天使の国

佐藤里

序章 天使と悪魔

第1話 来栖

 来栖くるすは目の前に広がる平原を見渡し、小さくため息を吐いた。毎日、朝から晩までなんの変哲もない平原を眺めているだけでは、ため息の一つも吐きたくなる。こんな調子では腕が鈍ってしまう。来栖は腰に下げた刀に手をやった。


 神州しんしゅうの国境線に沿って建てられた石壁、その上に来栖は立っていた。来栖がここに来たのは三日前、念願だった国境警備隊への入隊が認められたのだ。意気揚々としてやって来た来栖だったが、一向に敵が現れる気配もなく、ただひたすら地平線を見つめる日々が続いていた。


「もう、内地に戻りたくなった?」

 背後から美智花みちかに呼びかけられ、来栖は振り返った。

 美智花は耳にかかる程度の黒髪に日に焼けた小麦色の肌をした少女だ。顔にはまだ幼さが残っており、二十歳の来栖よりも更に若く見えた。

 国境警備隊の印の入ったきものすぼんといった基本的な服装をしているものの、褶の襟ははだけ、サラシを巻いた胸元がチラチラと見えていた。随分とだらしのない格好だ。

 装備も腰に下げたライフルのみで、彼女からは緊張感のカケラも感じない。


「そんなわけないだろ」来栖は答えた。

「ふーん。じゃあなんのため息?」美智花が言った。「てか、敬語は?」

「……緊張感が無さすぎじゃないか?」来栖は周囲を見渡した。

 大半の警備隊員達は石壁の上で、酒やタバコを嗜みながら談笑している。まともに平原を監視しているのは数人だけだった。

「いいじゃない、それだけ平和って事なんだから」美智花があっけらかんとした口調で言った。

「それじゃ、いざ奴らがやって来た時に対応出来ないだろ」

「対応って言っても別に私達が直接戦うわけじゃないし……」そこで美智花は来栖の表情に気づいた。「アンタまさか戦おうなんて思ってないわよね?」


「戦うに決まってるだろ」来栖は凛とした声で言った。

「馬鹿なの!?」美智花が声を荒げた。「人間が敵う相手じゃないって知ってるでしょ!?」

「やってみなきゃ分かんねーだろ」

「やらなくても、歴史が証明してるでしょ!人間じゃ奴等に敵わないって……」そう言って美智花は、はぁとため息を漏らした。「勝手な行動はしないでよね。怒られるの私なんだから」


 美智花は新人である来栖の教育係だった。しかし、その見た目と、その軽い態度から来栖はどうも美智花を敬う気持ちになれなかった。


「とりあえず私達は何も起こらない事を願いながら、適当に過ごしてればいいのよ」美智花が言った。「あとは天使様がなんとかしてくれるから」


 神州には天使と呼ばれる存在がいる。

 天使は首都、明州都あすとにそびえ立つ柱に住み、そこからこの国全てを管理していた。

 天使の役割は大きく分けて二つ。一つは今際の際に人の前に現れ、その魂を天に導く事。二つ目はこの国の外に存在する悪魔から神州の人々を守る事だ。

 そんな天使をこの国の人は皆、崇拝している。幼い頃からそう教育されているのだ。天使様の言う事は絶対で逆らう事は許されない。逆らえば天国に行けず悪魔になってしまう。来栖自身もそう言い聞かされて来た。


