第7話 ある昼、東奔して西走する④
「まってまってまってぇぇぇぇぇぇぇ!」
「マッテタラ、ツカナイ。クローディアサマ、モノスゴク、タンキ。ニンゲン、ケシズミ」
「だとしても待って! この風圧じゃ落っこちちゃう!」
竜を説き伏せていざ出陣。
とまあ威勢よく彼の背に乗せてもらったはいいが、飛び立った瞬間からすさまじい風圧と気温の変化に私は悲鳴をあげて彼の背を叩いた。
寒い、というより痛い、さむい、イタイ。そして怖い。
巨大な竜の背は固い金属質の鱗でおおわれていて、その巨躯ゆえに無駄に広い。飛行の際に風を遮るものもなく、そして万が一の落下を食い止める安全柵なんていうものもあるわけがなく、風に飛ばされたら真っ逆さまに落下してしまうだろう。あまりの恐怖に屋敷から何メートルも離れないうちに泣きをいれた次第である。
「オマエ、ヨワ……」
「し、仕方ないじゃない! 人間だもん!」
「ニンゲン……ヨワ……」
緊急着陸するとすぐに片言の竜に激しく呆れられた。というより明確に馬鹿にされ、これ見よがしにため息を吐かれるが、実際返す言葉がない。
竜にのってばびゅーんと行っちゃえば直ぐ着けるなんて、乗ったことのない人間が考える浅知恵だと断言できる。だって立ってもいられない、座ってもいられない。せいぜい風の抵抗をできうる限り低くするために彼の背に腹ばいになって、鱗にしがみつくくらいである。そしてそれがどの程度続けられるかといえば、ほんの数分。ほんの数分で腕の筋肉がバカになる自信がある。
これじゃ前線までどのくらいの距離があるのかよくわからないけれど、人間の王の所にいつ着けるか分からない。クローディアやクローゼが人間の軍と衝突したら、もう止めることができないかもしれない。
ぐっと唇を噛む私に、竜がまたため息を吐いた。
「クローゼサマ、ボクニノル。ジョウズ。タヅナ、モツ。ケド、タヅナ、ナイ。オマエ、モテナイカラ、シカタナイ」
「え?」
「ボクニノル、ムリ。ダカラ、ボク、カッテニ、ハコブ」
「えぇ?」
どうやって、という言葉は飲み込まれた。いや、比喩ではなく。
私ごと、彼の口の中へ。
あんぐりと開けられた竜の口はまるで日本でよく見た平屋の一軒家くらいの大きさだろうか。中からしゅるりと伸びた長く赤い舌に私の体はあっという間に絡み取られ、彼の口へと引きずり込まれた。
「え? なっ! なんでっ?!」
「コウヤルノガ、イチバン、キケンナイ」
「ええええ?」
パニックに陥って情けない声をあげ続ける私とは反対に、いたって落ち着いた声音が彼の口内で反響する。長い舌は発声にはあまり関係してないのか、と私の中の冷静な部分が分析するが、それにしたって体を舌でぐるぐるにまかれてデカイ竜の口になかに収納されてパニクるなって方が無理だろう。
口が閉じられ一瞬視界が闇に覆われた。ぐっとGを感じたってことは、彼が飛び立ったということか。しかしすぐにその圧力は弱くなり、暗闇に一条の光が差し込んだ。彼が薄く口を開けてくれたのだ。
するとそれまで私の体に巻き付いていた舌が解かれた。自由になった体でおそるおそる光の差し込む隙間の近くに歩み寄る。家の柱より太そうな歯にしがみつきながらそうっと隙間をのぞき込むと……。
「うわぁ……!」
眼下に広がる絶景に思わず声が漏れた。森の深い緑と太陽の光、遠い山の赤い姿、薄くたなびく白い雲。それらの風景が竜のはばたき一つであっという間に後ろへと流れて消えていく。
「すごい、すごい、きれい、速い!」
さっきは周りなんて見ている余裕も何もなかったけど、これはすごい。飛行機に乗っているより風景が鮮明で、でも風のように速くて、そしてパノラマ。
うすく開けた彼の口はうまく風や空気の流れを遮る機構になっているのか、隙間風もほとんどなく、私はただ飛ぶように過ぎ去っていく風景を満喫できた。
