第68話 青い瞳のエンチャンター。

 邪悪が解き放たれた時、エインセルはその邪悪の存在を見極めるべく丘へと意識を集中した。

 丘で見たものは毒々しい深緑のガスが裾野に向かって拡がって行く景色。

 トラックに積まれた緑色の大きなボンベから延びる管が幾本も並べられその先端は村へと向けられていた。

 ボンベのコックを防毒マスクと防護服を付けた兵隊が捻る。

 〈プシュー〉と気体が流れ出る音がして管の先端から深緑のガスが噴き出る。

 風が止んでいる丘を深緑のガスは50センチ程の層を形成して〈ドプンドプン〉と波打ちながら流れ出す。

 丘の傾斜も手伝って深緑のガスは徐々にスピードを増す。

 エインセルにもこの深緑のガスが危険なものだと言う事は直感した。

 急ぎ地下の部屋に意識を戻す。

 どうしよう。

 両親の居る二階に駆け上がろうと地下室のドアを開け放つ。


 ドアで堰き止められていた深緑のガスが〈ドーッ〉流れ込んでくる。

 もうここまで来ている。

 間に合わない。

 間に合わない。

 知らせる前に自分が深緑に飲み込まれる。


 まだ小学校低学年のエインセルもうガスは首まで来ている。


 ずっと一人切り地下で過ごすが村人全員は一人残らず知っている。

 遠くから見ている事しか出来ない普通の寂しさどころでない孤独の暗闇。

 そして唯一の理解者であるこの世で一番大事な両親を助ける事も出来ない。

 〈ズーンズン〉と心が圧縮されて口から心が飛び出しそうになる。

 ガスは顎まで来ている。

 私は何も出来ない出来ない。

 でも守りたい守りたい。

 口から心が地下室の床石に〈ペチャリ〉と落ちた。

 床石のずっと下から湧き上がる様な鳴動が始まる。

 幾人もの者らの呪詛が聴こえて来る。

「ドルイドの盟約ここに結実する」

「エンチャンターとして汝を再生する」

「さ、悠久の流れを共に歩まん」


 エインセルはもう頭まですっぽりとガスに沈んでいた。

 エインセルの口がパクパク動く。

 吸うは毒ガスしかない。

 身体が深緑色の斑点で覆われ腐臭が漂う。


 身体が腐敗した樹木の様に〈ボロボロ〉と崩れる。

 そして床石に粉となって舞い落ちる。


 何も起きなかった。


 孤独な生涯は孤独のままで幕を閉じた。


 エインセルを囲んでいた人形達も静かに佇む。


 〈ケラッ〉

 〈ケラッケラケラケラ〉

 人形達が笑い始める。


 エインセルが一番寵愛していた青い瞳のフランス人形が〈ムクッ〉と起き上がり踊り始める。

 宙に浮き上がると二階へと飛び去る。


 二階から一階へと続く階段でメアリーは泣き叫んでいる。

 その片方の手はジョセフの手で繋ぎ止められている。

「行っちゃいけない!メアリー行っちゃいけない!」

 その声は絞り出す様な呻き声。


 だがジョセフも朧げもう行こうかと心が揺らいでいた。

 エインセル一人を逝かせる訳にはいかないじゃないか。

 逝くなら親子三人一緒だと…。


 ジョセフの手の力が緩み始める。


 メアリーが嬉しそうに振り向きながら階下へと身体が傾き落ちる。


 何が起きたか分からないままのこの理不尽な状況。


 でも親子三人の絆は確かにここにある。

 それだけでいいんじゃないかな。


 メアリーの身体の傾きが止まる。

 メアリーの身体を階下の階段からエインセルの背丈の半分も無いフランス人形が支えていた。

 そして二階へとそのまま担いで上る。


 ジョセフにはメアリーが宙に浮いて戻ってきた様に見えた。


 二人を二階の部屋に担ぎ入れるとフランス人形は小さく社交界風会釈をする。

 そして小さな手で空中に円を描くとそこに青い空間が開く。


 その中に丁寧にジョセフとメアリーを誘う。


 不思議と二人には違和感無くそのフランス人形の行いを受け入れられた。


 青い空間へと二人が入り振り向き様に見たフランス人形の青い瞳はエミリアの瞳と同じだと感じた時、その人形の姿は幻の様に消え去り〈ニコニコ〉と手を振るエミリアの姿と成っていた。


 〈ハッ〉と青い空間から飛び出そうとするメアリーが伸ばした手よりも早くエミリアの開いた掌が閉じる。

 同時に青い空間は閉じ消える。


 二階の部屋にはポツンとフランス人形が立っているだけ。



 丘の上では黄色いタンクを載せたトラックが新たに配置されている。

 ドクトル・ジゴバがバルブを緩める指示をする。

 黄色い気体が流れ出る。

 深緑のガスに追いつき交わると〈パチパチ〉とスパークする。

 管の操作をする兵士の肩を〈ぽんぽん〉と叩き慰労するとジゴバは丘の上に向かって歩き始める。


 丘の上まで登り詰めたジゴバは満足そうに笑みを浮かべて懐中時計を眺める。

 10分経つと手に持っていた雷管のスイッチを鼻歌まじりに捻る。


 黄色いタンクのトラックから轟音が起こり火花が迸る。

 操作していた兵士も飛び散る。

 その火花は黄色いガスに引火して深緑のガスの軌跡を追う様に炎の帯となって吹き荒れる。


 村は炎に包まれ、アイルランド兵の駐屯地をも焼き尽くす。


 既に屍人の棲処と化した村がその物理的な痕跡さえも灰塵に帰し消え去る。


 丘の裏手から飛行船が飛び立つ。

 窓にはジゴバがニヤニヤと眼下を満足そうに眺めている。


 ジゴバに紅茶を運んできた将校が腰を抜かす。


 ジゴバの首は捻じ切れていた。


 足元には人形の髪の毛らしきものが落ちていた。

 その無機質の髪の毛は命の途絶えなきままに悠久の孤独を漂うエンチャンターの哀しみが透けて見えるようだ。

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