第139話『リメイク・ワールド』

 無線機越しに、ギルの声が震えているのがわかる。かなり動揺しているようだ。もう少し段階を踏んで説明してやるべきだっただろうか、とノートンは考えるが、残念ながらそんな余裕はこちらにも残っていなかった。


 、ノートンは腕時計を確かめた。


 新品のはずのそれは、4時5分を指したまま止まっている。

 先程までは動いていたことは知っており、恐らく、止まってから10分くらい経過しているはずなので、今は4時15分くらいだろうか。


 しかし、4時過ぎとは思えないほど、今のスプトーラの空は青く澄んでいた。


 この異変が起こったのは、ちょうど10分ほど前のことだ。

 スプトーラの空を覆う闇が突然晴れ、日が覗いたと思ったら、高く昇ってすぐに沈んでまた夜になって――それを高速で繰り返し、空が明滅し始めたのである。

 そして明滅は目にも止まらぬ速さとなり、空の色は朝の水色と夜の濃紺を足して半分にしたような濃い青色に変わって、現在スプトーラの大地を――黒い粘着性の肉塊が散乱したこの惨状を、森の枝葉の隙間から照らしていた。


 空の色がおかしくなった、その直後。第1部隊にて1人の班員が、この黒い塊に変質したことから惨状は始まる。

 その班員を皮切りに、次々と部隊の人間が溶岩のように溶け出し、最終的にはシーアコットやレムさえも溶けて塊になったのである。


 その、皆の身体がドロドロと黒ずみながら溶け出すさまを直視して、ノートンは生まれて初めて取り乱したが、奇襲を受けていると判断し、即生存者を散開させ、すぐに他の部隊へ連絡を入れた。

 しかし第2部隊のシャロからも、第3部隊のリリアからも反応が返って来ず。

 嫌な予感がしながらも、ノートンは他の隊の持ち場を回り始めたのだ。


 そして散開している第4部隊以外の隊を見て回り、今は最後に確認した第3部隊の持ち場にとどまっているのだが。


「あぁ。完全に全員を確認できたわけじゃないが……どこの部隊も皆、同じように黒い物質に変わっていた。恐らく、俺以外は全員死んでいる」


 ギルにも、自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと落ち着いた声音で話す。

 すると、無線機の向こうのギルが、ひゅっと喉を鳴らしたのがわかった。


 しかし――何故ノートンは生きているのだろう。また、何故シーアコット達は死んだのだろう。同じ場所にいたのに生死が分かれたのは、一体何故なのだろうか。


 この頭上に広がる、明滅を繰り返す空が関係していることは間違いない。

 ただ肝心の関係性がわからない。何故、朝と夜が高速で繰り返すと、皆の身体が溶け始めるのか。それ以前に何故、高速で空が変わっているのか。


 本物の天変地異なのか?

 はたまた能力者による壮大な企みが、この近くで動いているのだろうか?


 現実的に考えれば、後者の方が可能性は高い。

 となると、一体誰がなんの為にこんなことをしているのか。


 ノートンは呟いた。


「――『1枚きりの画用紙リメイク・ワールド』」


 画用紙を白で塗り潰し、上書きをするような能力。

 イツメはそんな風に語っていた。


 それを聞いてノートンは、その能力を抽象的にしか捉えることが出来なかった。

 けれど、もし――『塗り潰す』というのが、天変地異を引き起こし、この世界を強制的に終わらせることなのだとすれば。

 仲間が一斉に死んだことにも、空が狂っていることにも、納得はいく。


 だが、もし本当にそうなのだとしたら、ノートンはどうするべきなのだろう。


 ヘヴンズゲートの『神』を見つけ出し、殺したところで、ノートンが辿り着くのはギルと自分以外誰も生きていない、滅びかけの世界なのではなかろうか。


 そんなことを考えていると、耳に触れたのは、少し揺らいだギルの声だった。


《ノートン……》


「……あ、あぁ、悪い。考え込んでいた」


《死んだって、シャロも、ペレットも……か? フィオネも?》


「……それを、本当に聞きたいのか?」


《……やっぱ、あんまり聞きたくねェ。けど、なんでノートンは平気なんだ? 何がどうしてそうなったんだ? 俺は……どうしたらいい?》


「俺が平気な理由は、俺にもよくわからないんだが……詳しい説明は後でするよ。とにかくギルは待っていてくれ。俺も今からそっちに行く。まずはこの事態を作った犯人を探し出そう。そうしなきゃ、何も始まらないだろうからな」


