甘木奈々子
11-1
昼休みが終わる少し前に教室に戻ったが、松成敬輔の姿はなかった。
いつも一緒にいる君津雄大に訊いてみるが、
「会わなかったのか?」
と言われただけで、どうやら居場所を知っているようではなかった。
さてさて、もう五時間目だ。次のプールの授業と最後の情報処理の授業が終わったら、帰りのホームルームを挟んで放課後だ。
このまま誰宛のラブレターかわからなかったら、誰も敬輔に返事をすることができない。
それでいいのか敬輔よ。いやいいわけない。
でも、敬輔はどこかに行っちゃって、誰宛のラブレターか訊くことも難しそうだ。
なんで昼休みのときこちらを見ただけで逃げてしまったのだろう。本人と会えないからその理由を聞くことすらできない。
しょうがない。
奈々子はポケットからラブレターを取り出した。
これは敬輔に返そう。
本人じゃない人に渡されるよりは、そのまま返されたほうがましだろう。
奈々子は敬輔の机の中にラブレターを入れた。
今度はちゃんと誰宛なのか封筒に書いておくんだよ。
チャイムが鳴る。
男子生徒は全員教室から出ていく。プールサイドに更衣室がないので、男子は一階の倉庫で、女子は教室で着替えることになっているのだ。
「結局誰宛かわからなかったの?」美姫がブラウスのボタンを外しながら言った。
「うん。だから机に戻しといた」
「松成も馬鹿だというか、ぬけてるというか。なんで誰宛かちゃんと伝えないのかね」
「敬ちゃんはそういうとこあるからね」
そして一生懸命なのにどこかぬけてるとこもまた好きなのだ。
ああ。だめだ。考えてるとほっぺたが熱くなってくる。
「大丈夫? 顔赤いよ?」
「あ、暑いからかな?」
「確かにそうだね。今日のクーラーは怠けすぎ」
美姫は手をうちわのようにぱたぱたと振った。汗をかいていてもその美貌に陰りはない。
「でも、あたしはあのラブレターは奈々子宛だと思うけどね」
「えっ?」あまりの驚きに潰れたような声が出た。「なんで?」
「なんでって言われても他に思いつかないし、松成の様子見てたら奈々子のことが好きなんだろうなってわかるよ」
そうなのだろうか。自分では全然わからない。むしろ敬輔は美姫のことが好きだと思った。
「奈々子はどうなの?」
「どうなのって?」
「好きなの? 松成のこと?」
「えええ?」思わず大きな声が出て、慌てて自分の口を押さえる。
美姫はすでに着替えていて、上からジャージを着ていた。
「そんなに驚くこと?」呆れたような、おもしろがるような顔で美姫は笑ってる。
「いやいや。わたしなんてそんな」
「好きじゃないの?」
「……そういうわけじゃないけど」
奈々子は美姫の顔を見る。
だってまだ敬輔が美姫を好きだという可能性は残っているのだ。だとしたら、ここで自分が敬輔のことを好きだと言って、あとから敬輔が美姫に告白したら、それはとんでもなく気まずい空気を生み出すことになる。
気まずいのは嫌だ。できれば穏便に、幸せに、楽しく学生生活を送りたい。
「なんというか。考え中というか」あははと奈々子は笑った。だって、自分でもどうすればいいかまだ悩み中なのだ。
「そ。ならいいけど」
美姫は納得してなさそうな顔をしていたが、それ以上は何も訊いてこなかった。
校舎を出て、屋外にあるプールに向かう。
ジャージをプールサイドの隅に並べて、塩素のシャワーを浴びて全員が揃うのを待つ。
足の下に広がる緑色の地面とプールの青を見比べる。色鮮やかな視界の中で水面が太陽の光を反射して輝いている。
風が吹いて水が揺れ、小さな波ができる。それを目を細めて眺めながら足の指をぎゅっと丸めて身体を固くした。
どうしたものか。
初恋というものはもっと楽しくて、うきうきして、世界の見え方がまったく変わるような幸せなものだと思っていた。
けれど、どうにもすっきりしない。
もやもやする。
ああ、もう今すぐプールに飛び込んで大きな水しぶきを立てたい。
そんな妄想をしていたら体育教師が点呼を始めた。
「ん? 松成敬輔と君津雄大は休みか?」
体育教師がそう言うと、生徒の中に小さなざわめきが広がった。
「松成なら四時間目から保健室に行ってます」
男子生徒のひとりが言った。
「あれ、けどさっき普通に昼飯食ってたの見たぞ」
「体調よくなったとか?」
「そのあとまた悪くなったのかな?」
「二人で具合悪くなったのか?」
生徒たちが口々に言いたいことを言っている。
さっき倉庫にいたという会話や、様子がおかしかったというささやき声が耳に入ってくる。体育教師はそれらの会話を拾っていって状況を把握したのかため息をついた。
「まあ、いるならそのうちくんだろ。後で本人たちから詳しく事情を確認する。それじゃあ始めに準備体操してから泳ぎの練習だ」
体育教師の指示で身体の筋肉を伸ばす。
奈々子はストレッチをしながら隣にいる美姫の身体を横目で観察した。
手足は長く細い。身体全体からは華奢な印象を受けるのに、胸だけは主張するかのように大きく膨らんでいた。きめ細かい肌は荒れるなんて言葉を知らずに生きてきたかのようだ。つやのある黒髪は光沢があり美しい。
奈々子は自分の身体を見下ろす。胸はないし、身体も小さい。
髪もくせがあるし、頭もそんなによくない。おまけに25メートル泳ぐのが精一杯という運動音痴。
人間というのは不平等なものだ。自分にも美姫ほどの容姿の良さがあったら、もっと自信をもって色々なことができただろうか。
そこで不平等に対してひがみにも似た嫉妬をし始めている自分に気づいて、見た目だけでなく心まで醜くなっていくのかとげんなりした。
おいおい。せめて心は清らかでいようよ。
心のデトックスを行うために目を閉じて風のせせらぎに身を任せた。
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