「ありがとう、竜ちゃん。これなら落っこちないし、飛んでいく方向もちゃんとわかる。こんな方法があったのね。食べられちゃうかと思ってびっくりしたけど、機転きかせてくれてありがとう」
「キテン?」
「うん、口に入れて乗せてくれるなんて、よく考えついたね」
「ウン、ニモツ、ハコブノ、オナジ」
「……あ、そういうことね」
要するに貨物扱いということか。まあ彼の背中で恐怖と体力の消耗でびくびくするよりずっといい。そして別にここは湿ってもいないしべたべたするわけでもない、竜の口の中ということを加味しても快適と言っていい。
「竜ちゃん、あとどのくらいで着く?」
「アト、ウーン、トオク。モウスコシ、アノ、アカイヤマ」
竜が言うのは進行方向まっすぐ前の、ちょっとまだカスミがかかって見える程度に遠い山のことか。私は頭の中で、さっき見た地図とグリンクツなどの鉱山や温泉地の形状や経営状態の表を広げた。
停戦のちょっとしたアイデアを思いついて飛び出してきたはいいものの、うまくプレゼンするためにはもう少し考えを練る必要がある。プレゼンの資料もないし、口先だけでどの程度むこうがその気になってくれるかは、話のもって行き方によるだろう。魔王の配下とちゃんと話をしてくれるかどうか、そこも疑問だ。
ある種の賭けであることは確かだった。
頼む、まだ戦うなよ。どこにいるか分からないけど、そっとクロ―ディアにお願いすると、想像の彼女はぷいっとそっぽを向いて唇を尖らせてしまった。
まあ、そうですよね。
たとえ彼女へ伝令が間に合ったとしても、私のお願いなんて聞いてくれるわけもない。クローゼならともかく、むしろ彼女なら率先して戦の火ぶたを切って落とそうとするに違いない。
であれば、やはり急がないと。そして。
「ねえ竜ちゃん。私のこと下ろしたら、そのままクローゼさまに戦を止めるようにお知らせに行ってくれる? 私が人間の王と話してるから、私がいいというまで戦闘はダメって」
「ボク、クローゼサマ、オシラセ、スル」
「うん、ありがとう。でね、もしクロ―ディアさんが戦おうとしてたらそっちも止めて」
「ムリ」
二つ目のお願いは秒で却下される。
「クロ―ディアサマ、ボク、イイコネ、イウ。ソシテ、スグ、ニンゲン、ケシズミ。トメル、デキナイ」
なぜ、と問う前に聞かされる答えは、なんかものすごく納得というか、うん、そうよね、というか。要するに火が付いたクロ―ディアは誰にも止められないということだろう。
であればやはりコトは一刻を争う。
どう話す、どう説明する。あの近辺の山に資源が眠るかどうかは賭けだし(多分あるだろうけれど)、あったとして共同開発、共同運営の旨味を人間が納得しなければ剣を引いてはくれないだろう。そしてこっちがだましていると思われないよう、誠意を見せないといけない。
案外面倒な、いや結構困難なミッションだ。ぶるっと肩が震える。
しかしやり遂げなくちゃ。
生前のプレゼン資料作りの記憶を総動員して、私は思考を組み立て続けた。
どのくらい飛んだだろう。少し喉が渇いた、頭も使いすぎて甘みが欲しい。そう思ったころだ。
「ミエタ」
あたりに竜の声が響いた。
すぐさま口の隙間から外をのぞくと、確かにいつの間にかもうすっかり山岳地帯を飛んでいて、少し開けた山間に小さく軍勢らしきものが見える。キレイに並んだその列とひらめく小さな見たことのない旗印は人間の軍だろうか。整然としたその様はまだ戦闘が開始されていないことを物語っていた。
しかしその陣の向かいの丘には、別の一群の姿が見える。こちらは雑然とした塊で全体的に黒っぽい。つまり魔王軍、いや騎士団長が急遽集めた軍勢か。
両軍は山間と丘に布陣してにらみ合いをし始めたのだろう。一触即発というほどの距離感ではないが、お互いに攻撃すると決めたら届く間合いだ。