《……わ、かった》


 震えた声音で返事をして、ギルが通信を切る。


 ――ノートンは数秒だけ目を瞑り、処理の追いつかない情報の波に倒れそうになるのを耐えて、遺跡がある方向へと走り出した。


 ――動揺していたから、だろうか。

 鬼には卓越した察知能力があるため、普段なら気づかないはずがないのだが、ギルのやりとりを見ている女が居たことに、ノートンは気づいていなかった。


 木の影に隠れていた、背の小さなその女は、酷く青色に染まった顔を覗かせる。

 そして青い視線で、遠のいていくノートンの背を追いかけた。


「ノートン……?」


 木漏れ日を受ける女の髪は、鮮やかなピンク色をしていた。

 




 体感で、30分ほど経過した頃。ノートンの告白を聞いて動揺していたギルも、そろそろ落ち着きを取り戻し始めていた。


 なお、落ち着いているというだけだ。

 ノートンから告げられたことは、まだ飲み込めていない。


 本当に皆死んでしまったのだろうか。流石にそれはあり得ない。ノートンが嘘をついているのだろうか。誰かがノートンになりすましているんじゃなかろうか。


 多くの疑問が生じて、ギルを苦しめる。同時に、彼は嫌な胸騒ぎがしていた。


 ノートンが、いつまで経っても来ないのだ。


 道がわからないのかもしれないと、遺跡の入り口付近に戻ったり、1度行った部屋にも訪れたのだが出会わない。すれ違ってしまったのだろうか、などと思って、ギルもまだ入っていないエリアに進んだりしたのだが、やはり居ない。


 こういう時、無線機を使えば解決するとわかっていながら、ギルは頑なに使おうとはしなかった。意地ではない。最悪の可能性を、確定させたくなかったのだ。


 既にこの世界は、ギル以外の全員が死んでいる、という可能性を。


 でも、1人で彼を待ち続けるのも、心が死んでしまいそうだった。


 いっそノートンでなくともいい。他に誰か居ないのだろうか。

 そんなことを思っていると、その願いに神が応えた。


「――やあ、ギル=クライン」


 震えるほどの、低い重たい声がした。呆然としていたからか、その声の主が近づいてきていたことに、ギルは気づいていなかった。

 ぴく、と震えて振り返ると、そこに居たのは白い軍服姿の男だった。


 まばゆい金色の目と髪を持った、整った顔立ちの男だ。

 年齢は30代前半くらいだろうか。そこそこ若い方に見えるのだが、彼から滲み出るオーラというのか何というのか、目に見えない何かが、ギルと彼との間に圧倒的な経験の差があることを示していた。


 神々しいまでの純白の軍服は、金の意匠が施された滑らかなものだった。服には関心のないギルにも、それが上質なものであることはすぐにわかった。

 ただし――松明の煤(すす)だろうか。黒く汚れた跡があった。それも、一箇所ではなく四箇所ほど。更に、払おうとしたのか煤をめちゃくちゃに伸ばした痕跡があった。


 どうやらこの人物は大層ドジなようだ。親近感が湧かないでもない。


 そう思ったのに、どうしてだろうか。

 彼が信用できる人物でないということを、ギルは全身で理解していた。


 じっとりと、汗が噴き出るのを自覚する。彼から向けられている感情が、殺意や憎悪でないことは分かっているのだが、どうしてか息が止まるような思いだった。


 そんなギルの胸中を知ってか知らずか、男は歓迎するように両腕を広げる。


「よくぞここまで来た。外は寒かっただろう。茶を入れたいところだが、生憎食べ物が全て腐ってしまってね。ろくにもてなせず、申し訳ない」


「……それは、別にいいっすけど。アンタは……」


「あぁ、申し遅れた! 私はアドだ。アードルフを縮めてアド」


「アド……」


「年齢は秘密、好きなものはアップルパイ。苦手なものはタコ、人参、キノコだ。いやぁ、これでも矯正した方なんだよ。昔はほとんど食べられなくてね」


「……そういうことじゃねェんだけど」


 ギルは目つきを鋭くさせ、緋色の目で男――アドを射抜く。


 大体、状況がわかってきた。

 この男は、今起こっている異常事態に深く関与している。そして、混乱の最中に放っておかれているギルを、からかいに来たか――もしくは、処理しに来たか。


 五感を意識的に総動員し、ギルはアドの様子に細心の注意を払った。


 それを気取(けど)ったのか、アドは一瞬閉口したが、すぐに苦笑して、


「意地悪が過ぎたな。改めて、私はアードルフ=ワルツェネグ。『天国の番人ヘヴンズゲート』の統率者にして、『1枚きりの画用紙リメイク・ワールド』の能力者だ」


「……じゃあ、お前が『神様』でいいんだな?」


「その呼び名は誰が言って……いや、まぁ、そうだな。私もまだ殺されたくない。茶番は抜きにして本題に移ろう。今から私は、君の問いに全て答える。幸い時間はたっぷりとあるからな、なんでも聞いてほしい。――何が知りたい?」


