眼差しの先

 建物を出たアオは、自室を目指して歩いていた。日没に近い時刻、陰鬱な色をした夕焼けが居住区の建物を無遠慮に染め上げる。足取りはいつもと変わりない。無意識に、淡々と両足を動かし続ける。もし意識を向けたなら、途端に転倒してしまいそうなほどに、アオは疲弊していた。


 嘘を吐くのはよくないことである、とハレルヤは説いている。誠実であることを上層区では良しとする。その中で嘘を吐かなければならないことが、「優等生」であるアオには苦痛だった。この世界で正しいとされるハレルヤ、それを模範とする上層区。疑問を持ったことなど無かったし、自分の置かれた環境こそが全てであるとアオは信じていた。


 だが今の自分が、間違っていて不誠実なのかと問われれば、アオは肯定出来る自信はなかった。こうして周りを騙すような真似をして、大事な片割れを閉じ込めて、それでも自分が間違っているとはどうしても思えなかった。


「その世界の方が間違っているんだ」


 言葉が口から溢れた。アオは誰もいない道を進みながら、他に誰も聞き取れないほどの小さな声で続ける。


「でも間違っているなんて、誰も信じない。皆が信じてるから、この世界は成立している。だからこそ、僕は最適解を探さないといけないんだ」


 我儘、とソラが自分を評したことを思い出す。今更それを訂正する気もなかった。自分は我儘な人間で、それでもソラのように自分勝手にはなれない。だからこそ、こうして自分を誤魔化しながらも、その道を貫くしか出来ない。

 自室に戻る寸前で、アオはふと足を止める。アカネの部屋に明かりがついているのを見たからだった。中にいるのだと、漠然と理解すると同時に、アカネと前に交わした言葉を思い出す。相談がある、とアカネは言っていた。


「忘れてた」


 呻くような低い声でアオは呟いた。勿論、覚えていたところでこの数日間に対処出来たとは思わないが、罪悪感が胸にこみ上げる。

 まだ夕食までには時間が少しあった。それまでだったら話しても構わないだろう、とアオは考えて、アカネの部屋の方へと足を向ける。もしかしたら相談の内容によっては時間が足らないかもしれないが、その場合は夜にでももう一度話せばいい。

 何よりも、今はアカネと話をしたかった。何が正しいのか、何を正しいと思うべきなのか、その根底が揺らぎつつあるアオにとって、自らの価値観を惜しみなく口にするアカネは一種の救いでもあった。結論はどちらでも良いから、自分が正しいかどうか聞いてみたい。きっとアカネはアオに遠慮することなく答えてくれると信じていた。


「アカネ」


 扉をノックすると、いつもの明るい声が「どうぞ」と入室を促した。それに安堵を覚えながら、アオは中へと入る。前に入った時と同じ、壁から少し離れて配置された家具が見えて、その中心の椅子に座っているアカネの背が見えた。手元が見えないので、何をしているかはわからない。少なくとも、端末が置かれた机は離れた場所にあるため、読書やゲームをしているわけではなさそうだった。

 アオは扉を閉めながら、アカネに声を掛ける。


「前に相談があるって言ってたでしょ。遅くなったけど、今なら時間が取れるから」

「それなら、もう解決したから大丈夫」


 アカネは屈託ない調子で返す。だが視線や肩の位置は変わらない。随分と集中しているようだった。


「大したことじゃなかったのに。心配してくれたの?」

「だって気になってさ。アカネがそんなこと言うの始めてだったから」

「そうだったかな。それは記憶にはないな」


 笑い声と共に告げられた言葉に、アオは少し違和感を覚えた。だが、疲労している頭ではその正体を正しく掴むことは出来ない。前に此処に来たときも同じような状態だったことを思い出して、思わず自嘲の笑みを零した。


「ここ数日、不在だったけど」


 今度はアカネが話しかけてきた。


「何かあったの?」

「あぁ、うん。色々と」


 アオは相手が訊ねてくれたことを、内心嬉しく思いながら肯定を返した。


「少し聞いてほしいんだけど、いいかな。作業は続けていていいから」

「うん、大丈夫」

「ありがとう。……前に話したキョウダイがいるでしょ。キョウダイが、ハレルヤの中にある大事なデータを見ようとしたんだ。何かは言わないけど」


 そこでアオは一度、相手の返答を待ってみた。アカネの性格からして、詳細を聞きたがるかもしれないと考えたためである。だがアカネは何も言わなかったため、そのまま話を続ける。


「僕は、そのデータを一緒に見た。それで、キョウダイをそのまま返すわけにはいかないと思って、侵入者として通報した。キョウダイは捕まって、今は拘束されている。僕は……そのデータが皆に知られれば、何が起きるかわかった。きっと向こうだってわかっていたと思う」


 ソラはただ、データを見たいだけだった。その言葉は嘘ではないのだろう。だが、アオはそのデータを見ただけで終わりにすることが出来なかった。


「あのデータを僕は守らないといけない。それが最適解に繋がると考えた。でもそれを考えれば考えるほどに、自分が本当に正しいのかわからなくなるんだ」

「……正しいかどうか?」

「そう。僕は正しいはずだ。ハレルヤの教えと少し違うかもしれないけど、ハレルヤの中にあるあのデータを守るために必要なことをやっている。そう言い聞かせるのは簡単なのに、どうしても納得しきれないんだ」


 少し早口にまくし立てた後に、アオは大きな溜息をついた。他に物音もしない部屋に、その音だけが虚しく響く。

 アオはそのまま、アカネの言葉を待った。何を言うのか聞きたかった。間違っていると言われても、正しいと言われても、あるいはどちらでもない困惑が返ってきたとしても、それはそれで構わなかった。何か言ってもらえれば、自分がしていることに折り合いをつけることが出来る。

 だがアカネは十秒待っても、二十秒待っても、何も言わなかった。背中を向けたまま殆ど動かない。アオはそれを暫く見ていた後に、一抹の不安を感じた。


「アカネ」

「うん」


 どうしたの、と問う口調はいつもと同じだった。違うのは、まるで目の前にアオがいるかのように話していることだった。アオはアカネの方に近づきながら、質問を重ねる。


「僕は……間違っていると思う?」

「答えを求めているの?」


 不思議そうな声が応じる。思いもよらなかった、とでも言いたげに。

 アオはそのままアカネの正面に回り込んだ。それとほぼ同時に、アカネが口を開く。


「ハレルヤのための行動なら、それは肯定される」


 正面に立っても、アカネと視線は交わらない。アカネはアオを真っ直ぐに見ているのに、その視線にはまるで感情というものがなかった。いつもは額を隠している金色の前髪が、一部不自然に剃られている。それによって顕になった前頭部には、真新しい縫合痕が出来ていた。


「私個人の感想なんて意味がないことだもの。ハレルヤの意志と理念に従うべきでしょ」


 何もせずに椅子に座っていたアカネは、そう言って微笑んだ。


 

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