間に合った。
私は安堵のため息を吐いて、それから両手でほっぺたを叩いた。気合だ。気合だ。気合だ。
「ドウスル? ドコニ オロス? ニンゲンノ、オウノ、チカク?」
「王は後方でしょ? 軍の上をあなたが飛び越したら向こうの人たちがびっくりして話どころじゃなくなるかも。あの人間の軍の前に下ろして。エライ人に話を聞いてもらえるように頼んでみる」
「ワカッタ、ボク、アノマエニ、オリル」
「ううん、私だけ降ろしてすぐにクローゼ様にお知らせに行って。にらみ合いしてるから、どっちかが動けばすぐ戦になっちゃう」
竜は了承の意味だろう、のどの奥で低く唸り声を上げるとスピードを上げた。人間の軍へ一直線だ。そしてその途中、私の体をまた舌で絡めとった。
「オリルトキ、オチナイデ」
「ありがとう!」
優しい心遣いに感謝し、お言葉に甘えて舌を命綱にする。降下が始まると、ぐっと気圧が変化して耳が痛くなった。思えばどれくらい上空を飛んでいたんだろう。口の隙間から見える人間の軍勢がどんどん大きくなっていく。突如現れた竜に驚いて、迎撃の態勢をとるもの、慌てる馬を落ち着かせようとするもの、上空に槍を伸ばすもの、様々だ。
騒然とする軍の中に特に偉そうな装飾を施された馬に乗った、騎士っぽい人が見える。
「竜ちゃん、下ろして!」
私が叫ぶと、竜は咆哮を上げて口を大きく開いた。音波の衝撃は正面からの風圧を緩和する。口外へ出された私は差し出された竜の前脚に飛び乗り、はばたく彼と共に地上へ降り立った。
人間から見たらこの姿はどう映っただろう。突然、矢のように飛んできた竜の口からドレス姿の女が飛び出してきたのだ。警戒するなという方が無理なのは当たり前だ。
恐慌状態の軍の前で竜の前脚から降りた私は、なるべく優雅に見えるように、ちょっとでも「なんだこいつ」という間を設けるためにも、ゆっくりとカーテシ―をして見せた。その間に竜は地面から飛び立ち、背後へと去っていく。向いの丘にいる魔王軍へ、出撃しないよう連絡に行ってくれたのだろう。
「な、なに奴だ!」
一瞬の間ののち、我に返るのが少しだけ早かった人間の一人が私に向かって槍を突き出した。ぎらりと光る穂先に背筋が凍る。両脚が震えてしまうのは仕方ないだろう。こんなシチュエーション、生まれて初めてだ。
でもそれを勘付かれないように殊更優雅に顔を上げる。可能な限り、堂々と。そして私は大きく息を吸った。
「わたくしはこちらの領主である魔王、ヴェンディさまの使者として参りました。戦をする前に人間の王様へお知らせしたいことがございます。どうかお目通りをお願いできますでしょうか」
多くの人間がざわめく陣へどれだけ声が届いたか分からない。なるべく凛と聞こえているといいなと思った。とにかく今は、ひざが震えているのを知られないように虚勢を張るしかない。
「魔王の使者だと? 今更、何の用だ!」
「王様へどうしてもお伝えしなければならないことがございます。我等が主は貴方さま方との戦いを望んでおりません。むしろ互いに手を取り、共存共栄の道を図ろうとのお考えです」
向けられた殺気がわずかに緩んだ。ような気がした。私の胸に槍で狙いをつけていた兵士は見るからに動揺し穂先が地面に向いている。勢いに乗って魔王領へ攻め入ったはいいが、やはり力の差がある魔物と正面切って戦うには恐れがあるのか。
であれば、和平の申し出に聞く耳は持ってもらえるかもしれない。
「王様にお目通りを。我が主は決して皆さま方との争いを望んではおりません。この度の戦も元をただせばこの地域の人々の貧しさからと伺っております。それを解消するべく、双方にとってよりより道を選びたいと仰せです」
