第23話一八二四年、食欲二

 眼の前で鮪の大トロがじゅじゅうと焼けている。

 美味しそうな匂いが鼻腔を痛いほど刺激する。

 本当は和牛のサーロインステーキが喰いたいが、蝦夷樺太開拓に牛馬の力が必要だから、ぐっと我慢したのだ。


 どうしても肉が食べたければ、猪や鹿という方法もあるが、猪は生け捕りにするのが難しく、鹿は淡白なのだ。

 何より問題なのが、俺が獣肉を喰う事を母上が嫌っている事だ。

 前世の記憶が異常に鮮明なので、実母という感覚が少ないのだが、それでも、今生で生んでくださった母親が嫌がる事は、少々遣り難い。


 まあ、どうしても食べたくなったら、隠れて食べるのだが、今日は鮪の大トロを献上してくれる者がいたので、大トロ尽くしを愉しむことにした。

 肉と魚の違いはあるが、脂の美味しさに違いはない。

 淡白な魚を好む江戸時代では、大トロは捨てられる場所だ。

 まあ、冷凍冷蔵技術が発達していないので、脂の多い魚は腐りやすく、醤油漬けや味噌漬けにしたくても、脂が醤油や味噌をはじいてしまうのだ。


 だが、冬の今なら、大トロの脂の美味しさを愉しむことができる。

 幸い俺は徳川一門なので、幕府が門外不出にしている、有東木の山葵を手に入れることができる。

 食べ易い大きさに切った大トロに、鮫皮で丁寧に卸した山葵を乗せ、醤油を少しつけて食べる。


 もう、これは、得も言われぬ美味しさだ。

 至福の時間だと言っても大げさではない。

 前世では、これほど美味しい大トロを食べた事がない。

 だが、生で食べても本当の美味しさは分からない。

 残念だが、俺の舌はそれほど鋭敏ではないのだ。

 冷たい状態で食べるよりも、適度に温めた方が旨みを感じることができる。


 まあ、熱々過ぎても味が分からなくなるが、熱い物には熱の美味しさがある。

 それに、熱々で食べないで、少し冷まして食べる事もできる。

 食べる前は胡椒があればと思っていたが、実際に食べてみて、胡椒などいらない事が分かった。

 自然に作られた塩の美味しさは格別だし、献上大トロに臭みなど全くない。

 醤油の風味が強く出てしまうネギマ鍋よりも、塩味だけで食べる大トロステーキの方が、俺の好みだ。

 

「随分美味そうな物を食べておるな、中務大輔」


「これは父上、このような場所に来られて、いったいどうなされたのですか」


「どうなされた、ではないわ、中務大輔。

 またお前が、隠れてけだものを食べているかもしれないと、お規が心配しておる」


 これはいけない。

 母上に余計な心配をおかけしてしまったようだ。

 何を食べるのかしっかりとお伝えしておくべきだった。

 だが、鮪も土座衛門のようだと嫌われているんだよな。

 どう言い訳しようか。

 そうだ、父上にも食べてもらって、美味しさを伝えてもらおう。

 父上にはスタミナをつけてもらって、沢山の弟を作ってもらわなければならない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る