第8話 「救世主女たらし伝説」 その10


 鏡には。


 水が滴る良くない男、つまり僕がくっきりと映っていた。


 ドラマにあるワンシーンのように、顔に水を叩きつける。今日あったーーーーいや、今日というかこの数時間であったことを払拭したいと願う僕の弱い気持ちがそうさせていた。


「……疲れたぁ」


 思わずため息が漏れる。


 頭のおかしな人間が半数を占める部室にいると正常な精神もやられかねないーーーーと言いたいわけではない。

 

 僕の心で木の枝のように大きく引っかかっているは、四葉、ただ一人だった。


 迷いと不安が消えないのはもちろん、僕自身の気持ちはあまり整理できていない。


 ——ただ、結論は出ているのだ。僕はあの時、しっかりと決めたのだ。彼女が僕に向けている好意を素直には受け取れないと。今は家族で、兄妹で、いくら法律で良しとされていても、僕にはそれが認められないと……。


 ……いや。


 家族という括りの中に、そんな感情を持ち込んではいけないという一般的な価値観から、僕という仮面を被った人間は受け取りたくはないのだろう。


 鏡に映る額の傷を見て、ふと——昔を思い出した。


 おそらく幼稚園の時だったと思う。家族ぐるみの付き合いもあり、同じ幼稚園の年中くらいだっただろうか。一度だけ、年中だけで大きな遠足があった。今考えてみれば近所の公園に行くただの軽めな遠足だったが、その頃の僕らには大きく見えていたのだろう。


『ゆずとぉ』


 小さな僕に話しかけたのは同じ組の井上四葉だった。


『どうしたの?』


『えんそくぉ、いっしょ、にいくで、しょ?』


『うん! いこう!』


 これは遠足での決まり事で、二人一組で手を繋いでいかければいけないため僕はそんな四葉の誘いを清々しく受け入れた。

 

 そして、当日。


 何の間違えもなく、それは始まった。その公園まではおよそ2キロ。たったの2キロだが僕たちには遠く見えていた。


『みてみて、わんちゃんだよ‼』


 うらやましいほどに幸せそうな笑み、握っている小さな手からはその温かさと楽しさがひしひしと伝わってくる。


『おぉ、ほんとだね! かわいい!』


 ただ、そんな感情の機微にあの頃の僕は気づけるはずもない。そんな瞬間が、彼女と二人手を繋いでいる時間が楽しく、愛おしく感じられていた。


 ゆったり話して、先生に着いていって、後ろや前に並んでいる他の子たちの笑顔を見て、また楽しく話して……時間はあっという間に過ぎていった。


 そんな気の緩みが僕たちを危ない世界へと引きづり込んだのかもしれない、頭がおかしくなっている今の僕は、これが始まりだったのではないのかと思えていた。


『ねえねえ、あそこの川、みにいかない?』


 誘ったのは僕だった。


 指さして訪ねた僕を嬉しそうに受け入れた四葉を連れて、こっそりとその場を離れた。


 ぺちゃぺちゃと、中に入って遊ぶ僕たちには周りが見えていない。小さな小川の隣には赤い文字でしっかりと、『野犬出没中』と書かれていた。そんな難しい文字を読めるはずもなく数分間と水辺で四葉の手を取って遊んでいた。

 

 おそらく、先生が僕たちに気づいて慌て始めていたその時。


『ガゥゥウヴヴヴゥ‼‼』


 ドスの効いた威嚇音。

 周りには人の姿がなく、その唸り声を向ける先は明らかに僕たち二人だ。


『ッひゃ⁉』


『っ——⁉』


 瞬間、僕たちは抱きついた。体温が高丸野を感じて、先生に怒られることよりも何倍もある恐怖と直面する。


 恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、巨大な牙をこちらに堂々と見せつけて構える、今にでもこちらに走り込んできそうな格好をしていた野犬だった。


 本当に、そこからは地獄だったと思う。

 四葉を背中の後ろに隠して、震える脚を何とか立てて大きく威嚇するように嗚咽の混じった声を出す。野犬の凄まじい眼光に身体中の震えは止まることを知らないがこぶしを握り締めて何とか正気を保つ。


 すると、奴は僕たちに圧し掛かり大きな爪を立てて攻撃を開始した。


 ——そう、そこで頭についたのが縫い目のあるこの額の傷だった。


 大きくギザギザに引き割かれてえぐれた額の皮。痛すぎて忘れてしまったのか、当時のことは鮮明に覚えていない。気づけば、病院で大泣きして喚いていたような気がする。それはそうだろう、自分よりも大きな体の動物が襲ってきていたのだから、こちらは恐怖で何もできなかった。


 先生にこっぴどく叱られて、親にも散々怒られて、彼女自身にも少しだけ距離をとられたあの日。


 そんな日が今の僕たちに重なっているようで——気のせいと分かっていても、変な風に感じてしまった。

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