前線の兵たちは明らかに戦意を失ったように見えた。お互いに顔を見合わせ、こちらを見て、また何かざわざわと話をしている。手に持った剣や槍などの武具も収めてよいのか、構えたほうが良いのかも分からない様子で宙ぶらりんの状態だ。
すると歩兵たちの間をかき分けるように一頭の馬に乗った騎士が進み出てきた。
面当てからたてがみの飾りから、鞍、予備の武具入れまで、華美すぎるといってもいいくらいに飾り立てた馬はちょっとよろけながら歩兵の間を縫って出る。その鞍上にいるのは、やはり相当に装飾が華美な騎士姿の人間だ。最前列の歩兵さんの動きやすさ重視の装備に比べると重そうだし、そもそもそんな全身を包み込んだ甲冑で(しかもいろんな飾りや彫刻もついているし)戦えるんだろうか。
そんな心配をよそに、騎士は馬から降りることもなく私の前へと近づいてきた。そして手に持った巨大なランスで私の胸へ狙いを定めた。
「魔王の使者というのは貴様か」
銅鑼のような大きな怒鳴り声に耳をふさぎたくなる。でもなるほど、良く通る声だ。軍隊でえらくなるには大きな声も必須ということなのか。私は顔をしかめないように、震えがばれない様に、意識的に口角を上げて笑顔を作りながら再び会釈を行った。
「魔王、ヴェンディさまの配下でリナと申します」
「何用だ!」
「戦を回避するために遣わされました。我が主は争いを好まず、人間との共存を望んでおります。紛争のもととなったこの貧しい山間部に両者共同の産業を開発したいという案をお持ちいたしました。ぜひ王様へ直接ご説明と、お願いをさせていただけますでしょうか」
「共同開発だと?」
ぶんっとランスが空を斬った。
「そのようなことが信じられるか! 王に聞かせるまでもない! 開発と称して我らが王領を侵食し、その後滅ぼしに来るつもりだろう!」
「すぐに信じていただけるとは思ってはおりません。しかし我が主が戦を望んでいないのは、代替わりして以来一度も人間の領地へ攻め入っていないことが何よりの証でございます。過去の遺恨はありますが、時代も変わりました。可能であれば友好な関係を築きたいと、我が主は仰せです」
「何をムシの良いことを! 貴様ら魔王軍がどれだけ人の世界を蹂躙してきたか……! 聞けば当代の魔王は随分と腰抜けらしいではないか。このような場に自ら出ることもなく、女を使者に立てて自分は領地の奥でガタガタ震えておるのだろう」
騎士の表情は装飾がたっぷりついた大きな兜と仮面によって全くうかがい知れない。目元だけが開き、ぎろぎろと血走った彼の目が垣間見えるだけだ。けど、口調からはおそらく、いやほぼ確実に、ヴェンディを小馬鹿にして笑っているのだろうということは分かった。想像しただけで、ぐわっと腹の奥そこから怒りが込み上げた。
「貴様、よく見れば人間の女ではないか。なぜ人間が魔王の使者になっているのだ」
「わたくしの事情は、この場では関係ございません」
「おおかた魔王の色香に迷って側女にでもなったのだろうよ。魔術でも使われたか? それとも自ら我ら人間を裏切ったか」
「そのようなこと……!」
「欲に溺れ腰抜けの魔王に仕えたこと、不運と恨むがいい。我らは決死の覚悟で貴様たちを滅ぼすため戦いに来たのだ。どれほど魔王軍が強大であろうと、主たる魔王が腑抜けではいずれ勝負はつく。あそこを見ろ。あれに見える貴様らの軍勢は確かに強い。騎士団長のクローゼとその麾下は我々をことごとくなぎ倒すだろう。あやつが魔王であればと悔やめ。しかしだ。英雄と呼ばれる騎士が三人もやられれば、その命を贄とした勇者が誕生し、クローゼもろとも腰抜け魔王を倒す。そして我らが、人が、世界を統べるのだ!」
「うるさーーーーーーい!」
ぶつん、とどっかで血管が切れた。古典的だろうとなんだろうと、理性の糸がぶちキレた私が、目の前に突き付けられたランスを思いっきり殴りつけた。
痛い。痛いけど! でも!
