4-X2
それはいずれ訪れる未来だったのだろう。
夏の終わりが近いある日、ランディは慌てふためく親方からの一声を冷静に受け止めた。
「ぼ、ボン! 奥方様が倒れたと早馬が!」
焦燥が無かったわけではない、心のざわめきを抑えきれたわけでもない。
ただ以前の出来事から将来も起こり得ることだと学習した結果に過ぎない。
「分かりました、すぐ家に戻ります。後のことは」
「ああ、クンダリニが先導してくれるとよ。お前ひとり抜けたところでどうってこたぁねえよ」
「ありがとうございます」
親方の傍らに控えていた若い男クンダリニは黙って頷き、用意した馬の元に案内する。
かくしてランドーラは取るものも取らず、告げるべきも告げずにチュートル領を飛び出したのだ。馬を駆れば半日の半分にも満たない距離を若干拙い手綱捌きで走破した。
先を行く案内役、クンダリニに比べて危なっかしい操馬術も彼の年齢を考えれば充分だと言えたが、彼の身近にもっと巧みな令嬢のいることを知るが故に、
(お嬢の言う通り、まだまだ僕の方が下手だな)
文字通りモノレフトの町に駆け込んだ2騎は迷わずランドーラの自宅に到達する。
少々古めかしい家々の立ち並ぶ、ごく普通の住宅地。
馬の置き場などない、ランドーラはクンダリニに馬の世話を頼んで先に踏み入った。
「おや、ボン。思ったより早くお戻りで」
彼の帰宅を出迎えたのは年を重ねた大柄の女性。
ランドーラの母に付き従い、世話をしていた彼女の名はルジャーナ、シヴァトリア親方の連れ合いである。
「女将さん、母の具合は」
「ああ、今は落ち着いてぐっすりさ」
彼女の一言に安堵する。
親方もその奥さんも、彼ら母子に実に良くしてくれる。特に母に対する献身ぶりを他者が評すれば臣従と呼びかねない程に。
「いつもありがとう、女将さん」
「いや、なんてこたないよ。ウチの男衆が奥方様に受けた恩に比べれば」
「随分昔の話って聞いてますけど」
「何言ってんだい、過去が無きゃ今は無いってもんさ」
彼らの温情に甘えすぎかと思うランドーラの遠慮など笑い飛ばしたルジャーナだが、彼女の豪胆さでも笑顔で押し通せないこともある。
意気消沈、彼女が恩ある女性の子供に語りかける口調には先程までの力がなく、
「ただね、医者が言うには、もう一度同じような発作が起これば、その……」
「次はないと言われたんですね」
「ぼ、ボン、滅多なことを」
「いえ、僕はお医者様の見立てを信じますよ。母はもとからそれほど丈夫じゃなかったですから」
医者の話では心の臓に大きな病を抱えていたようだった。投薬では先延ばしにしかならない、本格的な治療には上級魔術の治癒を定期的に行う必要があるのだと。
母は大袈裟だと笑って誤魔化していたが、どちらが真実かを見定める必要もない。
「ぼ、ボン、だとすれば奥方様は」
「大丈夫です、女将さん。僕に妙案がありますから」
ある意味当事者達よりも心配げな顔をするルジャーナに、病人の息子は笑いかけてみせた。
秘策があるのは本当である、ただし病人の同意は得られないだろう切り札。
「ええ、母の実家を頼ろうかと」
「……はえ?」
「母の意識が無い今がチャンスです。幸いモノレフトにはリンドゥーナの領事館がありますから、そこに駆け込んで母の事情を話せばどうにかなるでしょう」
領事館と大使館、共に国交有る外国勢力の拠点であるが、両者の一番大きな差は設置された場所にある。
大使館は王都に置かれ、領事館は地方都市に置かれる。基本的にそれだけの差であり、配属された人材の高貴さにも高低差はあれど機能的にはほぼ変わらない。
他国の窓口、避難所、駆け込み寺。いずれの用途でも利用が可能な役所である。
「ぼ、ボン! そんなことをすれば」
「これが最善です。母は反対するでしょうけど」
実家に頼る。
それはこの親子の事情を知る者には有り得ない選択だった。庭師の夫婦は母子が市井で暮らす協力をしたからこそ、彼らを取り巻くそれなりの事情を含んでいたからだ。
お家騒動というものは、いつでも親子血縁の関係を壊しかねない面倒な代物である。
