第310話 熱帯夜

 深呼吸をひとつ。

 俺は意を決して口を開く。


「エストを消したら、俺はみんなに忘れられてしまうらしいんです」


 それどころか、このまま生きていられるかも怪しい。


「死ぬことは怖くない。だけど、みんなに忘れられてしまうのは嫌だ」


 自分の気持ちを確認するように、言葉を紡ぐ。


「だから、悩んでます。どうするべきなのか。どうすればいいのか。俺には、自分がどうしたいのかもわかりません」


 しばらくの沈黙。

 先生も驚いていることだろう。


「忘れてしまうというのは、一体どういうことなんです?」


「詳しいことはわかりません。俺の存在はエストと紐づけられているから、エストがいなくなるとそれまでのことがなかったことになるみたいな。そんな感じらしいです」


「エストと紐づけ、ですか。それはまたとんでもない理屈ですね」


「まったくです。でも、そもそも俺はエレノアと違って非正規の手順でこの世界に来た。だから、世界にとって俺は異物なんでしょう。役割を終えたらそのまま消える。最初からそう決まっていたことなんです。いわゆる、運命ってやつですよ」


「でしたら、覆せますね」


 簡単そうに言う先生を、思わず見てしまう。

 白く華奢な手が、俺の手に触れた。


「ロートスさん。あなたは今までずっと運命に抗ってきたじゃないですか。来る日も来る日も、望まない未来を変えようともがいて。そうやって、一つ一つ乗り越えてきたでしょう?」


「そうなんでしょうか」


 確かに俺は運命を変えようともがいていた。くそったれな運命を変えられたと喜んだことだってある。

 だけどここにきて、それも全て最初から決められていた展開だったんじゃないかと感じている。

 俺の前に厳然と横たわる過酷な宿命は、それほどまでに残酷だ。


「ずっとあなたを見てきた私が保証します。今更そんなことで悩む必要なんてありません。あなたはきっと、悲劇の運命を使命の喜劇に変えられるはずです」


「先生」


 どうしてこうも自信満々に言えるのだろう。俺のことは、俺が一番わかっているはずなのに。

 だけど不思議だ。先生に断言されると、本当にそんな気がしてくる。案外、それが真理なのかもしれない。

 心配したところでいいことはない。楽観主義を投げ出したらだめだ。


「案ずるより産むが易し、か」


「ロートスさんの世界の格言ですか? なかなか含蓄のある言葉ですね」


 そうかな? あまりそんな風に感じたことはないけど。


「まぁ、今更やめるってわけにもいきませんからね。あれこれ考えるのは性に合わない。これまで通り、行き当たりばったりで突き進む。それでいきます」


「はい。それでこそ私の婚約者です」


 婚約者か。そういえばそうだった。

 成り行きで結んだものだけど、今でも有効なんだよな。


「安心してください。私は絶対、あなたのことを忘れたりしません。何があっても」


 実際どうなるかはわからない。

 近い未来、先生が俺のことを忘れてしまうかもしれない。

 だけど、今の先生の気持ち、想い以上にありがたいことはないんだ。


 俺はアデライト先生の手を握り、立ち上がる。柔らかく、すこしひんやりとして心地よい。


「ロートスさん?」


「部屋に来てください。俺という存在を、あなたの中に刻み込む」


「……はい」


 頬を染め頷く先生は、抵抗することもなく素直に俺に従った。

 この後、朝まで何があったのかは、言うだけ野暮ってもんだよな。

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