5.
「……こっちへ来なさい」
仙吉の後について書斎に入った。
ここに来るのは久しぶりだった。
仙吉は棚から一冊のアルバムを取り出し、話し始めた。
「……今から十六年前。私は家内と兵庫県養父市の樽見を訪ねた。春だった。目的は大桜。エドヒガンの一本桜で、別名を仙桜と言った。私と同じ仙の字が使われていて何となく親近感があってな、わざわざ二人で見に行ったんだ」
まだアルバムは開かない。思い出話が続く。
「私達夫婦は子宝には恵まれなかった。恵まれないままに二人とも六十を過ぎた。家内はそのことに後悔があるようで、クヨクヨとしておった」
記憶を噛みしめるように仙吉が目を伏せる。
「私は桜の木に祈った。滑稽かもしれんが、私は家内が不憫だった。自分達に子供が授かるような奇跡が起こればと。家内を見ながら、ふとそんなことを思ったんだ」
仙吉は言いながらアルバムの表紙を撫でた。天井を見上げる。
「その時、一陣の風が吹いた。そして、桜の花びらが舞い踊った。それが収まると――木の根元に赤子がおった。それが……お前だ」
そこまで言うと、仙吉は茶を入れる言い残し、台所へ向かった。
一人残された涙人は祖父の語りを反芻する。
涙人の脳裏にも桜色の花びらが舞う。
おぼろげな記憶が呼び起こされてゆく。
しばらくして戻ってきた仙吉は古い記憶を語り続ける。
「すぐにでも家に連れ帰りたかったが法律には逆らえん。福祉事務所に相談して、一旦施設に預けた後で私たち夫妻が養子という形で引き取ることになった。本当は父と母を名乗りたかったが、年齢的に難しいと思って祖父母ということにした。誓って言うが、私はお前を欺したかったわけではない。過ごしやすい環境を創りたい一心だった」
仙吉の言い分はもっともなことだった。何もかも自分のためになされたことだということは十分に理解できた。
「あの日……桜の木の根元でお前を拾い上げたとき、私はお前を涙人と名付けた。目の下の痣もそうだが、人の涙を理解する子になってほしいという願いを込めたつもりだ。そして、お前は名前の通りの優しい子に育ってくれた。どうもありがとう」
仙吉は涙人に頭を下げた。
「ただ……私はお前を人間じゃないと思ったことはない。優しく、涙もろく、決して他人を傷つける事のないお前は私の誇りだ。だからお前が人とどんなに違っていようと、お前はずっと私達の孫で息子で、大切な宝物だ。それだけはわかってほしい」
そう言って仙吉は手にしたアルバムを開く。
涙人に開いたページを見せる。
若い日の二人が嬉しそうに赤ん坊を抱いている。その後ろには満開の大桜。
それを見て、涙人の感情は決壊する。
涙人の頬を伝って流れたものがアルバムに落ちて跳ねる。
ずっと、怖かった。
向き合うことから、逃げてきた。
けれど真実は、とても暖かかった。
自分が強く望まれてここにいることを、たくさんたくさん愛されてきたことを思い知る。
人生でこれ以上の幸せがあるだろうか。
なおも流れ落ちるものを袖で拭う。
「……話してくれて……嬉しいです」
そこまで言うのがやっとだった。
言葉に出来ない感謝の気持ちを涙に変えて、涙人はアルバムを濡らし続けた。
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