 やはり何かを知っている様子で、目をすがめてギルを見るアド。その悠然とした構え方が先刻のフィオネを連想させ、ギルはアドも同類の人間だと判断した。


「今起きてる異常現象について、話してもらいてェな」


 そう言うと、アドは『わかった』と頷いた。

 ゆるくウェーブのかかった前髪が揺れ、灯火を反射してかすかに煌めく。


「そうだな、どこから話すか……いや、待て。ここは空気が悪い。もう少し綺麗な部屋が奥にある、そこへ移ろう。話は移動をしながらするよ」


 その痩躯をひるがえし、来た道を戻っていくアド。

 遠ざかる背を見たギルの手が、太腿に装着した携帯用の革鞘に伸びた。が、結局それには触れなかった。途中で手を止めて、彼はアドについて行くことにした。





 アドは語り始めた。


 ――人が溶け出し、大勢の人間が一斉に亡くなる異常現象。それは私の『1枚きりの画用紙』によるものに他ならない。

 ただ、その原理を話す前に、少し前提の話をしなければいけない。


 ギル=クライン。君は『世界の終わり』の先を知っているか?


 終わりというのは、ここでの定義は『人類の滅亡』としよう。


 この惑星よりも大きな隕石との衝突でも、世界を呑むほどの大洪水でも、あるいは全国家による戦争でもいい。なんらかの理由で人類が滅んだ時。


 世界は――『再編』する。

 死んで肉体を失った魂を回収し、荒廃した世界を0として再び動き出すんだ。


 人が生まれる前の純粋で無垢な世界と、荒廃して人が居なくなった世界の文明レベルはほぼ同一だろう? せいぜいあるのは遺物があるかないかの違いだけ。だから世界はその状態を0と認め、もう1度歴史を繰り返すんだ。

 回収した魂に、あるべき時に再び肉体を与えてね。


 転生、といった方がわかりやすいか。


 ちなみに実際の人の転生は、我々がイメージするものとは違う。

 普通、我々はアクネ教において説かれている『転生』をイメージするだろう?


 うん? アクネ教の転生を知らない? そうかそうか、君は神が嫌いなんだな。省略するとアクネ教における転生は、鳥になったり花になったりを経て人になり、人の生が終わればまた別の生命として、この世に生まれ落ちるという解釈だ。


 だが実際は、誰が何に生まれる、というのは決定されたものなんだよ。

 人が人として生まれる、どころの話ではない。たとえば仮にギル=クライン、君が死ぬことがあったら、次の世界でもギル=クラインとして生まれるんだ。


 そして、それは皆同じだ。全員が前の世界の自分と全く同じ形で生まれてくる。

 それがどういうことかわかるか? 


 人類は何度生まれ変わっても、同じ人生しか歩まない、歩めないんだ。どこに生まれてどんなことをして、どのように死ぬかも全て同じ。

 だって、違う人生を歩めるんだとしたら、前世では生まれた人間が生まれない、なんてことが起きるわけだからな。それでは『世界の決定』から外れてしまう。


 さて、前提は終了だ。


 私の『1枚きりの画用紙』とは、今話したことを全て高速で行う能力なんだ。


 死んだ肉体の魂を世界に還元し、滅んだ世界を0として、再び肉体と魂を与えた人類に文明を作らせる――その全てを一瞬で終わらせる。

 一瞬と言っても、こうして話をするくらいの時間はかかるんだが、まぁ本来かかる時間に比べれば一瞬だろう。


 なおこの能力を使用すると、魂を無理やり還元するので人類は肉体だけとなり、そこに現実時間の倍速が加わるためそれら肉体は全て黒く腐り、最終的には自らが生み出したガスやら体液やらで溶けるようだ。君が見たのはそれだな。


 あぁ、そうそう。その現象には人によって時差があるらしいな。長命の種族や、不死の人間なんかは、周りより遅れて腐敗化する……らしい。


 そう、ギル=クライン。君も腐敗化の対象にあるんだ。魂そのものが1度世界に還元されるわけだからな。特殊能力が魂に付随する以上、残された身体は神の寵愛を得られず腐敗するしかない。

