第31話 ある昼、死中に活を求める②
アルセニオの思惑とか、トーヤの陰謀とか、いろいろ知ったらどれほど悲しい顔をするんだろう。でもここで私が死んだほうがあのひとは悲しんでしまうだろうから、私は彼を呼ばなくちゃ。
しかし意を決してヴェンディの名を呼ぼうとしたとき、目の前の短剣の切っ先がすいっと下がった。
かちゃり、と首元で固い音がする。
まずい、と思ったときには遅かった。短剣の切っ先が首に沿ったかと思うと、強い力がかかりネックレスのチェーンが引きちぎられたのだ。
「いいもん持ってるなぁ。これが城内で見つかればヴェンディ怒るだろうな」
切れたチェーンをゆったりと持ち上げ、緑色の宝石を眺めながらトーヤは舌なめずりをした。薄明りの中でも輝きを失わない宝石は、ヴェンディの術がかかった代物だ。でもあれって私が身につけてないと発動しないはず。まさかの事態に血の気かざっと引いていくのが分かった。
「か、返して!」
手を伸ばそうとしても拘束されているのだ。動けない。でも勢いに任せて前のめりになれば、私の体はすぐにバランス崩して荷台の上に倒れ込んだ。へえ、と頭上で声がしたかと思うと、後頭部に衝撃が走って目の前にちかちかと星が飛ぶ。
「さあ言えよ。ヴェンディの弱点」
がつがつと繰り返し後頭部に衝撃が走る。つま先で蹴られていると気が付いても身動きができずどうすることも叶わない。痛みに視界が涙で歪んだ。
「いっ……言うわけない……でしょ……。それ、返して……!」
「よっぽど大事なわけね。これも、あの優男も。……じゃあもういいや」
呆れたような男の声とともに髪を鷲掴みにされ、引き起こされた。頭頂部に走るさっきとは違う痛みに、今度こそ悶絶する。悲鳴を上げなかった自分は、偉いんだか、偉く無いんだか分からない。ただひたすら奥歯を噛み締めた。
「もっかい聞くぜ? ヴェンディの弱点、なに?」
「……いう、わけ、ないだろ……!」
「あ、そ。弱点言わないんなら用済み。おーい、もういいよ、食って」
くそ。
涙で歪む視界に、遠くのケットシーが揺らいで映った。ニンゲンを食っていいと言われ、スキップでもしていそうにひょこひょこ近づいてくるのが分かる。
食われてたまるか。抵抗してやる。
でも手足の自由も利かない。
くそ。
「ぜ……ったい負けない……んだから……! 誰か……!」
虚勢を張ったつもりでも声は情けなくも掠れている。にんまり笑ったケットシーの顔が目の前に迫った。細い髭が動きに合わせて揺れ、人間のものとは違うけれど柔らかそうな唇の隙間から、真っ白い牙が顔を出す。髪ごと頭を持ち上げられているので、さらけ出された首に生温かい吐息が吹きかかった。
怖い。
けど目を閉じたら一気に食いつかれそうで、歯を食いしばりながらケットシーの真っ黒い瞳孔を睨みつけ続ける。猫の目に、嗜虐性を孕んだ輝きが増した。
その時だった。
耳をつんざくような爆発音が響き渡った――。
まるで近くに雷が落ちたかのような音で、何が起こったのか瞬時に理解することはできなかった。ただ眼前に迫ったケットシーの顔の向こうが不意に明るくなったかと思うと、そこらに積まれていたはずの樽や木箱が残らず吹っ飛んだのだ。
爆風の勢いは荷車上で無防備だった私たちにも容赦なく襲い掛かる。荷台の車体がひっくり返り私の体は床に放り出された。
がらがらと建物の壁と梁が崩れ落ち、ほこりが混じった煙が立ち上る。その煙に外の光が幾筋も差し込んだ。そしてその中から残骸をかき分けるように黒い影が飛び出してくる。
「……!」
「ナ、ナナ……カ!」
「……さ……!」
爆発時のすさまじい轟音に耳が馬鹿になっているのか明確な音は拾えないが、何か大声で叫びながら駆け寄ってくる侍女の姿を見て全身から力が抜けた。
ナナカはいつもののんびりした表情ではなく鬼のような形相で走ってくると、私の傍らで耳を押さえうずくまっているケットシーを蹴り飛ばした。人間より耳がいいケットシーには、さっきの爆音でかなり大きなダメージがあったようだ。
「リナ様! リナ様! ご無事ですか!」
ケットシーを転がしたナナカはすぐさま私を抱き起してくれた。涙目になりながら私の名前を呼び、乱暴な手つきで体を縛り上げている縄を解いている。ああ、助かった、と胸をなでおろすと背後で男の悲鳴が上がった。
「な、なんだっ……!」
振り返れば、膝をついたトーヤが真っ青な顔で剣を突き付けられていた。炎の様に紅い剣だった。鋭い切っ先はまさに彼の喉笛に狙いを定め、トーヤの動きを封じている。その剣を手にしていたのは、黒いローブを纏ったクローディアだった。
「お、お前……なんで……! 仲悪かったんじゃ……!」
「……見くびってもらっては困るわ」
氷点下にまで下がった声音にトーヤは震え上がった。こちらからは見えないけれどきっと今のクローディアの目は、あの底が見えないほどに燃え滾った魔女の目に違いない。あれは怖い。彼女の人となりを知っているからまだいいけれど、初見であれを喰らってしまっては一介のニンゲン如き恐怖で固まってしまうだろう。
