episode6.世界を隔てたもの

正された過ち

『食事を開始してください』


 その合図をきっかけに全員が朝食を開始する。アオもいつものように容器に入ったスムージーを手に取ったが、視線は自分の向かい側の席に注がれていた。照明を浴びた銀髪は、元々短かったものが綺麗に整えられている。背筋を真っ直ぐに伸ばし、スムージーを口元に運ぶ仕草からは、かつてのどこか攻撃的な態度はない。

 一口飲んで、容器を下ろす。容器を持ち上げて一口飲む。規則正しい動作は、まさしくハレルヤが求めるところの「模範的な食事」だった。

 整えられた髪は、よく見れば前頭部の一部が刈り込まれている。そこに小さな傷が出来ていて、縫合痕が薄く盛り上がっていた。時折、その周辺の皮膚が動くのは、痛みを感じているためなのか、あるいは異物を排除しようとする人間本来の動きなのか、アオにはよくわからない。その傷がどうやって出来たものなのか知る権利はまだ無い。


「カナタ」


 私語を許可するアナウンスが流れた直後に、アオは向かいに座る背の高い少女の名前を呼んだ。一瞬の間を挟んで、カナタが視線をアオへと合わせる。その表情はぼんやりとしていて掴みどころがない。


「何か」


 返された声は静かだった。燃え盛るような感情を声と共に吐き出していた姿からは掛け離れている。


「特別カリキュラムは、どうだった?」

「開示要求は私ではなく、ミスターかミスにお願いして頂戴」

「そうじゃなくて、個人の感想としてだよ」


 カナタは固形食料を手に取り、丁寧に二つに割った。


「何か意味のある問いなのかしら、それは」

「意味は……ないかもしれないけど」

「なら答えるのは無駄でしょう」


 固形食料の断面から欠片がいくつか落ちる。カナタはそれを一瞥だにせず、淡々と食事を続けた。


「この前のことについては、どう考えてるの?」


 アオは自分でも少々回りくどい聞き方だと思いながら言った。近くの席から、あの時のように好奇心に満ちた視線を感じる。そんな状況下で、数日前のことを詳細に口にするのは憚られた。


「さっきから質問が具体的ではないわ。そういうのは正しくないでしょう」


 カナタは表情を変えずに言った。正しくない、という言葉にアオは少し顔を歪める。あの時、ミスターに向かってカナタが放った言葉の中にも似たようなものはあったはずだが、今のとは全く性質が異なるものだった。

 あの時のカナタは自らの意思と衝動を言葉にしていた。だが今のカナタは何かのマニュアルを読み上げているかのようだった。


「じゃあ質問を変える。あの時、カナタが作った政策のことを今でも正しいと思っている?」

「思わない」


 即答だった。迷うとか考えるとかそういった手順を完全に飛ばしていた。


「ハレルヤが正しくないと判定したのだから、そこに疑問の余地はないでしょう?」

「それはそうだけど」

「私は間違っていた。ハレルヤはそれを正してくれた。たったそれだけのことよ」


 たったそれだけ、と言うカナタの表情は変わらない。感謝も怒りも興奮も何もなく、淡々と動き、話し続ける。特別カリキュラムを受けた人間は皆こうなる。それは周知の事実であったし、それについて誰かが意見を述べたこともなければ、是非が問われたこともない。

 アオも今まではそれが当然だと思っていた。だが、目の前のカナタを見ているとその価値観が揺らぐ。数日前のカナタは、ハレルヤやミスターからすれば間違っていたかもしれないが、それでも間違いなく一人の意思を持っていた。


「つまらない」


 不意に聞こえた言葉に、アオは背筋を凍らせた。自分が言ったのではないかと勘違いしたためだった。だがその声は非常に小さく、そしてアオのものより甲高い。ぎこちなく首を回して左隣を見れば、アカネの金髪が目に入った。


「私は前のカナタの方が好きだったな」


 他に聞かれまいとしてか、声を潜めながらアカネは続ける。


「ずっと魅力的だったもの」

「間違っていたカナタが?」

「間違っていたカナタは、カナタじゃないの?」


 質問に質問で返されたアオは少し言葉に詰まる。そんなアオにアカネは少し体を近づけて顔を覗き込む仕草をした。


「そんなこと言ってない」

「間違っていたとしても、あれがカナタだったと私は思うよ。今のカナタは……いいところが無くなっちゃったみたい」

「いいところって、例えば?」


 アカネは首をかしげる仕草をした。中途半端に崩れた固形食料が大きな欠片を落とす。


「ハレルヤが間違ってるって言ったカナタは凄く素敵だった」

「素敵って……。アカネの価値観はちょっと変だよ」

「上層区らしくない。そう言いたいんでしょ」


 またもストレートに心の中を探るような言葉を聞かされて、アオは眉間に皺を寄せた。向かい側に座るカナタは、そろそろ食事を終えようとしている。アオたちの会話など気にも止めていなかった。話しかけられれば応じるが、そうでない限りは周囲に対して反応を示さない。特別カリキュラムを受けた人間の特徴の一つでもある。


「だとしたら私は、きっと何かの手違いで上層区に来たんだよ」

「ハレルヤは間違えない」

「そうだといいね。私もそう思う。もしハレルヤが間違っていたら、きっと皆困っちゃうもの」


 少し幼い言い回しだった。アオには、アカネが何かを直接口にするのを避けているように見えた。


「ねぇ、アオ」


 アカネはスムージーを一口飲んで、そして無垢な表情で問いかけた。


「ハレルヤが無くなったらどうする?」


 食事の時間が終了することを知らせる音声が、天井から流れた。アオは条件反射で手を止めて、視線を正面へと戻した。カナタの何も感情の読み取れない目を見つめながら、アオは静かに呟いた。


「そんなことはありえないよ」


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