甘木奈々子

6-1

 四時間目の途中、具合の悪くなった敬輔を保健室に連れて行っていたら、急に尿意を覚えてトイレに寄らせていただいた。

 いやはや尿意というものは不思議なものだ。

 こちらの気持ちなんてお構いなしに突然現れる。

 でもひとりでいるときじゃなくて、敬輔がいるときでよかった。保健室に敬輔を送ったあとだったら一人っきりで尿意と戦うことになっていた。それは避けたかった。

 もしかしたら、尿意が気を利かせて敬輔がいるときに現れたかのかもしれない。

 なんだ。意外に空気を読むじゃないか尿意のやつめ。

 手を綺麗に洗って外に出る。

 敬輔に感謝を述べたら突然白い封筒を渡された。とりあえず封筒を透かしてみたりする。

 と、不意に再び下着に違和感を覚えた。昨日の夜に感じたのと同じ感覚だ。

「なんだぁ?」

 スカートをちょっと捲って自分の下着を確認する。眉間にしわが寄る。いったいこの下着に何があるのだろう。

 確かにこの下着は父親から贈られたいわゆる特別な下着だが、何か特殊なつくりになっていたのだろうか。少し自分のパンツを指で押してみる。

 変化はなし。

 スカートを捲ってまじまじとパンツを見ているというのもおかしな話なので、奈々子はパンツの異変をとりあえず置いといて自分の手にあるものを見た。

「さてさて」

 奈々子は大きなため息をついて、封筒を握った手で顔を覆い隠した。

「現実となってしまったね」

 敬輔が走り去った方を眺める。

 もうそこには誰もない。顔を真っ赤にして敬輔はこの手紙を渡した。きっと沢山の勇気を振り絞ったのだろう。それだけの思いがこの手紙には込められているのだ。

 ただ、それが女子トイレの前というのは、ムードがないというか敬輔らしいというか。

「今さら保健室に行ってもしょうがないよね」

 奈々子は保健室と書かれたプレートに一度視線を送ったあと、踵を返した。

 白い封筒を見つめる。敬輔はこれをラブレターだと言っていた。

 誰宛かは言っていなかったが奈々子はわかっている。

 ついにきたかと静かに深呼吸した。

 上戸美姫を思い浮かべる。二つに結った腰まで伸びる髪。身長は高く、スカートから伸びる足も長い。顔も整っていて、胸も大きく、男子からの人気も高い。

 美姫は綺麗だ。自分なんかが逆立ちしたって叶わないほどの美貌を持っている。

 そうだ。この手紙は美姫宛に書かれたものだ。

 いつかはこうなるとは思った。やっぱり敬輔は美姫が好きなんだ。

 まあ、それはそうだろうなと思う。自分もそうだが敬輔も高校二年生だ。恋だって普通にするだろう。誰かを好きになることはきっと自然なことで、何もおかしいことはない。好きになった人が美姫ということもセンスがいい。

 美姫は容姿だけでなく内面も綺麗なのだ。自分が男子高校生だったとしたら、間違いなく美姫を好きになる。ええ、そうですとも。

 美姫の父親は有名商社に勤めていて、母親も結婚する前はアナウンサーをしていた美人さんだ。美姫も小さい頃から可愛がられて沢山の愛を注がれて素直で純粋に育った。

 だいたい美姫という名前がすごい。娘にこの名前をつけるのは相当な覚悟が必要だ。美しい姫。万が一見た目がよろしくないように育ったら、それはそれはおかしなことになる。その名前に負けない美貌の持ち主、それが上戸美姫だ。

 それにしても、みんな美姫のことを好きになりすぎじゃないだろうか。君津雄大も一ヶ月前に美姫に告白した。こうもみんながみんな同じ人を好きになって、世の中というか、男子高校生の恋愛構図は大丈夫なのだろうか。

