第8話 ある夜、目覚め、そして――

 

 目を開けると、薄暗い視野の大部分を白い天井が占めていた。なぜ天井と分かったか。小さな灯りがぶら下がっていたから。

 灯りの元は蝋燭で、ゆらゆら揺れる小さな炎が白い天井にオレンジ色の輪っかとなって映っていた。

 見知らぬ天井とかすかな頭痛。ここはどこだろう。なんで私はこんなところで横になってるんだろう。問うけれど答えはない。手足は暖かく、いまだすっきりしない脳にはカスミがかかっているように思考を拒否していた。

 ぼうっと心地よいまどろみの中溶けてしまいたい。細く息を吐き、また目を閉じる。

 このまま意識を沈めてしまえば、きっと気持ちいい……。でも髪と頬に触れるかすかな吐息に気が付いてしまった。

 薄く瞼を開けると、その細く限定された視界の隅に漆黒の髪が映り込む。サラサラのそれは触れるときっと柔らかくて、いい匂いがするに違いない。そしてその下には、ガーネットのような赤い瞳に情けなく涙を浮かべ、今にも死にそうな表情のヴェンディがいた。

 

「……ヴェン、ディ……」


 渇いて貼りついた唇は動きが悪い。声も掠れていて、本当に小さな囁き声しか出なかった。それでもそんな声を拾ったんだろう。しょぼくれていた泣き虫魔王の顔に、わずかに生気が蘇る。

 心配そうにのぞき込む彼は、おそるおそるといったように私の頬に触れた。

 

 ああ、とその瞬間思い出す。

 戦場に行って危機一髪のところにヴェンディに助けてもらって、でも彼の作った地割れに飲み込まれて何か衝撃食らった。なんかこういうと踏んだり蹴ったりみたい。

 だけど、死んだかと思ったけど生きてたんだ。


「……リナ?」


 二、三回瞬きをすると、かなり視界がクリアになった。全身に気怠さがあるけれど少し動かしてみて、別に動かない部分もないし感覚もしっかりある。何か言いたげな彼に軽く頷いて見せた。


「良かった……目を覚ましてくれて。痛いところはないかい? あれからたった半日だけど、君の意識が戻らないので本当に生きた心地がしなかったよ……」

「……ここは?」

「前線近くだよ。医師にも、下手に城まで移動するよりここで様子を見たほうがいいといわれてね」


 ああ、だから見覚えのない天井と、質素な蝋燭の灯りだったんだ、と納得する。ヴェンディの魔王城やクローゼの屋敷ではむき出しの蝋燭で灯りをとることはない。もう少し効率の良い、僅かな燃料で光量を確保できるランタンを使っていたから。

 私は少し首を動かしヴェンディの顔をしっかりと見つめた。

 病的なほど白く美しい魔王の顔が、ほんの少しやつれていた。目の下にはうっすらクマが浮いているし、いつもきれいにまとめているサラサラの髪はちょっとだけ乱れている。


「なんか、全体にくたびれてますね……」


 ああ、と魔王は自嘲気味に微笑んだ。


「愛する君が私の不注意で大怪我をするところだったんだ。後悔もするし、心配で身ぎれいにする余裕もなかったんだよ」

「戦は? 人間の軍はどうなりました?」

「……本当に君って人は」


 そうだ、戦だ。はっとして跳ね起きた私に、ヴェンディは呆れたように首を振った。

 ここが前線の近くだとしたら、人間の軍を追い払ってしまったということか。であれば、場合によっては勇者が出現して、いずれヴェンディの命が――。

 騎士の不吉な予言じみた言葉が脳裏に蘇る。


「あの地割れでまさか人間軍みんな飲み込まれてしまったとか、撃退しちゃったとかしたんですか? 私を殺そうとした騎士は英雄クラスのようでした。三人も贄となれば勇者が誕生するって……!」

「まあ、落ち着きたまえよ、リナ」

「だって、ヴェンディさまが!」

「心配いらない。ほら」


 状況が呑み込めない私をヴェンディはひょいと抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。華奢な体型がいまいち頼りないと思っていたけど、軽々といった風に抱えられてびっくりしつつやっぱりちょっと怖くて彼の首にしがみついた。そこで自分がすでにドレスではなく寝巻に近い簡素なワンピース姿になっていることに気が付く。


