第23話:黒猫①

 店長代理を引き受けた時、瑞穂は速野たちと幾つかの約束事を決めた。

 そのうちのひとつに、出張買取の一時中断がある。

 瑞穂は大丈夫と言ったが、速野は頑なに首を縦に振らなかった。よっぽど瑞穂に運転させたくないらしい。

 

 が、件の客はそんなこと聞いてもくれなかった。

 

「だーかーらァー、私は明日にも取りに来て欲しいって言ってるのォ。一時中断とか、そんなのそっちの都合でしょゥー。そんなの知ったこっちゃないわよォ」


 どれだけ無理だと話しても相手はまるで聞く耳持たない。

 しまいには河西さんのところには来たくせに、なんでうちには来ないのよっと怒り出す始末だ。

 

 河西……その名前に瑞穂は聞き覚えがあった。

 初めて速野と一緒に出張買取に行ったあのお屋敷のお婆さんが、確かそんな名前だったはずだ。

 

 あの上品そうなお婆さんと、この電話先のわがまま言いたい放題な酔っ払いが知り合いとは到底思えない。

 しかし、その名前を出された以上、何かしらの関わり合いがあるのは間違いないだろう。ここで揉めた結果、あのお婆さんにまで余計な火の粉が降りかかっては大変だ。

 

「……分かりました。明日の午前中に伺います。ご住所とお電話番号を教えていただけますか」


 仕方なく瑞穂は出張買取を受けることにした。

 電話先でそれまで怒り狂っていた相手が「そうォ? 悪いわねェ」なんてコロっと態度を変えたが、瑞穂にホッとする余裕なんてない。

 むしろ約束を破ってしまうことへの罪悪感に、瑞穂は口元をぎゅっと噛み締めた。

 

 

 

「危ないっ!」


 翌日。瑞穂は店の駐車場に停めてあるワゴン車のエンジンをかけ、出張買取に出かけようとした。

 が、駐車場から車道へ出ようとしたまさにその時、目の前を真っ黒な何かが横切って、慌ててブレーキを踏んだ。

 

 いきなりのことにドキドキしながら、横切った真っ黒い何かを目で追うと、どうやら黒猫だったらしい。

 あっという間に塀を乗り越えてどこかへ行ってしまったから首輪を付けていたかどうかは分からないが、どちらにしろなんとも幸先の悪いことだ。

 これは相当注意して運転しろという神様のお導きと受け止め、瑞穂はより慎重になって車を再発進させた。

 

 昨日の電話で約束したのは午前10時。

 それに対してかなり余裕を持たせて出発した瑞穂だったが、実際に到着したのはかなり時間ギリギリだった。少し運転が慎重すぎたかもしれない。


 だが、遅刻しそうになったことよりも、苦手なバック駐車よりもさらに酷く、今、瑞穂は顔を強張らせていた。

 

「この部屋にある物全部、買い取って頂戴ィ」


 依頼主は昨夜の深酒が残っているのか、あるいはまだ昼にもなっていないのに早くも一杯やっていたのか、酒臭い息を吐きかけて瑞穂にそう依頼してくる。

 年は40歳ぐらいだろうか。若い頃は相当な美人だっただろうが、今は髪もすっかり艶を無くし、ネグリジェ姿から覗く肌は実年齢のさらに先を行っている。

 

 ただ、依頼主がどんな状態か、どんな格好をしているかなんてどうでもいい。大切なのは買い取る商品がどのようなもので、どのような状態であるか、だ。

 それは瑞穂も重々承知している。だからこそ、その部屋の様子を見せられて表情が引き攣っているのだ。

 

「あ、あの、すみません。この状態では買取できるようなものは……」

「ワンピも全部あるはずよゥ。私、ワンピ大好きなのォ」


 瑞穂の言葉を遮るように、女性は機嫌良くのたまう。

 しかし全部あるはずと言われても……。

 

「ワンピ、面白いよねェ。国民的人気作だし、さぞかしお高く買い取ってくれるんでしょうォ?」


 一冊100円? ううん、あれだけ人気があればその倍でもおかしくはないわねェと女性はニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべた。

 

「あ、いえ、すみません。ワンピは80巻ぐらいまでは一冊十円ぐらいになります」

「はぁ!? なんで!? なんでよぉ!? あんなに人気があるのにィ!」

「それはその、人気がありすぎて買取にもいっぱいやってくるんです……だからどうしてもそのようなお値段に。それにですね、大変申し上げにくいのですが」


 瑞穂は相手が途端に不機嫌になるのを感じながらも、意を決してその言葉を口にした。

 

「この部屋の状態では、買い取れるものは何もないと思います」


 女性が玄関の扉を開けた時、いや、昨日の電話の時点から感じていた

 その源がまさに通された部屋だった。

 女性の寝室らしきその部屋は酒と体臭と何か腐ったような臭いが入り混じって、呼吸するのもおぞましい悪臭で満たされており、床には足の踏み場もないほどに本や雑誌や空き缶やビニール袋やその他さまざまなゴミがやまのように積み上げられていた。

 

 ワンピの全巻は確かにあるかもしれない。

 が、それでもこの部屋の臭いと、ゴミと一緒になって床へ散らばっている状態では、とてもじゃないが売りものにはならない。

 

 瑞穂の見立てはまったくもって完璧に正しかった。

 

「はぁぁぁぁぁぁ!? ふざけんじゃないわよ、小娘ェェェェェ!!」 

 

 しかし、時としてそれがどれだけ正しくても、納得しない相手はいる。

 

