第25話 ある夜半、回心して転意する①

 部屋にとり残されたヴェンディはああ、と情けない声を出しながら扉へと手を伸ばした。しかし無常にもそれは空を切り、木製の扉はぱたりと閉まってしまう。あーとか、うーとか、ため息のような声を漏らした彼は、扉を向いたまま立ち尽くしてしまった。

 対する私はといえば、蹴られた脛の痛みも落ち着き始めていたとはいえまだじんじんするし、去り際のクローディアの一言が気になってもやもやするしで、主に椅子を勧めることもできなかった。

 どのくらい二人でもだもだしてたんだろう。

 結局、しびれを切らしたのか先に口を開いたのは魔王の方だった。


「あぁ、えっと、リナ……さん、いや、さま」

「……は?」


 思わぬ敬称呼びに、こちらも忖度無しに声が出る。王様という身分からか、今まで一度だって、私以外の人にも「さん」付けはおろか「さま」なんて言ったことないじゃないか。


「ええっと、ヴェンディさま? どこかお具合でも? アタマ打ったとか?」


 訝しみ過ぎて無礼が過ぎるが仕方ない。何か悪いものでも食ったのかと心配になって聞いて見るが、さすがにそれは無かったらしく魔王は弱々しく首を振って見せた。


「大丈夫、いたって健康で、どこも具合は悪くないよ」

「……そう、ですか」

「強いて言えば、その」

「強いて言えば?」

「昨夜の件を、ね。謝りたいと思ったんだ……」


 伏せた目の奥で瞳がわずかに揺れている。頬に落ちた長いまつげの影が憂いの表情をより強調して、見る人が見れば妖艶とでも形容するんじゃないだろうか。

 いつもであれば背中の高い位置に折りたたまれている黒い翼も心なしかへしょげて垂れ下がっているように見える。実はこの翼が、ヴェンディの気分を端的に表していると知ったのはいつだっただろう。

 光沢のあるシャツに包まれた薄い肩も落ち、胸の前で両手の指を所在なさげに組んでは解き、解いては組み直すという落ち着きのなさ。まるで叱られ待ちの子犬である。


「つまらないことで君の気持ちも配慮せず、一人きりにしてすまなかった、と……」


 ちらっと上目遣いにこちらを伺うその姿に、私はこらえきれずに噴き出した。そういえばネックレスをプレゼントしてくれた時に私が思い余って突き飛ばしてしまったことがあるが、テラスで落ち込んでいた時もこんな情けない顔をしていたっけ。

 なんとも威厳がない。我らが魔王のこんな姿はよそ様には見せられないが、これがヴェンディというひとなのだから仕方ない。自分の気持ちにとても正直な反面、相手の気持ちにも敏感で顔色と伺うのが習い性になっているひとだということを忘れてしまっていた。

 顔色を伺うからこそ相手に悪いことをしたと思ったらすぐ謝る、そんな魔王らしからぬところも彼のもともとの優しい性質のなせることなんだろう。あと、何度叱られても案外めげないところとかも。

 そんなひとに愛してもらいながら、過去の自分についてなんとなく話したくないと避けていた自分は不誠実だと思った。今回の件、悪いのは明らかに私だ。


「り、リナ?」


 一人笑い続ける私に、ヴェンディは戸惑いの表情を浮かべたまま立ち尽くしていた。そのお人好しすぎるところも彼らしい。本当ならもっと怒っててもいいくらいなのに。

 ひとしきり笑った後、目尻に滲んだ涙を指で拭いながら私は主の謝罪を受け入れる旨を伝えた。その瞬間心底ほっとした表情に切り替わった魔王に、今度は私が深く頭を下げた。


「昨夜の件、謝らなければならないのは私の方です。不安にさせてしまって、ごめんなさい」

「い、いや私の方が良く無かったよ。君の事になるとすぐに見境なくなるのは自覚しているのに。君を傷つけたと気が付いて、昨夜も本当はすぐに戻って謝りたかったんだ」


 でも、とヴェンディが口ごもる。


「連絡もなく急にクローディアがやってきて、部屋に居座ったりアルセニオとの会談についてきたりで君の所に行かせてもらえなかったんだ……。今もクローディアが居ない隙に、と思って来たらここに居たので心臓が止まるかと思ったよ……」

「クローディア様、強引ですからねぇ」

「ああ! リナ、勘違いしないで。ずっと居座られていたけれど、昨夜だって同じベッドでは寝ていないよ? 急ぎ足で長旅をしてきた彼女にベッドを譲って、私はソファで寝たんだ。君の香りを消したくなくて彼女に香を控えるように言ったし、今朝の着替えだって……」


 両手をばたばたと動かしながら慌てたようにヴェンディは言い繕うようにまくし立てた。その狼狽ぶりは逆に怪しい、と知らなかったら思ってしまっただろう。でもクローディアが去り際に言った言葉は嘘ではないのだろう。

 じとっと私は上目遣いでヴェンディを見上げた。


「ちょっと、疑ってました」


 シャツの袖をつまんで引っ張りながら拗ねた調子で呟けば、あ、とか、う、とかヴェンディの口から言葉にならない音が零れる。普段から陶器の様に白い肌から血の気が引いて青白くなっていた。あまりの動揺ぶりに、からかいが過ぎたと心の中で舌を出した。

 袖をつまむ指に力を込めて彼の腕を引き寄せると、おずおずと遠慮がちにその腕が私の腰に回される。ちょっとだけ深呼吸して、私はヴェンディの胸に頬を付けた。シャツ越しに、彼の心臓がとくとくと速い鼓動を打っているのが分かる。

目を上げると、濡れたようなガーネットの瞳と視線がぶつかった。


「……信じてますよ」

「信じておくれ、君以外はもう要らないんだ」

「私の話、聞いてくださいますか?」


 もちろん、というヴェンディの言葉に反して私の唇は柔らかく塞がれたのだった。

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