「ご覧、戦はこうなった」


 抱えられて連れていかれた窓辺で、ヴェンディがカーテンを開けた。

 眼下に広がっているのは無数のたき火と、工事現場のような櫓や足場だった。。行き交う人が手に持っているのは剣や槍ではなくスコップやマトック(つるはし)、押しているのは砲台ではなく土石を運ぶ一輪車……。

 皆、武装はしておらず、むしろ動きやすい軽装だ。作業道具の手入れをしている者もいれば、日が落ちていたるところで杯を傾けている集団もいる。


「……これは」


 私はヴェンディの顔を見上げた。目が合った彼は静かに微笑み、窓の下に広がる景色にいとおしそうに目を細める。


「君が止めた私の拳がね、地面を割ってしまったことは覚えているかい? 君の身に危険が迫って焦っていた私は、力を制御することができずに足元の山を崩落させてしまった。君が地割れに飲み込まれそうになった時は本当に心臓が止まるかと思ったよ」


 けどね、と彼は言葉をつなぐ。


「随分地面の奥深くまで割ってしまったようで、ちょうど地下水の水脈に当たったんだ。しかも温泉質。それが一気に噴き出して、君の体は地面に飲み込まれる前に地上へ押し上げられたってわけだ。それでこの地に温泉施設を作ってそれで観光地化を図ろうと、人間の王と話がまとまった」

「……では、それって」

「ああ、戦は無し。まずは両軍でちゃんとした源泉を掘り進めて整備をしようということで工事が始まったところだよ。君が飛び出していく直前に言っていた温泉って言葉。あれはこういうことを考えていたんだろう?」


 思いがけない言葉に私はただ首を縦に振るしかなかった。まさかこの魔王が、あんな一瞬の言葉から私の意図を酌んでくれたなんて。べそべそ泣いていただけかと思っていたのに、と胸がいっぱいになる。


「ヴェンディさま……」

「安心していい。戦は終わったし、勇者がでてくることもない。君のおかげだ」


 浮かんだ涙をごまかしたくて彼の肩に額を押し付けるが、安堵からか溢れてくるものが抑えられなかった。泣くまいとは思うものの、我慢しようとすればするほど吐息は震え鼻まで熱くなってくる。


 よかった。

 本当に良かった。

 戦が止まったこと、勇者が出てこなかったこと、そして何よりヴェンディが無事でいてくれることにほっとする。そしてそんなことを生きて味わえるということにが何よりうれしかった。

 

「君が頑張ってくれたから、今のこの状況がある。ありがとう」

「そ、そんな……ヴェンディさまが、無事でよかった……」

「それはこちらのセリフだよ、リナ。君が無事で、本当に良かった。目を覚ましてくれてありがとう。痛いところはない?」

「……っん、ない……です……」


 ちゃんと答えようと思うのに、胸にこみ上げるもののせいで上手く言葉にならなかった。どうしようもなくて、とにかく首を縦に振り続ける。

 そんな私にヴェンディは頬を寄せていい子だ、とささやいてくれた。


「泣かないで、リナ。うれし涙だとしても、私は君に泣かれたらどうしていいか分からないんだ」

「だ……って、あのまま、ヴェンディさまがっ……勇者が来たら死んじゃうかもって思ったら……。だから、本当に、ほっとして……」

「もう大丈夫、私はここにいるし、リナも大丈夫だから」


 泣きじゃくる私をヴェンディはベッドに下ろしてまた抱きしめてくれた。腕の中のあたたかさが、彼の無事が現実であることを教えてくれてまた泣けた。

 もっと、もっと彼の生きている感触を確かめたい。そう思ったときと、彼の手のひらが私の頬に触れたのはほとんど同時だったと思う。伝う涙を拭われほんの一瞬ヴェンディと視線が交差し、その直後どちらともなく唇を合わせた。

 静かな口づけだった。

 ただお互いの唇を重ねるだけ。お互いの体温だけを感じながら目を閉じる。ゆっくりと時間が過ぎていった。

 やがてどちらともなく顔が離れ、そして見つめあう。穏やかに微笑むヴェンディのガーネットの瞳は、蝋燭の灯りと同じくかすかに揺らめいていた。

 いつもの不遜な表情でもなければ、弱気になってべそをかきそうな表情でもない。そしてどんな時でも漂わせている、艶やかな雰囲気も影を潜めている。敢えて言えば、苦笑い。


「……ヴェンディさま?」


 魔王は口元を緩めて首を振った。私の髪を二度、三度と撫で、寄り添っていた体を離す。そして私に背を向けベッドの淵に腰掛けなおした。心なしか、背から生える翼の位置も低い。