「ちゃんと見てもいないのにどうしてそんなことが言えるのよ、アンタ!」

「す、すみません。でも、この部屋全体に漂っている臭い、これを本は吸収してしまって臭いが移ってしまうんです」

「臭いくらいなによッ! そんなの、あんたのところで買った奴でも以前に臭いのキツイのがあったわよッ!」

「そ、それは申し訳ありません……だけど、その、臭いに加えてこの状態だときっとシミも酷くて……」


 瑞穂は試しに一冊を手に取って、一番後ろのページを開いてみせた。


「ほら、やっぱり……」


 発行日が記されたページの至るところに、カビかなにかのシミが広がっていた。

 

「それもあんたところで買った時からそうなってたわッ!」

「それはさすがにないと思います。私たちもそこはしっかり確認してから売りに出しますので」

「なによ、あんた! 私がウソを言ってるとでも!?」

「そ、そういうつもりじゃありませんが、でも、後ろにうちの値札も貼っていませんし……」

「それは買った時に外したのよ!」


 部屋をこんな状態にして、さらには本を床にちらかすような人が、わざわざそんなことをするとは思えない。

 これまた瑞穂の見立ては正しい。

 

 が、先ほどと違ってそれは決して口に出してはいけない言葉だった。

 

「あんた、人がせっかく売ってやろうってのに断るばかりか、私をウソつき呼ばわりするとはいい根性してるじゃないのッ!」


 買取出来ない理由を説明して納得させるつもりが、逆に激昂させてしまった。

 

「いえ、決してそんなつもりは」

「だったらちゃんと買取なさいよッ! あんたたちはこういうゴミを買い取るのが仕事でしょうがッ!」

「ゴミは買い取れないです」

「あ、ゴミって言った! あんた、やっぱり、私のお宝をゴミだと思ってたのねッ!」

「そんな……それはお客様がゴミを買い取るのが私たちの仕事だからと言ったからで」

「あー、分かったわ。あんた、なんだかんだと難癖付けて買取値段を下げようと言う魂胆でしョ? 馬鹿にするんじゃないわよ、小娘。私は騙されないんだからねッ!」


 値段を下げるつもりも何も最初から買い取れないと言っているのに。もはやどう答えても話がややこしくなるばかりだ。


 どうしたらいいんだろうと、半ばパニックになりながら懸命に考えようとする瑞穂。

 と、そこへ。

 

「なんだよ、さっきからうるせぇなぁ」


 のそぉと顔を覗かせて男が入ってきた。

 女性と比べたら若く、年齢は20代半ば。まるで力士やレスラーのような巨体で、無精ひげを生やし、ただでさえいかつい顔を、さらにいかにも騒動にイラついていると歪ましていた。

 

「おおっ! 聞いてよゥ、この小娘が私の大切な漫画をゴミだって言うんだよゥ」

「だってゴミじゃねぇーかよ、クソババア」

「ゴミじゃないわよっッ、このクソ息子ッ!」


 どうやら女性の息子らしい。その割には年齢差があまりないなと思いつつも、瑞穂は自分をほったらかしにして口喧嘩を始めるふたりに、少し落ち着く時間が貰えたとほっとした。

 今のうちにどうするべきか考えないと……。

 

「あ、ちょっとそこのあんた」

「うわ、早い! お願いだからもうちょっと考える時間をください」

「時間? えっと何言ってんのか分かんねぇけど、あんた、古本屋の人なんだろ?」

「うう、そうです……」

「うちのおふくろがワガママ言って困らせちまったな。悪い」


 また無理難題を言われるかと思いきや、意外にも頭を下げてきたので瑞穂は呆気に取られた。

 

「こんなゴミ部屋の中にある奴なんか売り物になんかなるわけねぇもんな」

「えっと、その……」

「いいんだいいんだ、実際ゴミ部屋だから。たださ、このままだとおふくろも怒りが収まらないだろうから、せめてここにある本をお店に持って行ってもらってもらえねぇか? 中には何冊か買取できるものもあるかもしれねぇし」


 出張買取のみならず、お店への持ち込みの場合でもあるのだが、お客さんの中には売ることよりも処分を目的にリサイクルショップを利用する人が少なからずいる。

 つまりこれはお金にはならないけれど邪魔だから処分して欲しい、というわけだ。

 

 イエローブック森泉店の場合、お店へ持って来られた場合はその量にもよるが基本的には処分を引き受けている。

 本来ならばお店にとっては一文の得にもならない。それどころか持ち込まれた売り物にならないものを、定期的に古紙回収業者がやってくるまで保管する倉庫まで運ばなくちゃいけないから、それなりの量があるとそれこそ無駄な労働となってしまう。

 

 そして出張買取の場合、これはさすがに引き受けることは出来ない。

 何故ならそんなことをしていたら、引っ越しの度にゴミの回収へ呼び出されるのがオチだからだ。

 

 だから本来なら今回も息子さんの申し出には断るべきだった。

 が、

 

「……分かりました」


 ここまで話が拗れてしまっては、厄介ごとの落としどころとして受け入れざるをえない。


 瑞穂はあくまで今回限り特別で、また他言しないようにと念を押すと、男はにっこり笑って「わりぃな」と感謝の言葉を口にした。 

 それどころか部屋に散らばる本を瑞穂と一緒にダンボールへ詰め、さらには十箱以上も出来た回収品を駐車場のワゴン車に運ぶのまで手伝ってくれた。

 見てくれは怖そうだったが、意外といい人なのかもしれない。

 

 にこやかに手を振る男に見送られて、瑞穂はワゴン車を慎重に発進させる。 

 最初はサイドミラーに映るその姿を視界に捉えていたが、すぐ運転に集中して男の存在を忘れた。

 

 だから瑞穂は気付かなかった。

 にこやかに手を振る男の表情が徐々に厭らしい笑いへと歪んでいくことに――。

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