幕間3『天から堕落する時』
――もう、何が本当の気持ちだったのか、わからなくなってしまった。
感情も考えも全てがごちゃ混ぜになってしまって、パニックになって、訳の分からない涙が頬を伝っていく。けれどその雫をセレーネの指が掬い取り、複雑に絡まった感情を1つ1つ解いていくように、彼女は優しい声で言葉を紡ぎ始めた。
「ペレットくん、貴方また自己嫌悪してるのね。責任感が強いことは大事だし、私もすぐ自分が嫌いになるからあまり人のことは言えないけど、涙が出るまで自分を追い込む必要はないと思うわ」
「違っ……違うん、です……」
この涙は別に、なんでもないのだ。悲しいわけでも苦しいわけでもない。だから可哀想な奴だと思わないで欲しくて、同情はされたくなくて、自分でも涙を拭う。しかし、慌てれば慌てるほど涙は止まらなかった。
「そうね。確かに、私に会うためじゃなかったかもしれない。ペレットくんの自己満足のために私は生き返ったのかもしれない……」
セレーネは柔らかく目尻を下げながら、指の背でペレットの頬を撫でる。どうやら蘇生態のセレーネよりもペレットの方が体温が低いようで、黒髪の少年は顔をなぞっていく人間らしいその温かさにひたすら困惑していた。
「でも、貴方気づいてる? ペレットくんって、貴方が思っているよりずーーっと良い人なのよ?」
「……いいえ、そんなことは」
「責任感が強いところもそうだし、こうして……目の下に隈まで作ってる頑張り屋なところもそうね。何をしてたのか知らないけれど、睡眠は取らなきゃダメよ?」
それから――と次々にペレットの長所を挙げていくセレーネ。だが、そのどれもがペレットには言われる覚えのない言葉だ。自分はそんなに出来た人間ではない。セレーネが見ているのは全て、セレーネの想像で出来たペレットの虚像である。
それを彼女は果たして、理解しているのだろうか。
「あと、恥ずかしくなるくらい良い子よね。悪ぶってるけど。暗殺者時代から性根の良さが隠しきれてないの、いい加減に自覚してるかしら?」
「ちが、う……俺は、人の顔色ばっかり伺ってるような……そういう、奴です」
「そうね、状況を把握するのが上手いから、暗殺訓練の時はよくフォローしてもらったわね。貴方が居なければ、私はもっと早くに死んでいたはずよ」
「……おれは、誰かの、指示がないと……動け、ません……」
「そうね、言いつけやルールに従う真面目なところを尊敬しているわ。仮に貴方が誰かの従者だったなら、貴方ほど
ペレットの自己嫌悪が全て少女にひっくり返され、長所として肯定される――それによって、自分がさも良い人間であるかのような錯覚がした。
そんなはずはないとわかっているのに――立て続けに自分の所業を肯定されることで、自分でも自分がわからなくなってしまったのだ。
「……おれ、は」
そこで、言葉が喉の奥でつっかえる。代わりに漏れ出たのは嗚咽だった。目頭がじゅっと熱くなり、視界がぼやけ、しゃくりを上げて身体を震わせる。
だめだ。泣いていいのは、自分じゃないのに。
「――1人って、辛いわよね。全部が敵で、誰も信用ならなくて」
「……」
「でも、私を生き返らせるために貴方は頑張ってた……それだけで、私は凄く嬉しいの。この際理由なんてどうでも良いのよ。私が幸せなんだから」
ペレットの手を握る力が、グッと強められる。少女と言えど彼女も暗殺者だ。訓練を重ねたその握力は、男のペレットでもちょっとやそっとでは振り払えないほど強い。だが、その力強さに、不思議と心が晴れていくような心地がした。
「どうか、自分を責めないで。泣いてるペレットくんも、自己嫌悪してるペレットくんも、どれも貴方だから私は好きだけど……貴方が幸せでないと私は苦しいわ」
「です、が……」
「――だから、今から幸せになれる道を2人で探しましょう」
セレーネは
途端、ペレットの心の中で渦を巻いていた、暗く濁った自己嫌悪とどす黒い保身の感情が温かく包まれて霧散した。
「……!? 今から、って……」
「もう、この組織にいられないのは明白だわ。過去に助けてくれた恩はあるけど、恩の分だけ私達働いたはずだもの。……あ、そうね、愛の逃避行をしましょう!」
「……は、あ?」
しゃくりが止まらないのと鼻声のせいもあり、かなり間抜けな声が飛び出す。
でも、それだけに彼女からの提案は突飛なものだった。愛の逃避行。愛という点には目を瞑るが、それはつまり、この組織から逃げ出すということなのか。一体、こんなちっぽけな自分を連れてどこへ行こうというのだ。
「もちろん、ペレットくんが楽しいと思える場所に行きましょう。ヘヴンズゲートの属国には行きたくないから……えぇっと、北と中央以外かしら? 安全面を考えるなら東ね。路銀は悪いんだけど、少しの間ペレットくんに融通して欲しいの」
「ま……って、ください」
突然の事すぎて、理解が追いつかない。本気でここから出ようとしているのか、一体どうやって? この学院は警備も厳しく情報共有もすぐにされる。脱走しようとしたことがバレれば、すぐに捕まるか殺されるだろう。