「ヴェンディさま?」


 いつもなら、と言っていいかどうか、昨日までの彼ならこんな時は押し倒してくるのではと思っていたのに、予想とは逆の行動に戸惑った。

 つんつんと翼をつつくが振り返る気配もない。シャツの袖を引っ張ってみるが同様だ。

 先ほど浮かべていた苦笑いの表情を思い出すと嫌な予感が湧き上がり、胸いっぱいに不安が広がっていく。


「ヴェンディさま……?」


 こらえきれなくなって私はヴェンディの肩に触れた。だけどそれを揺さぶったり掴んで振り向かせるなんてことまではできなかった。それをして、拒否られたら――と思うと怖かったから。

 しかしヴェンディは拒否をしたり、立ち上がってさらに私から離れたりもせず、ただベッドに腰掛たまま項垂れていた。そしてうつむいたまま、小さく「ごめんね」とつぶやいた。

 ほんの少し、鼻声だ。


「何がです? なにも謝られるようなことは」

「あるよ。あるに決まってる。君をあんな危ない目に合わせて、危険だって分かっていたのに前線に行くのも止めないで、私は安全な後方で震えていたんだ」

「勝手に飛び出したのは私です。しかもいくら一刻を争う事態だからっていっても、ちゃんと詳細もお話しせずにのこのこ出かけて行って、勝手に危ない目にあったんですから自業自得ってやつです」

「違う、そうじゃない」


 ヴェンディにしては珍しく、吐き捨てるように呟くとようやく彼は顔を上げた。しかしこちらを振り返るわけではなく、部屋の天井を仰ぎ両手で顔を覆った。


「私が……私がぐずぐずしていたから。君が来るよりずっと前から人間が怖いといって引きこもって、外交も、戦争も何もせずに事態がこじれるまで放置したから。その結果、国境付近の領民は争いをはじめ、被害を大きくしてしまった。君やクローゼ達が戦場へ行く羽目になって、私の大切な誰かが傷を負うかもしれない事態になったんだ。これが後悔せずにいられるものか」

「長く戦をしなかったから、いままでそれほど大きな被害がなかったんじゃないですか。平和路線ってことですよ」

「もっと私が早く行動していればよかったんだよ。目に見えるところだけ平和なふりをしていたんだ。父上の死を目の当たりにして人間の勇者におびえ、ちょっとした小競り合いからは目を背け、何も知らないふりをしていただけなんだ」

「……ヴェンディさま……」

「もっと早く和平だって申し入れられたはずなんだ。けど領内の者にそれを良しとしてもらえるかどうかも分からなかった。それを聞こうともしなかったんだ。なんでもかんでも城内の者にいい顔をして、見栄を張って、いつか人間界へ攻めるという餌だけぶら下げて放置した。影で何を言われても知らないふりをした。怖かったんだ。内外から、お前は魔王にふさわしくないと突き付けられるのが。その結果、こんな事態になって君を危ない目に合わせて、失うかもしれない恐怖を味わった……」


 顔を覆ったままヴェンディが大きく肩を揺らした。ため息なのか、深呼吸なのか分からない。訥々と語られる言葉に私は口をはさめなかった。


「君を失うと思った時、勇者の存在よりも、内外から魔王にふさわしくないといわれることよりも、恐ろしかった……。手足が自分のものじゃないような、目の前が真っ暗になって何も見えなくなるような……。でもね、リナ」

「……はい」

「私は出られなかったんだ。君が飛び出して行ってしまってからもその場から動けなくて、どうしよう、どうしようって、ただパニックになるしかなかったんだ……。ネックレスの細工で君に呼ばれて飛んでいくまで、私はあの部屋でひたすら震えていたんだよ。情けないだろう…?」


