桜の樹の下には

郡冷蔵

桜の樹の下には

「桜の樹の下には死体が埋まっている!」


 河川敷にふと見つけた桜並木のあまりにも美しいことに見とれていた木津善治よしはるは、本来あまり受動的あるいは外向的な情動を持ち合わせた人間ではなかった。与えることも受け取ることもせず、ただ自らの内でぐるぐると坩堝るつぼをかき回すのが常であった。しかしそれを自覚していながら、木津は桜の花に惹かれ、そしてその観覧に割り入ってきた女の声には、いくらかの煩わしさを抱いていた。


 ただし後者は、桜が木津の足を動かしたように、木津の首をそちらに振り向かせるだけの力を持ってはいない。背広を小さく浮かせながらズボンのポケットに手を突っ込んだまま、構わず桜を見上げていると、女は木津に並び立つように、桜に一歩踏み出した。


 意識など向けていないのに、視界の端に写ったその動きを眼球は反射的に追っており、そして今度こそ木津の目は、意識は、桜を離れて女に釘付けになった。


 女は、女よりは少女と言うべき形をしていた。

 それは少女が分かりやすく白いセーラーブラウスに身を包んでいたこともあったし、その肩にいわゆるスクールバッグを掛けていたこともあれば、その手足や胸のふくらみにどこか幼いものが残っていることもあった。

 しかし何より彼女が少女であったのは顔だった。木津は思わずして天真爛漫という言葉を思い浮かべる。それ以外に言い様のない笑顔であった。それは目の前の桜を見れば誰もが美しいと感じられるのと同じように、誰もが少女と認めるべき笑顔であった。


 そんな少女の黒い髪に、白いセーラーの肩口に、あるいは濃紺のバッグの上に、桜の桃色がいくつも降り重なっている。またひとつが少女の鼻先へと降り立つと、少女は束の間笑顔を驚きへと変えて、しかしやはりあどけない笑顔へと帰ってくる。

 美しかった。何故それを美しいと感じるのか、木津の内側に答えはない。もっと深く、木津自身が木津自身と認識できていないほどの、根元的な場所からくる、どうしようもなく恐ろしい美しさだった。


「綺麗ですよね。私も好きです。満開などもよいですが、特にこの、散り始めた頃の美しさといえば、そうそう他に類を見るものではありません」


 木津が何かを返すより先に、少女は「でも」と続ける。


「おじさんの後ろ姿は、桜と同じくらい綺麗だと思ったんです」


 その言葉の真意を考えようと視線を上げると、桜の雨が頬を伝った。すっかり枯れた木津の代わりに涙を流すようだった。


「ご存じですか。梶井基次郎『桜の樹の下には』」

「……ああ」


『桜の樹の下には屍体したいが埋まつてゐる!』

 あまりに有名なその序文から始まる、梶井を代表する作品のひとつだった。

 母に勧められて梶井基次郎作品集を開いたのは木津が幼少の時分であったが、ほとんど三十年が経とうとする今でさえ、あのとき脳裏に焼き付いた情景は未だそこに残っている。

 しかしながら、それを名作と認めると同時、木津には、今の木津だからこそ、認めがたい部分もあった。


「この樹の下に死体が埋まっているのなら、俺はここに惹かれない」


 そうだ。人は死を忌むものだ。そのはずだ。

 死体から溶け出した汁を啜って腕を伸ばすが桜なら、それはおおよそ死神のようなものだ。ならば生ける者はそれを避けて然るべきだろう。

 しかし少女は何を馬鹿なとでも言うがごとき雰囲気で肩をすくめる。


「簡単なお話です。ただ置いてある花束よりも、墓石の前に置いてある花束のほうが美しく見えるでしょう。人は死を避けようとするのもひとつの道理でしょう。しかし死は人を惹きつけるものであり、同時我々もまた死に近づかざるを得ないのです。我々は最後には必ずそこに行くよう出来ているのですから」


 少女の姿に似つかわしくない大仰な表現で少女は腕を広げた。彼女の胸の内に桜の花びらが流れていく。生と死を、魂を集める死神の鎌のような腕だった。そのぬらりと輝く曲線は、そこにどうしても触れてしまいたくなる衝動を木津に抱かせた。


「ならばこんなに美しい桜がそうでないはずがない。そこには必ず死があるはずだ。それも大きな、大きな、人を惹きつけてやまない、すり鉢状の流砂のように我々を捕らえて決して離さないほどの甘い死があるはずだ。そうでなくては、私はここに惹かれない」


 少女は姿勢を正して、改めて木津に微笑みを返した。

 桜の樹の下に死体が埋まっているならば、彼女の中にはいったい何人分の死が詰め込まれているのだろうか。


「……そうか」

「そうですとも」


 木津はポケットから己の手を引き抜き、頬を流れようとした涙を手で拭った。

 スーツの袖口にはわずかに線香の匂いが残っていた。

 思えばこの香りもどこか落ち着くような感を抱くものだ。死を悼むのではなく死者を悼むためのものならばそれも頷けた。きっとこの香は死者と家族を近づけるものなのだろう。

 桜の樹の下には死体が埋まっている。

 ひときわ美しい一本には、きっとそれだけ己を惹きつけてやまない死体に根を張って屹立しているに違いない。


「使われますか?」


 少女が差し出した桃色のハンカチを、やや逡巡しながらも木津は受け取った。

 ハンカチは、袖口と同じ匂いがした。


「我々は必ず桜に血を吸われるように出来ている。ならばその桜をせめて盛大に美しく咲かせてやらねばならないでしょう。よく生きましょう。あらゆる物語によって肥えた人肉を食らわせてやれば、散る花びらの一枚一枚にその美しさが宿りましょう。ええ、よくよく、生きましょう。そして必ず死ぬのです」


 なおも溢れ出る涙をハンカチで拭い、ようやく木津が目を開くと、そこには、もう少女はいなかった。ただひとり降りしきる桜の雨の中に涙を落とす木津がいるだけだった。

 返すいとまもなかったハンカチは、まだ木津の手の中に残っている。ほんのわずかでも少女の残滓がそこに残っていないかとハンカチを広げて、そしてその裏に刺繍されていた少女の名前を見て、木津は目を大きく見開いた。

 

 答えを少女は既に告げていた。


 木津は河川敷を夢中で二周三周して、この川辺に咲く桜のうちで最も美しい桜を見つけ出した。それは最もはじめに木津が見上げ、そして少女と会話を交わした場所に咲く桜であった。


 そうだ。桜の樹の下には死体が埋まっている。


 木津はその根元を無我夢中で掘り進めた。爪の間に土が入りこんでも、石片で何度も指先を傷つけても、ひたすらに土を掻き出し、ようやく満足のいくまで穴を掘ると、その中に少女のハンカチをそっと置いて、土を被せた。


 これは信じてもいいことなのだ。


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