を見れば、子槻がいる。

 黒の燕尾服に白の蝶結びのネクタイ。白いチョッキに手袋。シルクハットとステッキは先ほど入口で預けていた。髪がきなこ色というのもあるかもしれないが、ふだん洋装しているので違和感なく似合っている。春子は付け焼き刃の西洋作法で、子槻の腕に手をかけていた。

 初めての洋装はこのりに着替えを手伝ってもらった。桜のような、ごく淡い色のドレスだ。それに子槻が用意してくれた真珠の首飾りと耳飾りをつけている。ダイヤモンドのほうが派手にきらめくからよいのでは、と子槻に首飾りを見せられたが、そのきらめきが不相応すぎて、せめてきらめかないものでと断った。

 ドレスは見た目は薄い布が揺れて軽やかなのだが、実際は正反対だ。バッスルという腰当てを背中側につけ、ドレスのお尻を大きくふくらませ、とにかくかさばって重くて着心地が悪い。とどめはコルセットという腰を締めつける器具で、このりに泣きついて緩めにしてもらったものの、苦しい。息苦しさは緊張もあるが、ほぼコルセットのせいだ。

「す、すみません。緊張してしまって」

「具合が悪くなったらすぐに言いなさい。わたしがいるのだから、たとえ失敗してしまっても大丈夫だ」

 いつもなら、「なぜそんなに自信満々なのだろう。大丈夫かな」と思ってしまいそうだが、今はそれがありがたかった。

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