 でも、という言葉は飲み込んだ。

 あなたは来てくれた、なんて今の彼には響かないことが分かったから。


「そのくせ、いざ君に呼ばれて行ったらあのざまだ。勇者が出現する恐怖より、魔王を降ろされる恐怖より怖いものがあるなんて思わなかった。君を失う恐怖に比べたら……。クローゼとのこともそうだ。君が他の男といると考えただけでも気が狂いそうだ。カッとなって、力の制御ができなくなる。でもそんな私をみたら君は恐ろしいと思うだろう。離れたいというかもしれない。でも私は君をもうどこにも行かせたくない、箱に閉じ込めて誰の目にも触れさせず手元に置いておきたい。しかしそれでは君の心は私から離れてしまうだろう。それならいっそ、と考えてしまう自分が止められないんだ」


 君に会わなければ――。


 唇だけが動いて発したその言葉は、ヴェンディの心の声としてはっきり私の耳を震わせた。

 ずきっと胸が痛む。

 一度死に、目を覚ましてからのことが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。面倒なこともあったし、苦労したことはたくさんあった気がするけど、その記憶のどれにもヴェンディの笑顔がある。泣いている顔も、飄々とした表情も、つややかな黒髪も、大きくて柔らかい翼も、白く滑らかな肌も、細くしなやかな指先も、甘くささやく声も、輝くガーネットの瞳も。

 転生してからの記憶すべてがヴェンディと共にある。そのどれもが愛おしいと思う気持ちはもはや否定できなかった。


「私から離れたほうが、君の安全と幸せが保証できるかもしれない……」

「好きですよ」

「え?」

「私、ヴェンディさまが好きです」


 思いがけないほど、あっさりと言葉が出てきた。

 不意を突かれたのか、顔を覆っていた手が外れきょとんとした表情のヴェンディがこちらを見ている。


「こっちで行く当てのない私を雇ってくれて感謝してます。仕事上で困らせられたこともたくさんです。でも私、ヴェンディさまが好きですよ。だからどっか行けとかいっても行きません」

「いや、リナ、しかし……」

「あなたがどう思っていたとしても、私があなたを好きなんです。出会って、一緒に過ごして、まだまだ一緒に居たいんです。だから会わなければよかったとか聞きません。どっかいけとかいう命令も聞きません」

「ちょっとまってリナ。君は自分が何を言っているか……」

「私があなたを怖がる? とんでもない。あなたがヘタレでどうしようもないってことよく知ってます。そこが嫌いとか言ったことあります? ないですよね? いいんですよヘタレだって。私はあなたに守られたいわけでもなければそうでなければ生きられないほど弱くもないんです。でも一緒に居たいんです。私が、私の意志でヴェンディさまといたいんです。異論は認めません。ご家来の皆さんだって、そんなあなただからついていこうってヒト、多いですよ」

「リナ……?」

「弱気なのは今に始まったことじゃないのでとやかく言いませんけど、あなたが私を好きで、私があなたを好きで、いいじゃないですかそれで。難しく考えすぎです。女の懐の深さ、舐めないでくださいね」


 ふふん、と私はわざとらしく胸をそらした。唇を尖らせて弱気なことを言う彼をにらみつける。二人の間に、数秒の沈黙が流れた。

 突如、は、と彼の口から息が漏れた。とめどなく溢れたそれは徐々に大きな笑い声に変わり、彼の肩も揺れ出す。

 ひとしきり笑うと、ヴェンディは目じりを指先で軽く拭った。


「……まったく、君らしいと言えば君らしい。魔王に逆らうのかい?」

「当たり前です。オニの事務員ですよ、私。上司を怖がって意見ができない女じゃありませんから」

「さすが、私のそばに侍ってるだけのことはある」


 ヴェンディはそういうと、私の腰へ手をまわした。抱き寄せられるままに彼の胸へもたれかかると、耳元で優しい声がする。


「いいんだね、もう嫌だって言っても離さないよ?」


 私はこくりと頷いた。


「もちろんです、でも」

「でも?」

「ほかの女の人にこういうことしたら怒りますよ」


 わざと棘のある声音で釘をさすと、魔王はふふっと笑って私の頬に唇をつけた。


「やっと君から好きって言ってもらえたんだ。離すもんか。もう私は君のものだし、君は私のものだ」


 耳の極近くで告げられたそれは、魔王の能力の賜物なのか、しっかりと私の脳と胸に刻まれたのだった。


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