日頃はどんな風であっても、さすがはスラフ伯爵家騎士団の姫騎士。月夜の黒真珠の名は伊達じゃない。
形勢逆転である。
ニンゲンなど虫けらのように簡単に殺してしまえる高位の魔族の気に当てられて、トーヤは小刻みに震え始めた。すかさずナナカが今まで私を縛り上げていた縄で彼の体をぐるぐると巻いていく。
既に気を失っているケットシーの手足も縛って、ナナカがふうっと細いため息を吐いた。
それが終わりの合図となったんだろう。クローディアは剣を収め、おまけとばかりにトーヤの腹を蹴り上げた。
「こんな小物に捕まるなんて、不注意がすぎるんじゃなくて?」
愚か者とでも言いたげなクローディアにぐうの音も出ない。私は素直に頭を下げた。
「助けて頂いてありがとうございます……でも、あの、クローディア様がどうしてここに?」
「ポンコツが簀巻きにされて攫われたと聞いたので、間抜け顔を拝みにきてやっただけですわ」
「なんでそんなことが分かったんですか……」
「リナ様、この子のおかげですよ」
門で取っ捕まった時には近くに誰もいなかったはずなのに、と首を傾げているとナナカが「ほら」と自分の背後に声をかけた。スカートの影に誰かいるのか、細い脚がちらりと見える。小枝の様に細く、短い被毛がちりちりとしている脚だ。
あ、と思い当たった。
「昨日の、スリの子!」
「リナ様、その覚え方は……」
「だって!」
おずおずとナナカのスカートの後ろから顔を出したのは、商店街の裏で私の財布やらをスったコボルトの子どもだったのだ。
「でもどうして君が?」
「……助けてくれたのに、鞄から大事そうなもん、盗っちゃったから……父ちゃんが、謝ってこいって……」
「大事そうなもんって」
「これ」
そういって子コボルトが差し出したのは、ハンカチと銀細工のヘアピンだった。
「おかねは、ごめんなさい。ほかの大人に盗られた。このハンカチと髪飾りは強い護りの呪文がついてたから返そうと思って」
「護りの呪文……」
なるほど、ヴェンディの仕業だろう。こっそりと術を仕込んでいることに今更驚きもないけれど、あとでどういうことか聞いておこう。
それにしても意外と義理堅いのか。私は浮浪民たちの姿を思い浮かべた。余所者に排他的な感じだったけれど、律儀なところがあるのかもしれない。
「城のお客って聞いて、門の近くに隠れてたら、あのおばさんが荷車引いてきて……」
「それでリナさまがいらっしゃらないことに気が付いて探していた私に声をかけてくれたんです。鼻が利く子で助かりました」
「ヴェンディ様には?」
「お伝えしていません。城主様が聞きつけたら泣きわめいて大騒ぎになるかと思いますので、クローディア様にのみこっそりとお知らせしてご同行願いました」
「ヴェン様が知ったらとんでもないことになりますわ。うちの領地内ならともかく、隣国の城下をまるごと吹き飛ばしかねませんもの。危なっかしくてたまりませんわ」
ひっ、と子コボルトの喉が鳴る。身を竦めたその子は慌てたようにごめんなさいと手に持ったものを差し出してきた。ありがとうと言って受け取ると、子コボルトははにかんだように肩を竦める。
「それらを肌身離さず持っていれば、連れ去られるようなミスはなかったでしょうに。ほんっとポンコツですわね」
道端の塵くずを見るような眼で見降ろされれば反論のしようもなく私はうなだれた。
「……返す言葉もございません」
「まあ、良い手土産ができました。この仕打ち、アルセニオ様の手抜かりとして付きつければあちらの負い目となるでしょうし、しばらく大人しくさせることができるでしょう」
「あ、そのことなんですけど。こいつ、それ以上にやばいこと企んでましたよ。それを含めて、忠告としてお伝えすると恩も着せられて宜しいかと」
「……転んでもただでは起きないとは抜け目がない女ですこと。あと、これを」
目を細めて憎まれ口を叩くクローディアが手に持っていたのはあのネックレスだ。トーヤと一緒に吹っ飛ばされたのに、緑の宝石には傷一つ付いておらず透き通った輝きを放っていた。
よかった。壊れてない。
私がそれを受け取ると、ナナカが後ろに回って首に付けてくれる。決して重量があるわけでもないネックレスだけれど、定位置に収まったそれは慣れた重みを伝えてくれた。
「よかった……ヴェンディ様……」
――あ。
思わず零してしまった名前に私も、ナナカも、そしてクローディアも固まった。でももう取り消せない。何のために黙って二人がここまで助けに来てくれたのか。
三人の引きつった目線が交差する。子コボルトはきょとんと首を傾げた。
室内に黒い影が覆いかぶさり、ばさっと羽ばたく音が下りてくる。
「やあ、どうしたんだいリナ。こんな昼間から」
見上げたそこには、満面の笑みで私を抱きしめようと腕を伸ばす魔王がいた。
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