 しかし、今の来栖は違った。

「俺は天使に頼るつもりはない」

 来栖の言葉に美智花は目を丸くした。

「ちょっと!何言ってるの!そんな罰当たりな事を言うなんてアンタおかしいんじゃないの!?」

「……かもな」


 来栖の脳裏に、十年前に亡くなった妹のことが過った。

 妹と一緒に隣町まで行った時の事だ。突然目の前に現れた悪魔に来栖達は襲われた。

 国境付近ならまだしも、内地に悪魔がいるはずがなかった。初めて見る悪魔に、訳も分からず来栖は逃げた。

 その後、現れた天使によって悪魔は倒され、来栖も妹も軽傷を受けていたが命に別状は無かった。

 助かった、そう思ったのも束の間、天使は言った。「妹は悪魔に呪われた」と。

 そして、妹は目の前で天使に殺された。

 その日以来、来栖は天使を信じる事が出来なくなった。


「はぁ、やっと後輩ができたと思ったのに、生意気だし、変なこと言うし……」美智花が呟いた。

 そこに男が一人やって来た。

「美智花。来栖と仲良くやってるか?」

 警備隊長の戸狩とがりだ。

「戸狩隊長ー……。なんで私が教育係なんですかぁ?」恨めしそうに美智花が言った。

「なんでって、お前後輩ほしがってたろ。それに歳も近いし」戸狩が顎の無精髭を撫でた。「なんだ上手く言ってないのか?」

「いえ……」そう答えたのは来栖だった。「美智花先輩には良くして貰ってます」


「ふむ……それなら良いんだが……」戸狩は少し考える素振りを見せてから「まぁ、そう気張らなくても大丈夫だ。気楽に行け」と来栖の肩を叩いた。

 その言葉に来栖は落胆した。

 自分を思っての言葉だという事は分かるが、今聞きたかった言葉では無かった。「一緒に戦おう」「悪魔を倒そう」そう言った気概のある言葉が欲しかったのだ。


 来栖はここに来るまで、内地で悪魔と戦えるよう己を鍛えて来た。武術や射撃の腕はそこそこな物で、将来は警官になった方が良いと散々言われた。

 その時は前線の方が良いに決まっていると思ったが、この現状を見ると、彼等の言葉は正しかったと思わざるを得ない。


「おい、あれ!」

 突如、隊員の一人が声を上げた。彼は望遠鏡を構えて、平原を見ていた。

 来栖も彼の視線の先に目をやった。

 平原に動く小さな黒い点が見えた。

 来た。悪魔だ。


「どうだ?こっちに来そうか?」戸狩が望遠鏡を構える隊員に尋ねた。

「まだ、距離があるのでなんとも言えませんが……おそらく」

「わかった。警戒態勢を取るぞ。喇叭トランペットの準備をしろ」

 戸狩がそう言ったと同時に、来栖はそっとその場を離れた。

 向かう先は、壁門の開閉室である。この時の為に来栖は何度もシュミレーションを重ねていた。

 開閉室の扉を潜る。幸い中には誰もいなかった。それもそのはず、この石壁の向こうに行く人間などいないのだ。扉を開ける必要がない。

 来栖は壁に取り付けられた門の開閉レバーを倒した。


 モーターの回る音がして、ガラガラと壁門の鉄格子が上がる音が聞こえた。鉄格子が上りきれば次は扉が開く筈だ。

 来栖は開閉室を出て、警備隊の厩舎へ向かった。

 厩舎に入り、繋がれていた馬に跨ると脚で馬の腹を蹴った。


 馬は勢いよく駆け出した。

 そのまま、開きかけの壁門へと一直線に向かう。

「おい!何してる!?」

「なんで門が開いてるんだ!?」

 背後から聞こえる隊員の声に一切耳を傾けず、来栖は石壁の外へ飛び出した。


「来栖!何やってる!?戻れ!」

 石壁の上から戸狩の声が聞こえた。

 どうやら見つかったようだ。だがもう遅い。あの悪魔を倒すまで戻るつもりは無かった。

「あの馬鹿!」美智花が叫んだ。


 前方に小さく見えていた黒い塊が徐々に大きくなり、その姿がはっきりと見えた。

 それは体高約二メートルほどの牛頭に蜘蛛のような身体をした化け物だった。しかも、その胴体から生えるのは八本の人間の腕だ。間違いない、牛鬼だ。

 牛鬼は八本の腕をせわしなく動かしながら一直線にこちらへ向かって来ていた。どうやら、来栖の存在に気づいた様だ。


 来栖は片手で手綱を操りながら、もう一方の腕で背中のホルスターから、ライフルを抜いた。

 それは国境警備隊に支給されるライフルで、レバーアクションライフルと呼ばれる物だった。

 来栖は片手でライフルのループレバーを持つと、銃身を一回転させた。ループレバーが外れ、一回して元に戻る。同時にガシャンという音が鳴り、銃弾が装填された。スピンコックと呼ばれる装填方法だ。


 来栖は牛鬼の頭に狙いをつけると、引き金を引いた。放たれた銃弾は牛鬼の頭部を掠め、胴体に命中した。

 狙いが逸れた。確実に急所を狙わなければ効果は無いだろう。

 案の定、牛鬼は怯む様子も無く突進してくる。


 来栖は再び銃弾を装填すると、牛鬼に狙いを付けた。揺れる馬上では、狙った場所に当てるのは至難の業だ。

 二発目を撃つ。今度は頭部から生えた角に当たった。

「ゔぼおおおお」牛鬼が雄叫びを上げた。

 牛鬼の速度が速くなる。


 落ち着け、もっとギリギリまで引き付けるんだ。来栖は自分にそう言い聞かせた。

 再び銃弾を装填する。次は直ぐには撃たず、確実に当たる距離を待った。

 来栖も牛鬼もスピードを落とすこと無く一直線に相手に向かって突き進んだ。

 牛鬼が来栖の目の前に迫る。

 牛鬼にぶつかる寸前で来栖はライフルの引き金を引いた。


 パンッという乾いた音が響いて、来栖は地面に投げ出された。

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