第五幕 失われた過去を求めて

「いやネモでいいよ。」

「そうですか。よろしくお願いします。ネモ。」

彼女はそう言うと優しく微笑んだ。


「おい。」

彼女の後ろから声が聞こえた。


上を向くと父が両手に食事を乗せた盆を持って立っていた。


「アニマ。君はまだ傷が癒えてないんだ。ベッドで戻って安静にするんだ。」

「ご、ごめんなさい。ネモが気になって・・・。」

「まあいい。食事を持ってきた。」

「ありがとうございます。」


「ネモ。お前は自分の部屋に戻っていろ。」

父は自分を見て冷たく言い放った。

自分はそれに対し、即座に睨みつけた。

父の部屋の灯りが逆光になって父の顔をより暗く映し出された。


「ねぇネモ。一緒にご飯を食べませんか?」

「え?」

「あなたとお話したいのです。」

「俺は別に構わないけど。」


突然の誘いに戸惑ったが嬉しいことだった。

自分を認めてくれる人間がすぐに見つかったこと。

父の顔を見ると、多少面食らったような顔をしていた。

わずかな変化だったがそういう変化が自分にとって少しだけ可笑しいと思った。


「そうか、なら構わない。」

父はすぐにいつもの無表情に戻って、アニマの提案を了承した。


父の部屋の中には父とアニマと自分がいた。

ベッドにはアニマが座っており机の上に置いてある食事に手をつけていた。

自分と父は椅子に座っていた。


「ヴィルヘルムさんはご飯は食べないのですか?私だけ食べているのはどうにも気が引けます。」

彼女は頬を少しだけ赤らめながら恥ずかしそうに言った。


「俺は大丈夫だ。」

父はすげなく返事をした。


「ネモは?」

「俺は必要ないよ。そもそも開く口もないし。」

「そうですか。」

と彼女は少しだけ目を見開いた。


自分は彼女になぜあの森で倒れていたのか聞いてみることにした。

「なんで森で倒れてたんだ?」

「それは私にも分からないのです。」

「分からない?」

「ええ、そもそも私は普通に月都で過ごしていただけでしたのでどうして森で倒れていたのか分からないのです。」

「そうなのか。」


彼女は本当に不思議そうな顔で思い出そうとしていた。

俯きながら自分の手に持っているグラスを見つめていたが何も思い出せそうになかった。


彼女は月都の人間だったという事実が自分の興味を惹いた。

自分が元々住んでいた場所でありながら自分の知らない場所。

そんな場所に住んでいた人間が目の前にいる。


「月都に住んでいるの?」

「ええ。」

「実は俺も月都に住んでいたらしいんだ。」

「そうなのですか?」

「そうだ。」

と父が割り込むように話してきた。


「俺は元々月都で教会の一員として都の警備をする監視者の一人として働いていたんだ。ネモと俺は6年前までは月都で生活していたんだ。」

「ネモはいつから体が義体に変わったのですか?」

「生まれた頃からだ。妻は元々身体が弱くてネモを生んだ時に死んでしまってな。ネモも危険な状態だったが精霊を取り出して、義体に移す手術を行ったんだ。」

「そうですか・・・。」


彼女は申し訳なさそうにしたを俯いた。


「気にかけてくれることには感謝するが気を負う必要はない。」

父は彼女に気にしないように言った。


「ネモ。俺はヴァイスマンの所に行ってくる。この子を見てやってくれ。」

そう言って父は部屋から出た。


父の部屋には自分とアニマの二人だけが残された。

しばらく彼女は食事をしてたが再び口を開いた。


「ヴァイスマンさんとはどんな人なんですか?」

「先生か?先生も一緒で月都で医者として働いていた人だよ。」

「そうなんですね。」

「しかも俺の義体の手術を担当したのは先生なんだ。」

「ヴァイスマンさんは今仕事中なのですか?」

「違うよ。もう先生は病気でずっとベッドで寝ているんだ。」

「病を患っているのですか?」

「ああ。もうあの年だからな。でも話をしてくれるんだ。月都のことだったり、町を旅する旅人の渡り狼の話だったりだとかさ。」

「ネモはヴァイスマンさんのことが好きなのですね。」

「もちろん。先生は賢くて優しいんだ。」

「ネモは月都にいた頃は何をしていたのですか?」

