第13話 いわばファンタジィ

「もうすぐ桜が咲きます。わたしが今一番作りたいものを作りました」

 あと数週間もすれば桜が咲き始めるだろう。子槻に探してもらったトンカビインズの精油は、まさしく桜餅の甘い香りがする。豆から溶剤で抽出される精油だが、桜の香りに成分が似ているのだという。

 春子も今日は桜の着物に桜の香水をつけていた。春子のつけていたものも、もちろんトンカビインズを使っていたが、そちらはバニラを加えて甘みを押し出した、桜餅に近いものだ。

 けれど今この場に香っている香水は、桜そのものを表現しようとした。

「最初は甘酸っぱい桜の花の香り、段々、桜餅のような甘い香りになっていきます」

 最初に香るトップノオトは柚子とプチグレンがトンカビインズと混ざった、ほのかに酸っぱい甘やかさ。ミドルノオトはバラ、ゼラニウム、スタアアニスがトンカビインズにかぶさって、甘くほんのりとがった桜の花の香り。ラストノオトはトンカビインズとほんのわずかに残るバラで、桜餅のような残り香だ。

 國彦は呆然と春子を見つめていた。

 香水を部屋に香らせよう、と提案してきたのは子槻だった。子槻は春子が時間いっぱいまで粘った香りをかいで、「これは、桜だ」と楽しそうに口元をほころばせた。

 圧倒的に時間が足りないなかでも、春子は人の肌に乗せる香水として桜の香水を作ったのだが、子槻は「正攻法では通らない」と言った。春子も同意見だった。方法は思いつかなくても、どんなに最高の香水を作ったところで、「認めない」と酷評されることが分かっていたからだ。

 そうして子槻はこのりに「なるべく時間をかけて両親を呼んでくるように」と伝え、庭の桜を自ら切りに行き、大急ぎで春子と共に部屋に飾ったのだ。

 仕上げに、今作ったばかりの桜の香水を吹きかけて。

「よい香りでしょう。それだけで充分です」

 子槻が満足げに微笑むと、國彦は正気付いたように鋭い目を向ける。

「本物の桜も香っているのだろう。いらぬ小細工をしおって」

「たしかに枝の香りくらいはしているかもしれませんが……香水をかいでみたらよろしいのではないでしょうか」

 子槻に目で合図されて、春子はももの上に乗せていたスプレイの小瓶を机へ置いた。國彦が瓶を取り、ふたを開けてかぐ。

「あ、直接かがれるのとつけるのでは香り方が違いますので、つけていただいても」

「香水は女のものだろう!」

「父上、それは凝り固まった思想というものです。舶来のものを扱う者として外国にも学ばねば。わたしも今日は香水をつけておりますし」

「お前は黙っていろ、話がややこしくなる!」

 声を荒らげられた衝撃も、子槻の機転をきかせたのか、ただのとぼけなのか分からない言葉で薄められる。

 國彦は香水の小瓶を苦々しげに押しやる。

「こんな引っかけのようなものを認めることはできん」

「そ、そうです! 桜の模造品など売れるわけがありません」

 ハナがここぞとばかりに加勢する。子槻は國彦とハナへ、それぞれ揺るぎない目を向けた。

「わたしは売れる香水を、などとは一言も言っておりません。家名と商事の信用をおとしめず、宣伝になる香水ならよいでしょうと言ったのです」

「また屁理屈を」

 吐き捨てた國彦に、子槻は含みなく、包みこむように微笑む。

「屁理屈と取られても構いません。もうそんなことは関係ないのです。お気付きではないですか? 実際の桜は、花が咲いたとしてもこんなに強く、美しく香らない。満開の花見はもちろん、切り花でさえまったく香りを感じることはないのです。ああ、桜餅を食べているときは別ですが」

 子槻は楽しそうに付け加える。

「この桜の香水は模造などではない。わたしたちの記憶の中にある、美しい桜を取り出したものなのです。幻想の香り、いわばファンタジィです」

 子槻は満ち足りたように、強く、微笑した。

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