「大丈夫、昔と違って今なら家の中にちゃんと後継者が出来てる。そこに僕が現れても今更生まれた順番だけで祀り上げられたりしないはずです」
「そ、それはそうかもですが……」
「その上で条件をつけます。『母をちゃんと治してくれたら継承権は放棄する』とね。これでみんな幸せになれるでしょう」
「ぼ、ボン、本気ですか」
「……いや、多少は欲を見せた方が信用されるかな。『権利は放棄するけど教養くらいは身に付けさせろ』、これでどうだろう」
ルジャーナは不思議だった。
ランドーラの決意は今まで母子が暮らしていた平穏を揺るがすものであるはずなのに、どうしてか彼からは未知への怖れを感じない。
いや、怖れを覚えながらもそれを乗り越えようとする覚悟を備えていたのか。ルジャーナには分からない。
いつ、どこでそれを。
「僕は『母親大好きッ子』らしいから、期待には答えないとお嬢に失望されてしまう」
「……は?」
「それに打てる手があるのに何もしないのは、それこそ顔向けできなくなりそうだから」
疑問に対する回答は、残念ながらルジャーナには伝わらなかった。
──或いは、
ランドーラが今ここで選択した最善は他人からの評価に根差していた。あのように評されたからこそ彼は決断し、大事な物を守ることを選べたのだとは、流石に神のみぞ読み取れる回答であろう。
不思議がるルジャーナにそれ以上の説明はせず、ランドーラはただ薄く微笑んだ。
理由は分からない、けれど彼女には彼の笑みが感謝にも慕情にも見えたのだった。
******
母親の不測に際し、ランドーラの下した決断のレスポンスは予想以上に早かった。
仕事を部下に引き継ぎ、シヴァトリア親方が彼らの元に駆けつけた時にはほとんどの手続きが終わっていたのだ。
ランドーラの強い要求もあって彼の母親は手厚く保護され、そのまま本国に移送。
遅れてランドーラ本人も様々な確認の後で母の実家に連れられる予定だ。
「幸か不幸か、昨年から領事館に母の弟さんが勤めてたんですよ。それでこんなスピード解決になったのは僕も驚きましたけど」
出発前にかろうじて間に合った親方は徒弟の迷いない笑顔に複雑な心境を覚えた。
元より恩人の息子、手塩にかけて大切に育てていた。不遜ながら孫のようにも思っていた所があった。それだけに突然の事態には驚いたし、この結果がランドーラ本人の決断がもたらしたと知ってさらに驚愕を重ねた。
彼の母親、大恩ある奥方様はお家から逃れて隣国に辿り着いたというのに、何故。
「僕は『母親大好きッ子』らしいから、期待には答えないと」
「……あのお嬢さんの影響ですかい」
親方はそれ以上の追及は避けた。
幾つになろうと、所変わろうとも、男を変えるのはいつだって女なのだ。孫同然の少年が既にそんな年になっていたのかと感慨深くもあり、やるせなくもあった。
自分の手の届かないところで庇護対象は成長してしまうのだな、と。
「庭師の仕事は遣り甲斐があったし、楽しかった。でもこの仕事のせいで僕は少し欲深くなったんです」
「あん?」
「出会って、学んで……ひょっとすると夢に手が届くのかもしれない、そう思ったらこれで良かったんじゃないかと」
実に遠まわしな表現が続いた。
彼と短くない付き合いの親方には、その言い回しがまだまだ胸中で育て中の絵空事、実現の道筋が見えない夢でしかないことを察することが出来た。
しかし口に出すことで、他人に語ることで決意を固められることもある──とは誰の言葉だっただろうか。
「ふん、そりゃせいぜいでっかい夢なんだろうな」
「大それた夢です。何しろ欲張りの夢、いや、大望は──『婿養子』ですから」
こうしてランドーラという少年は王国から姿を消すこととなり。
どこかの庭で仕事をしている見習いとの再会を期待したアルリーの思惑は夢と消えたことを彼女は知る由も無かった。
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次回より新章となります。
次回更新は11月を目途にしております。
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