ましてやペレットはもう、用済みになっているのだ。ウェーデンの殺戮兵器を完成させた以上、あとは生きてようが死んでようが組織にとって大した差はない。
今度組織にとって不都合なことがあれば、今までのように『殺戮兵器を作れる唯一の人物だから』という理由で見逃してくれることはなくなるだろう。
ペレット自身はもう、死んでも構わないと思っているが、せっかく生き返らせたセレーネを置いてけぼりにするのも、再び殺してしまうのも不本意だ。
けれど、
「だって、ここに居て貴方は幸せになれるの? ペレットくん」
「……いえ。でも……」
――確かに、ここに居ても幸せになることはないだろう。
それに利用され続けて、あの男に望み通りの世界を見せるのははっきり言って不服である。もしもあと少しペレットが馬鹿な男であれば、『利用されるくらいなら逃げたほうが良い』と、そう言って彼女と逃げ出していたことだろう。
しかし、逃げたところで、だ。それによって自分とセレーネが敵対していると組織に見做された場合、奴らは確実に自分達を始末しにくるはずだ。
何故ならば2人は、同じ学校で古代ウェーデン語を習得し、暗殺と機械について知り尽くした世界随一の技術者なのだ。殺戮兵器に似たようなものを量産される可能性がある以上、野放しにして時間を与えるのは危険だと考えるはず。
そうなった場合、『
「……勝ち目のない逃亡は、したくありません。これ以上……貴方を、死なせたくないんです。悔しい、っスけど……戦力も後ろ盾もない以上、ヘヴンズゲートと敵対するような真似は、自殺行為に……」
そう、何度目かの弱音をペレットが吐いた時。セレーネはこの場に不似合いの、とても楽しそうな笑みを浮かべて『あぁ、』と呟いた。
「それじゃあ、もう1度戦争屋につきましょう!」
「っ、え?」
突如飛び出した言葉にペレットは目を見開き、耳を疑う。
セレーネは一応、戦争屋とは敵対関係だったはずだ。なのにどうして、わざわざそこへ行こうというのだ。そもそも、
「……それだけは、無理ですよ。だって俺……裏切り者なんスよ」
ペレットは彼らを裏切った。彼らを裏切り、攻撃し、陥れようとした。拠点を燃やしたのだって自分だ。変な感情を抱かないように、決別の意も込めて徹底的に裏切り者になりきった。今更あそこに戻れるはずがない。
「けど、アンラヴェルの時……仲間と喋ってる貴方は、楽しそうだったわ」
「……」
「ああやって遠慮なしに喋ってくれるペレットくん見たことなくて、かなり妬いたけど……でも、今思えばあそこが貴方にとって、1番幸せな場所だと思うの」
「……」
――確かに、生きてて1番楽しかったのは、あそこに居れた時間だと思う。
セレーネの『記憶の鍵』で何もかもを忘れていて、生まれて初めて馬鹿みたいにふざけることができて――メンバーに好かれなければ、生き残らなければという焦りはあったが、それでも今よりずっと楽だった。
相変わらずシャロのことは嫌いだが、それでも、あの人も――ただ悪いだけの人ではないのはわかっているのだ。
ペレットによく似て傲慢なところと、ペレットとは対照的な、目も眩んでしまうような眩い命の在り方に――自分自身を愛し、素直に生きるその生き方に、自分が同族嫌悪と嫉妬の感情を勝手に併せ持っていただけで。
「――俺は果たして、彼らに許してもらえるんでしょうか」
この世界において裏切りは、もっとも憎むべき行為の1つだ。それに相手がフィオネ達となれば、尚更恨まれる行いである。
計画を掻き乱した自分のことを、果たしてどう思っているか――当然、受け入れられる気も、許される気も全くしていないが、
「もし許されなかったら、その時はその時よ。諦めて、森の湖畔に家を建てて、のんびりと余生を送りましょう、2人で」
「……本当に、ついてきてくれるんですか?」
「えぇ。逆に、私をこんな組織に1人ぼっちにさせる気?」
挑発的な笑みを向けられて、ペレットは肩を震わせながらくしゃりと笑う。
「――それも、そう、っスね」
白装束の袖で涙をそっと拭い、鼻をすする。
なんだか、身体が軽くなったような気がする。今ならなんでも出来ると思えた。やはりセレーネという少女は偉大なのだ、とペレットは心の底から思い知る。
「……じゃあ、俺……突然なんスけど、ひとつ、セレーネさんに手伝って欲しいことがあるんです。お願い、しても良いですか?」
「えぇ、何かしら? ペレットくんのお願いならなんでも聞くわ。『結婚してください』ってお願いだと、1番嬉しいんだけれど」
「残念ながら違います。――実は……」
――そうして、ペレットが胸中を全て彼女に打ち明けた時、セレーネは驚いたような顔をしてから『やるわ』と一言強気に答えた。
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