 まあ、そんなことを心配してもしょうがないのだが。

 封筒を見る。とにかく敬輔は美姫に思いを伝えたいんだ。そして奈々子を信頼してこの封筒を手渡す役を任せた。

 よろしく、と言っていた敬輔の顔を思い出す。

 この手紙を自分は美姫に渡さなきゃいけない。自分が敬輔と美姫の間を取り持つのだ。

 これはなかなかにしんどい役を与えられたものだ。好きな人と自分の友達がつき合うための橋渡し。

 項垂れる。

 さてさて。

 どうするんだ奈々子よ。

 というかさ。

 自分のスカートの向こうにあるパンツを睨みつける。

 全然効果ないじゃん。

 なんのためにわざわざ履き替えたんだか。

 もしかしたら効果があるのではと少しでも期待してしまった自分が恥ずかしい。

 ため息を漏らしながらとぼとぼと教室へ足を進める。

 体をゆらゆらと揺らしながら過剰に落ち込んでいる様を自己演出していたら、ふと頭に浮かび上がってくる違和感。

 ん? なにかがおかしいぞ。

 足を止めて再び敬輔から渡された封筒に目を落とす。

 この封筒を渡すときに敬輔はなんと言ってただろうか。

 ラブレター。

 今日の放課後までに返事がもらえたらいい。

 口元に手を当てて考える。衝撃と動揺で思い込んでしまったが、冷静に思い返すと敬輔はこの手紙を美姫に渡して欲しいとは一言も言っていない。むしろ、状況とセリフだけを客観的に振り返ればラブレターは直接本人に渡されたと言えなくもない。本人というのは、それは、すなわち。

「わたし……?」自分で自分を指さしてみる。

「いや、ないないない」手を振って否定してみる。

 お湯が沸いたやかんのように自分から湯気が噴き出ている感覚。体温計なんてなくたって今の自分が高温多湿なのは間違いない。いや、体温計じゃ湿度は測れないけど。でも、だって汗が止まらないわけだし。汗が出てるってことは湿度も高いんじゃあないでしょうか。というか思考が嵐のようにいろいろなものを巻き込んで混乱の極みです。

 自分の頬に触れる。熱い。きっといま顔は真っ赤だろう。

 そんなことがあるのだろうか。敬輔が実は自分のことが好きだったなんていうどんでん返しが。

 もしかしてあれですか。父親がくれたパンツの効果がびっくりするほど発揮されちゃってるってことですか。

 へいへい。グッジョブですよパパさん。小さくガッツポーズをつくる。

 でもつくってすぐに、いやいやそんなわけないでしょ、という冷静なつっこみが心の中の浮かれた自分をはたく。

「えええええ。そうなの?」小声で、だけど振り絞るように吐き出す。

 天井にある蛍光灯に封筒をかざしてみる。どうにかして中を覗くことができないかしら。封筒には宛名が書かれてない。けれど、ラブレターならきっと中には相手の名前が書かれているはずだ。角度を変えてみて何度も試してみるが、どうやっても中を覗くことはできない。いい封筒をつかってますこと。

 封筒を開けて中を見てしまうことも考えたが、万が一これが美姫宛だった場合は盗み見たことになる。それは卑しいというか、下品だ。

 まあ、封筒を透かして見ようとすることもすでにお上品とは言えないが。

 うんうん唸りながら考えても一向に答えは出ない。

 いったいこのラブレターは誰宛なんだ。

 本人に確認したくても敬輔はすでに目の前から消えてしまっている。教室に戻っているのだろうか。それなら恥を忍んで敬輔に確認したほうがいいだろう。向こうも恥をかくかもしれないが、それでも間違った人にラブレターが渡されるよりはだいぶマシなはずだ。それに若いうちは沢山恥をかいたほうがいいって偉い人が言ってた気がする。

 名前は忘れたけどね。

 そう思って自分の教室へと戻った。後ろの扉を開けると教室中の視線が集まる。

「どうだった?」教師に訊ねられる。

「えっと、それが、どうにもよくわからない状況で」とにかくラブレターが誰宛かわからないうちは動きようがない。「まずは、それを確かめようかなと」

 教師が訝しそうに表情を歪める。

「なにか重たい病気の可能性があるってことか?」

 そこで自分が勘違いしていたことに気づく。

 そうか。ラブレターのことじゃなくて、敬輔の体調のことか。

「あっ、いえ。敬ちゃんは大丈夫だったんですけど……」

 もごもごと口ごもりながら答えると、そうか、と教師は返した。

 とそこで、教師が何かに気づいたように声をかけてくる。

「お前も顔が真っ赤だけど大丈夫か?」

 その言葉を聞いてさらに赤面するのを自覚する。

「大丈夫です」

 俯いたまま早足で自分の席に戻った。

 ちらりと視線を移動させる。敬輔の姿が教室になくて、これは困ったことになったぞと首をひねった。

 いったいどこに行ってしまったのだろう。

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