「腰抜け腰抜けうっさいのよ! 確かに魔王は今、人間と勇者が怖くてでべそべそ泣きながら屋敷のベッドで震えてるわ! そんなことは見ず知らずのあんたに指摘されるまでもなく、この私が一番よく知ってるし、なんなら今さっき見てきたわ! 怖がりで、でも見栄っ張りで、偏食で、部下にいい顔ばっかりして、どんぶり勘定の頼りない腑抜けたヘタレ魔王よ! けどねぇ!」
「な……!」
「うちのヘタレ魔王はね! 単に怖いから逃げてんじゃないのよ! 戦なんてしたら双方に被害が出るからいやだって言ってんの! 魔王領のものだけじゃない、人間の命に被害を出したくないって! だから戦をしたくないっつってんのよ!」
優雅な物腰の魔王の使者、としての態度なんてどっかに飛んでいった。夢中で怒鳴りつける言葉は相当うちの魔王をディスってる。本人が聞いたらショックで寝込んでしまいそうだけど、今はいないからと忖度なしでぶっちゃけた。
「ヘタレはヘタレなりに考えてんのよ! あんたたちだって自分とこの領民が苦しむの見たくないんでしょ? 自分とこの領民の生活守りたいんでしょ? うちの魔王だって同じよ。魔王領のものだってフツーに生活してんのよ。確かに私は人間よ。でも私を拾って仕事をくれたのも、目の前で困ってるやつがいたら人間だろうとほっとけないっていうヘタレなりの配慮よ。戦なんてしたがってない。いい落としどころを戦以外で探ってかないかって提案してんだから、つべこべ言わずにあんたたちの王に取り次ぎなさい!」
騎士の後方で歩兵の一団にざわめきが広がった。
「き、貴様……」
馬上で騎士の鎧が小刻みに震え、カチカチと金属がぶつかる音が聞こえた。重たい甲冑の裏側で、おそらくは顔を真っ赤にしているのだろう。にらみつける目がさらに血走り、構えたランスは筋肉の震えを穂先に伝えて狙いが定まっていない。
誇り高い英雄は女に怒鳴りつけられていたくプライドを傷つけられた様子で、言葉にならないうめき声しか漏らさない。私はこいつに取次を依頼するのをあきらめ、その背後にいる歩兵へ視線を動かした。
その時だ。
「敵陣、移動を開始しました!」
そんな! まだ合図してないのに!
歩兵たちの指さす方向を振り返ると、確かに対面の丘に陣取っていた軍が移動している。しかも飛竜もいるのか、相当に速い。
その先頭にいるのは――クローゼ。
「竜ちゃん、止めてって言ったのに!」
砂煙を上げ、あるいは飛竜と火竜が吹く炎による黒煙をまき散らし、クローゼの軍がどんどんこちらへ近づいてきた。離れていても感じる強い殺気に、冷や汗が背を濡らした。
歩兵たちはハチの巣をつついたような騒ぎに陥った。無秩序に武器を構えたり、逃げだそうともがいたり、明らかに統率を欠いた動きとなって軍は乱れた。歩兵の合間にいる騎士たちも、兵の動揺が伝染した馬の制御で手間取っている。
これではクローゼが到達して戦闘が始まったら、戦にすらならないで全滅する。どうして、という言葉は飲み込んだ。
さっきまでフラフラしていたランスの鋭い穂先が、私の喉元にぴたりと突き付けられていたからだ。
「やはりか……」
「え……」
「やはり罠か。貴様で時間を稼ぎ、奴らがこちらを一斉に叩くつもりだったのだな」
「違う! そうじゃなくて、ヴェンディは本当に戦を回避するつもりで!」
「うるさい! もはや問答無用だ。まずは貴様から血祭りにあげてやる!」
「そうじゃない! 待って、クローゼに止まるように言うから! 話を聞いて、王様に取り次いで!」
必死の願いは馬上の騎士には届かない。いや、もう彼の目の焦点は定まっていなかった。英雄と呼ばれる騎士、その命を贄として勇者を誕生させる者、彼もその一人なのか。最前線に立つ彼はこのままではクローゼの軍に飲み込まれて真っ先に命を落とすだろう。
