昨日と明日

 太陽が空を割いて昇ってくる音がしそうな、そんな朝だった。ソラは窓から差し込むその光に目を細めながら、膝の上に乗せていたノート型端末を閉じる。夜更かしを通り越して朝を迎えてしまうのは、別に珍しいことではない。きっとアオなら「規定の時間に就寝すべきだ」と言うのだろう、とソラは考えて、そして口元に笑みを浮かべた。脳内で思い浮かべたアオの姿は非常に鮮明だった。それまで漠然と想像していた、自分に良く似た虚像などとは比べものにならない程に。

 腰掛けていたベッドに寝転がり、天井を見上げる。不規則な軌道を描く汚れが、どこか人の顔にも似ていた。それらを目蓋を閉じることで遮断し、眠りに落ちようとする。しかし、ソラはすぐにその行為を止めると、再び起き上がった。


「ミドリ」


 その名を呟いたのは、その名を持つ女を呼ぼうとしたわけではなかった。自分の向かうべき先を確認しただけのことだった。あの不可解なサーバ筐体を譲り受ける。十時間ほど前に決めたことを、ソラは忘れてはいなかった。

 あの中に何が入っているかはわからない。古臭い構造、カビの生えたようなディレクトリ名。何が入っているかはわからない。何もないかもしれない。それでもソラは、一度決めたことを覆すつもりはなかった。


 ベッドから起き上がり、少し乱れた髪を手櫛で整える。それから床に落ちたままだったバックパックを掴み上げると、ノート型端末をその中に捻じ込んだ。荷物らしい荷物はそれだけだった。下層区で大仰な荷物を持ち歩く者はいない。何を持っても、何を持たなくとも、政策に振り回されて失い、あるいは勝手に与えられる。


「やぁ、おはよう」


 部屋を出ると、のっそりとした声がソラを呼び止めた。隣の部屋に住んでいる大柄な男で、まだ朝早い時間に起きているのは珍しい。ソラは一度だけ瞬きした後、少し乾いた喉から声を出した。


「おはよ。早いね」

「少し……早く起きてしまってね。こういう日は、ほら、虫が騒ぐというか、さ」


 要領を得ない話し方で男は続けた。

 同じ形の部屋を寄せ集めた集合住宅。住んでいる人間ですら見分けがつかないほど、そっくり同じ建物が連なるように建っている。一階あたり十人、十階建て、十棟。その数えやすくされた単位は、勿論上層部の政策のためである。住人をパーセンテージ化するのに、これほど分かりやすい指標はない。


「君は何歳だったっけ?」

「十八だよ」

「そうか」


 男は羨むような目でソラを見る。それが若さに対する羨望だったとしても、ソラには一切関係のないことだった。若いからと言って、何かが得られるわけではない。逆に言えば、歳を取ったからと言って嘆く理由もなかった。


「僕はもう四十二と三ヶ月だ。きっとそろそろ寿命が来る」

「まだ早いだろ」

「いいや、十分さ。四十だからね。四十年もただ生きてきた人間を、その年齢だからって生かしておく必要もないだろう?」


 男は少し語尾を震わせて、細く息を吐き出した。狭い廊下と、近接する隣の建物の壁に音が響き合う。


「なぁ、声が大きい……」

「昨日の価値に今日気がついても遅い」


 ソラの言葉を遮って、男はそう言った。


「そうして無為に無意味に昨日を積み上げて、一体僕は何をしてきたと言うんだろう。ねぇ、君。君は昨日の価値を知るには若すぎるかもしれないが、だからといって歳を取っていないということもない」


 廊下に響くその声の行方を気にしながら、ソラは少し辟易した気持ちで相手を見返した。男にとって、きっと話し相手は誰でも良かったのだろう。その頭の中に詰まった持論を惜しみなく吐き出せる者であれば、誰でも。ソラには全く理解できない行動理論だった。


「僕の人生というのは無意味な昨日の山の上にあって、未来なんてものはその昨日と差がないんだ。だからね、もう死んでいるようなものなんだよ。寿命が来てもおかしくはない」

「じゃあ今からでも何かすればいいだろ」


 ソラは突き放すように言った。これが暇な日の朝であれば、多少はその言葉に耳を傾ける振りをしたかもしれない。だが、ソラには急いで向かうべき場所があった。アオと過ごした昨日と同じぐらい大事な今日が、今も刻々と過ぎようとしている。それが我慢ならなかった。


「……何かって?」


 男はソラの言葉に、驚いたような表情で呟いた。


「今から出来る事なんてないじゃないか」

「そんなの、やらないとわからないだろ」

「それは君が若いからだよ」


 男は大きく頭を左右に振った。ソラから投げかけられた言葉を、脳内から振り払おうとするかのようだった。


「もう僕には何かする時間も、気力もない。昨日がぐちゃぐちゃと積み上がって、身動きが取れないんだよ。わかるかい?」

「わかったら、此処で話聞いてないと思うんだけど」

「あぁ、そうだろうね。わからないさ。君にはわからない」


 皮肉を込めて返したソラだったが、相手にはそれが全く通じていない様子だった。


「きっと今日だってすぐに昨日になる。それでもう少ししたら明日が……」

「なぁ、その話まだ続く?」


 ソラはうんざりとした気持ちを隠しもせずに訊ねる。男は肯定も否定もせず、中途半端に開いた口と目を、少し天井の方へ傾けた。


「俺さ、あんたが言うところの昨日じゃない今日のために出かけるとこなの。昨日のお話をしたいなら、昨日やってくれない?」


 男は天井を見上げたまま動かない。その姿は実際の年齢よりも遥かに老いているようにも見えた。もう何も話さないことを確信したソラは、自分より少し大きな体を押し除けるようにして廊下を歩き出す。


 ある程度の年齢に達すると、「人生」について語り出す人間が多くなる。そういった人間は程なくして寿命を迎えると噂されているが、ソラはあまり信じていない。単に異様な言動で目立っているから、寿命を迎えた時にも人目に付きやすいだけだと思っている。静かに寿命を迎える者の方が圧倒的に多い。

 どちらにせよ、ソラにはまだ遠い未来の話だった。

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