「実は俺月都にいた頃の記憶が無いんだよ。」

「どうしてなのですか?」

「先生が義体を年相応の体に取り換える手術をしている時に間違っちゃたらしいんだ。それで月都に住んでいた頃の記憶が無いんだ。」

「それは・・・大変ですね・・・。」

「別に困ったことは無いから別にいいんだ。だからまた月都に行きたいんだ。だからさアニマ。月都のこと教えてくれないか?」

「ふふ・・・。いいですよ。」


それから彼女から月都のことについて色々な話をしてくれた。

中心を照らす月やそれを支える樹のこと。たくさんの建物が建っていて、常に賑やかでドゥンケルナハトの中では最も明るく暗い所なんて一つもない所など彼女の話はどれもがとても新鮮に感じ、自分がその中で生きていたのかと思えないほど新しく感じた。



「ヴァイスマン食事はいるか。」

「おおヴィルヘルムか。いや今日は辞めておこう。昔は旺盛だった食欲も萎びた茎のように細くなってしもうた。すまんが代わりにお茶と茶菓子をくれんかのぉ。」

「構わない。」


ヴィルヘルムは部屋を後にして、盆に茶と茶菓子を持って部屋に戻ってきた。

そしていつもの食事の用意をするように机と椅子を用意した。

盆には茶菓子が置かれた皿とお茶が二つ用意されていた。


「珍しいのぉ。お主が茶に付き合うとはな。」

「今日は飲みたい気分だったんだ。」

「こうして茶を交えるのはいつ以来かのぉ。」

「月都で最初に会った時じゃないか?」

「そうだったかのぉ。その時はお主は監視者の服装を着て、わしは白衣を着てもう少し豪奢な場所で明るい場所であったな。」

「灯りを点けようか?」

「いや構わぬ。星空の下でお茶を嗜むというのも乙なものだ。」


ヴァイスマンは茶菓子を一つ手に取り、それを茶に浸して食べた。

そして窓の空に目をやった。星の光は相変わらず部屋を優しく照らしている。


「この星空は変わることはないが儂達の中には多くの時間が流れた。そして儂達を取り囲むものも移り変わっていった。そして儂達の中も変っていった。そしてこれからも変っていくだろう。」

ヴァイスマンは星を見ながらそう呟いた。


「ああ、そうだな。何もかも変ってしまった。」

ヴィルヘルムは茶に目をやった。

カップの中には自分の今の顔が映し出されていたが昔の自分と幻視したような気がした。

自分の周りにあったものは全てどこかへ行ってしまった。

今はなんとかこの小さな家に何とか閉じ込めている。


「何やらお前の部屋がちと騒がしいのぅ。」

ヴァイスマンは扉に目を向けた。


「ああ、森で倒れている少女を助けたんだ。今は目を覚ましてネモと話しをしている。」

「おお、それは行幸。ネモに友達ができたのか。それは嬉しいことだ。」

ヴァイスマンは低く笑った。


「だが森に倒れているとは物騒な話じゃな。」

「ああ、彼女は月都で母親といたらしく、森までの記憶を憶えていないそうだ。」

「精霊器を使ったのか?」

「いや精霊銃の類は見つからなかった。」

「なんとも不思議な話じゃのぉ。」

「ああ、だが何れにしても教会に連れて行けば月都に帰れるだろう。」

そう言って暫く沈黙が続いた。


ヴィルヘルムは茶を一口飲むと再び口を開いた。


「ヴァイスマン。」

「なんじゃ?」

「いつも感謝している。」

「こちらこそ感謝しているとも。こんな老いぼれの世話を引き受けてくれて心の底から感謝している。」

「いやいつも世話されたのは俺とネモの方だった。」


互いに視線が交錯した。

そしてヴァイスマンは再び窓に視線を向けた。


「儂の命が薄れるにつれて星の灯りはより輝きを強めていると感じた。それは移り行く我々をただ残酷に見下ろす星に嫉妬を抱いているのだと思っておったがそれは違った。移ろうからこそ、私たちの命に限りあるからこそ私の体はより生を意識するのだ。私の体はまだ生きているのだと私の目は星を輝かせたのだ。」

「何が言いたいんだヴァイスマン。」

再び視線が交錯した。


「ヴィルヘルム。移ろうことを恐れるな。」

賢人の瞳はヴィルヘルムを映していた。


第五幕 失われた過去を求めて 完








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