覚悟の上と豪語していたけれど、自分がその一人になることが現実身を帯びてきたとたんにタガが外れたのか。直近に迫る死の恐怖に理性を失っているのかもしれない。この人も止めて、クローゼを止めて――だめだ、考えがまとまらない。
ランスで圧迫される喉から、私自身にも死が間近な感覚として恐怖が湧き上がってくる。このままぐいっと一突きされたら、私も……。
「下がって! 私があの軍を止めるから!」
「止められるわけがない……騎士団長クローゼ……どうせ、みんな、死ぬ。貴様も……道連れだ……!」
リナ殿、とクローゼが叫ぶ声が背後で、遠く? いや、近く? で聞こえた気がした。振り返って、ダメだ来るなと伝えたかったけど、もはや理性を失ったかのようにぶつぶつ呟く騎士から目が離せなかった。目を離したら突かれる。いや、目を離さなくてもこのままなら。
どうする、どうする、どうしたらいい。
がちゃり、と騎士は馬に付けた装備から一振りの斧を引き出した。重たそうな、とても大きな刃がついた斧だった。よく研がれているんだろう、太陽の光を鮮やかなほど反射させたそれが振り上げられた。
――ああ、これ振り下ろされたら終わる。
恐怖で身が竦みながら、不思議なほど冷静にその光景を「私」は見ていた。
あれで首をスパッとやられたら、一瞬で終わるな、と。苦しまないかも、痛みもないかも、だったらいいな、と。
変に一度死んでる身からすれば、死ぬときは苦しみが少ないほうが楽だと知っている。もがいて抗って、そんな時間を費やしたとしてもどうせ死ぬんだ。楽なほうがいい。
であればあの斧で首を落とされるならフェードアウトじゃなくてカットアウトだろうから、楽かもしれないな。
でも。
最後に見た涙でぼろぼろのヴェンディの顔が浮かんだ。
平手でひっぱたかれて呆然とするヴェンディ。その平手をかましたのは、間違いなく自分だ。
彼を守りたくて、彼を元気にしたくて、身の程もわきまえずに前線まで来てこれだ。バカみたい。結局のところ王様にも会えず、竜ちゃんの口の中であんなに練ったプレゼンも披露できず、無駄に戦闘を煽っただけじゃないか。
こんなんだったら、たとえ勇者が出現するとしてもヴェンディのそばにいればよかった。そして勇者撃退の作戦でも考えとけばよかったんだ。子どもの頃にやったテレビゲームで、勇者と魔王の戦いなんて見慣れてる。あの裏をかけば勝てるんじゃないかな。そんなことを笑いながらヴェンディと話しておけばよかった。
湯水のように金を使う尊大な態度の魔王。
人間が怖くてべそべそ泣くヘタレな魔王。
甘い声音で唯一の愛を囁いてくれる魔王。
そのどれもがこの上なく可愛くて、愛しくて。
実のところ、この世界にきて良かったって思ってた。そんな人を悲しませる結果になるなんて。
でもせめて最後に顔を見たい。それも叶わないなら声だけでも。
騎士の斧がゆっくりと振り下ろされたのが、視界の隅に見えた。
「ごめん、ヴェンディ……」
私はぎゅっと目を閉じた。
刹那。
耳元で凄まじい炸裂音が響き渡った。一瞬聴覚を奪われ平衡感覚がおかしくなる。しかし首を堕とされたんだったらそれどころではない。私は思わず目を開けた。
すると地面へ転がっていると思った自分の頭はまだしっかり体の一部であり、その代わり振り下ろされたはずの戦斧は騎士の手元からぽっきりと折れて刃の部分が見当たらない。そして私の前に黒いマントが翻っていた。高級なヴェルベットの生地には見覚えがあるどころの話じゃない。これは。
「……た……の……ものに、手を出すな……」
徐々に戻る聴覚で拾った音声は、まさに今、一番聞きたかった人のものだった。
「ヴェンディ!」
私を背にかばうように立ちはだかる魔王は、こちらを振り返ると優しく微笑んだ。その両頬にうっすらと涙の跡がある。反射的に私はヴェンディに抱きついていた。