 すなわち君は、本来は体験しないはずの『死』の感覚を得るんだ。


 しかし恐れることはない。君はすぐにギル=クラインとして生まれ直し、再び生きることが出来るからな。もっとも、『すぐ』というのは倍速された世界の進みについていける私視点の話だが。実際は何千年、何万年先になるんだろうな。


 あぁ、そうなんだよ。私は能力者本人だから、魂が還元されることはなくてね。死なずに次の世界に行くから、世界の記憶を引き継げるんだよ。


 ――世界の記憶を引き継ぐ。


 それはつまり、世界の決定への干渉可能を意味する。

 生まれ変わった君達は、前の世界の記憶がないために『世界の決定』だと知らないまま人生を歩むだろうが、私だけはそれを無視して動くことが出来るんだ。


 そして、世界の決定というレールから、君達を外れさせてやることも可能だ。

 だって、そうだろう? 本来は何事もなく大人になるはずだった人間を、たとえば私が監禁したとしたら。その時点で、その人物は『世界の決定』から外れる。


 ――面白い話だろう? 前の世界で選ばなかった選択肢を選んだことで、あったかもしれない世界を実際に体験できるんだ。


 私はこれを利用して、色んな人生を歩んできたよ。

 数学者、画家、発明家。様々な職についた。パティシエを目指した時もあったが、それだけは何故か上手くいかなかったな。まぁ、そういう時もあるだろう。


 あぁ、今回? 今回なろうと思ったのは、世界の支配者だ。かっこいいだろう。


 いつだったか。ふと、遊び飽きたことがきっかけでね。

 せっかくなら、もっと大きなことに使えないかと思い、考えたんだ。私が全ての国を統治し、全ての人間を幸福にできる世界があるんじゃないかと。


 しかし流石に難しいな、世界征服というのは。

 人材を集めて、拠点を築いて、鍵となる人間が死なないよう気を配り、誰かに裏切られないよう牽制し――大忙しだった。目が回る、というものを実感したよ。


 ただ、非常に面白かったね。たとえば、今回の世界では敵対しているジュリオット=ロミュルダーが私の仲間になった世界もあった。


 おや、その表情。思い当たる節があるのか。

 あぁ、そういえば君は、ヴァスティハス収容監獄のエリア『サード』に収監されていたんだったな。なるほど、そこでDr.ロミュルダーと遭遇したわけだ。


 そう、大抵のものは現実時間の経過と共に腐ったり壊れたりするから、最初は前の世界の人間やものを持ち込めず、せっかくの成果もリセットされ、それが壁になっていたんだが――どの世界からだっただろうか。それらが可能になったんだ。

 範囲外で起きた事の影響を一切受けない結界を作る、という能力を持った、アズノアという少女に出会ったおかげでな。


 うん? 原理? あぁ、ジュリオット=ロミュルダーのように、同じ魂を持つ人間が2人同時に存在することについての疑問か。


 それは私も不思議に思って、長いこと解明しようとしているんだが、今のところさっぱりなんだなこれが。





「――ただ、その謎を解明するためにも、次の世界で私が何度目かの挑戦をするためにも必要だったアズノアは、ヨハンが殺してしまった」


 遺跡の通路をずっと進み、2人は大きな扉に遭遇する。

 重そうな石の扉だったが、アドは手のひらを当て、体重をかけて押し開けた。


「殺さざるを得ない状況だったのはわかっているんだ。君に籠絡されたアズノアが君達の手に渡って、君達が『世界の決定』に干渉できるようになると、こちらとしては少し厄介だったからな。しかし、彼女を失ったのはやはり痛手だった」


 そう言って、アドはギルの方を振り向いた。

 トパーズの視線を受けながら、続くように扉を押し開けたギルが目にしたのは、地下にあるとは思えないほどただっ広い空間だった。


 あまりに広すぎて、天井や部屋の端は見えない。

 全体的に暗いのだが、部屋の奥の方に高さ20メートルほどの石像があり、その石像を囲むようにして並んだ、ギルと同じくらいの高さの結晶が光り輝いていた。


 さらさらと水の音が聞こえてふと見ると、音の発生源は掘った地面に埋め込まれたらしい金の水路だった。地上から流れてきた水が循環しているようだ。


 一体何のための部屋なのだろう。宗教部屋だろうか。


 そんなことを、どこか気の抜けたギルが考えていると、


「それを始めとして、今回は振り返らなければいけない点が多々あった」


「――ッ!!」


 空間が歪み始める。一瞬、周囲の形が変わったのかと錯覚するが、足元の感覚はそのままであったことから、これはギルの視界の問題だと理解。目を凝らしたが、視界が明瞭になることはなく、次第にアドの輪郭まで歪んでいった。