「なんで、どうやってここに!」
「だってリナ。昨晩教えたろう? 君のネックレスには細工がしてあると。君が私を呼べば、いつでも、どこでも駆けつける。たとえそれが戦の最前線であろうとも」
その言葉にはっとする。確かにさっき彼の名前を呼んだ。このネックレスのストーキング機能は相当な遠距離でも働くということなのか。えぇぇ、とほんの少し再会の喜びが目減りしたが、まずは命が助かったのでヨシとしよう。
ほっと胸をなでおろした私と反対に、斧を振り上げていた騎士は自分の身に起こったことが理解しきれていないようだった。目を白黒させながら、折れた斧の柄を握った腕を振り下ろせず棒立ちだ。
「な……、あ……!」
言葉にならない声だけが半開きの口から漏れ出ている。斧の先の行方は分からないが、きっとヴェンディが来たときに弾き飛ばしてしまったのだろう。二次被害が出ていないといいが。
ヴェンディは私の髪や頬にそっと唇を寄せた。顔の近くで漏れる吐息がくすぐったい。
「私の大切なリナ。君に何かあったら夜も眠れず食事ものどを通らないだろう。私を殺すのは簡単だ。勇者を待つまでもない。リナ……間に合ってよかったよ……」
しかし、と魔王の口調が変わった。氷のように冷たい、しかしものすごい圧力のオーラが漂い始める。それまで私に微笑んでいてくれた優しい目ではなく、ひどく冷酷な、そしてどす黒い炎のような色の瞳で立ち尽くす騎士をにらみ上げた。
「私は確かに争いを好まない。だがリナの身に危険が及ぶとなれば別だ。私の大切な者に刃を向けた罪は万死に値する……」
ひっと騎士団長が悲鳴を上げた。魔王の怒りを一身に浴びガタガタ震え始める。背後に控えていた歩兵たちはクローゼ達の進軍の知らせとさっきの衝撃で、すっかり後方へ下がってしまっていた。騎士を守るものは誰もいない。怯えて竦む彼に、漆黒のオーラをまとわせたヴェンディの右手が振り上げられた。
「だめぇえええ!!」
騎士に向かってそれが振り下ろされる瞬間、私はヴェンディの右手の前に立ちはだかった。一瞬ぎょっとした魔王は即座に右腕を地面に突き立てる。まとわせたオーラとともに腕を土にめり込ませたまま、驚愕した表情の魔王が私を見上げた。
「だめです、ヴェンディさま! この人やっつけたら人間の王と話す機会もなくなります! 怒りにまかせて人間と戦ってはダメ!」
「しかし……リナ」
「戦って勇者が出てきたらヴェンディさまの身にも危険が及びます。まずは停戦の話し合いを……え……?」
ぴしっという地鳴りが聞こえた気がして地面へ視線を落とす。ヴェンディが腕を突き立てたそこから、四方八方に地割れの線が走り始めていた。線はどんどん増えていき、軽い音色だった地鳴りはどんどんと音を下げていき、徐々にゴゴゴという地響きに変わっていく。
「ヴェンディさま!」
逃げてください、と叫ぶのと地面が割れるのはほぼ同時だった。
ぐしゃっと足元の地面が割れた。――崩落だ、と分かっても体勢を立て直す余裕なんてない。ぱっくりと口を開けた地面へ飲み込まれながら、何か掴まるものをと両手が空を切る。
「リナ!!」
「ヴェンディ!」
頭上で彼の声がした。土埃と撒きあがる土砂で視界を奪われながら必死に手を伸ばした。もがいて、もがいて腕を伸ばしきったときだった。
ずんっという音と共に突き上げる衝撃を食らい、私の体は宙に放り出された。何が起こったのかも分からない、ただ自由の利かない体は、一瞬ののち温かな液体で包まれた。心地よい浮遊感に意識が混濁していく。
あれ、またこれ死んだ?
そう自問したのが最後の記憶だった。
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