 当然初めての感覚であったが、この状態をギルは、倍速で進む世界の回転が限界に達したその弊害なのだろうな、となんとなく理解した。


「だから――もうこの世界も終いだ」


 歪んだ世界の中、遠ざかるアドの声がすれ違って、アドがこの部屋を出ようとしているのがわかった。次の世界に到達する前に、何かと準備が必要なのだろう。

 彼の言動を、世界の変化を、ギルはのんびりと理解して、


「驚いたなァ。夢が叶わねェから世界も滅ぼすとか、勝手の程度も神様みてェだ」


「ははは、ありがとう。褒め言葉として受け取るよ」


 世界が終わる直前にしては、あまりにも場違いなやりとりを交わす。


 焦りや屈辱はなかった。不安も恐怖もない。

 あるのは、高揚に似た感情だった。


 彼の話を聞いて、ギルはあることに気づいたのだ。


 そしてこのことには、恐らくアドは気がついていない。


 アドは前の世界の人間を、アズノアの結界に閉じ込めることで持ち込み、ドッペルゲンガー的な現象を引き起こしていたようだが――ギルは知っている。

 アズノアの結界の外に居ながら、この世界に同時に存在していた人間を。


「また会おう、ギル=クライン」


 遠ざかって聞こえるアドの声を背に受けて、ギルは悪い笑みで応えた。




 そして、世界は滅亡を迎えた。


 その後すぐ再生に向かって動き出し、世界はそっくりそのままに作られる。

 同じ人間が同じことを繰り返し、同じ終わり方をするという喜劇が、光のような速さで進められていった。




 ある時、世界の倍速がぴたりと止められた。


 その日、ギル=クラインは、松明の火が完全に消えた遺跡から出る。

 彼を迎え入れたのは、澄んだ青空と眩しい陽の光だった。


 彼は思い出す。

 あの日エリア『サード』で、アズノアに泣きながら言われた言葉を。


《――アナ、アナタ、アナ、ナ、ナ、ナ、ナンカイ、メ?》


「……何回目だろうなァ」


 そう呟いて伸びをして、ギルは身体をほぐし始める。

 肩を回し、腰を捻って、屈伸をする。戦う時の前準備――ドゥラマ王国で習い、ヘヴンズゲートとの戦争の前にもジャックとやった、ドゥラマ式準備運動だ。


「次は、俺が『ドッペルゲンガー』側か。待て、今日何日だ?」


 肝心の時間がわからず、首を捻るギル。

 空間の歪みが解消され、世界の倍速が止まったため、恐らく今日がアドの『やり直したいターニングポイント』だったのだと思うのだが、いかんせんアドがどのタイミングで間違えたのかをギルは知らない。つまり、今が何時(いつ)かがわからない。


「この辺マジで森しかねェから、日にちがわかるものが……いや」


 瞬間、ギルは勢いよく窪地から駆け上がり、スプトーラ大森林を突っ切った。

 すると、予想通りだ。スプトーラ学院と思しき建物の近くに1人、何やらクリップボードと鉛筆を持っている、白装束の男が歩いていた。


 ギルは木を登って枝を駆使し、猿のようにすいすいと森の中を移動。

 男の頭上に来ると、体当たりをするように飛び降りた。


「わっ!?」


 突然降ってきたギルに飛びつかれ、男は後ろへ転倒。

 地面に後頭部を打ちつけて、そのまま腹にのしかかられる。


「……って、ギル=クライン!?」


 恐る恐る目を開けた男は、ギルを見るなり愕然とした。

 その口をギルは片手で押さえつけ、もう一方の手の人差し指を立てて、自らの口元に添え『しー』と囁き、


「今、何月の何日か教えてくれるか?」


「えっ……す、11番目スコーピオンの、にっ、24日だが……お前は、先日ヴァスティハス監獄に収容されたはずでは……!?」


「オーケー、わかった。ありがとうな」


 そう言ってギルは、携帯していた革鞘に手を伸ばそうとし、ふと中のナイフが錆びていることに気づいて、男の喉元に手をかける。


 数分後――動かなくなった男の傍で、天使に擬態したギルは白いフードを被り、羽織をはためかせて笑った。


「さァて、世界の記憶を引き継いでやるかァ」











— 第5章 贖罪の天使 編・完 —

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